レポート

まちづくりセミナー2014

まちづくりセミナー2014 第二回講演録 講師 坂口祐氏

2015/06/09 

テーマ「物語を届ける仕事 物語がつなぐ新たな可能性」

 

 皆さん、こんにちは。デザイナーの坂口祐です。四国の高松から来ました。昨日、高岡の古い町家を改装したゲストハウスに1泊して、今日は富山に来てすごく美味しい魚をいただき、とても楽しんでおります。

 私は神奈川県茅ヶ崎出身の、1980年生まれです。2010年に四国の高松に移住して、デザインの仕事をしています。移住後に、私の祖母が四国八十八カ所霊場の40番霊場の出身で、僕に1/4四国の血が入っていたことを知りました。

 

 

■食材が付く雑誌「四国食べる通信」

 今は、高松でデザインの仕事をしています。20145月に株式会社四国食べる通信を四国の仲間と立ち上げて、皆さんの手元に配った「四国食べる通信」という雑誌を作り、私はそのデザインと写真を担当しています。

 どんな雑誌かというと、段ボールの箱の中に雑誌と食材が付いてきます。雑誌にオモチャが付いてくるディアゴスティーニの食材版だと考えてください。その食材をくるむ地元のローカル新聞も、意外と県外の人から喜ばれています。

メンバーは、約8人。食材の発送や取材などをしています。今は5号目で、これまでに鰹漁師や醤油屋、ニンニクを作られている方、豚農家、スダチ農家など色々な生産者の取材をし、それぞれの物語を紹介する仕事をしています。皆さん本当にいい顔をしているんです。カメラマンとして楽しいのは、いい笑顔をする人たちに出会えることです。また、誌面では、食材のレシピも掲載しています。実は生産者自身も新しい調理の仕方を知りたいんですね。なので、色々なカフェのシェフや大阪や東京で活躍している料理人の方とコラボレーションをして、新しい調理法を毎回開発しています。

 

■食と音楽を同時に楽しめるイベント

 

四国食べる通信では様々なイベントも各地で開催しています。これは、「EATBEAT!(イートビート)」という堀田裕介さんとヘンリーワークさんという2人のユニットによる食と音楽のライブパフォーマンスです。そのイベントでは、堀田さんが調理している時の音や、野菜を煮ている音、みんなでそうめんを啜って食べている音など、リアルタイムで収録して、どんどん組み込んで作曲していきます。本当に楽しくて料理も美味しいという、食と音楽を同時に楽しめるイベントです。今後も、四国の何カ所で開催していく予定です。こういうイベントを通して、東京から産地に来てもらったり、産地で経験したりという交流をしながら、四国の食を紹介しています。

 

■「CSA

 

 「食べる通信」のサービスは、一見すると食材を発送する既存のサービスとさして変わらないのではと思いますが、実は最も大きな違いは「CSA」という考え方にあります。これは「コミュニティ・サポーティッド・アグリカルチャー」といって、消費者のみんなで生産者を応援しようという活動のことです。つまり、生産者は常に自然と向き合って色々な農産物を作っているので、天候のリスクがあるんです。「台風が来たらリンゴが落ちてとれなくなった」「牡蠣が今年は不良だ」というようなニュースがよく流れていますが、そういうのを見ても「今年のリンゴ農家さんは大変なんだな」と一瞬頭をよぎって終わってしまうんです。そこで、僕らはフェイスブックに購読者用の秘密のグループを作って、例えば消費者が「こんなふうに料理をしましたよ」と書き込んだり、生産者が「今年は美味しい芋がとれましたよ」と伝えたりと、生産者と消費者が交流するようなスペースを作っています。

 我々は、この「食べる通信」という運動を各地で起こしています。元々は2014年の9月に東北で始まったのですが、その第2弾として四国で始まりました。東北で有機農法で無農薬・無肥料のお米を作られている菊池さんという方が、「一生のお願いです」というタイトルの書き込みをされたんですね。その日は長雨で土がぬかるみ、収穫に機械が使えなくなり、全部手で収穫しないと、その年のお米が全く収量できないという状況になってしまいました。人力でやるには100人規模の人が必要だということで、「皆さんお願いですから手伝ってください」と言ったら、東京など各地から何人もの人が来て収穫を助けたり、収穫に来た人をもてなす食事作りを手伝ったり、それ以外の生産者が食材を送ってくれたり、そういう交流が行われました。

 こういうふうに普段僕らが見過ごしてしまうような自然災害や生産者が抱えている色々な問題を消費者が自分事として支えて、日本の一次産業や食文化を守っていこうというのが、「CSA」という考え方であり、それが僕らの「食べる通信」にある根幹の考え方です。

 先ほどの「一生のお願いです」みたいなヘビーな内容だけでなく、消費者が「届いた食材で料理しましたよ」とアップすると、生産者から「こんなに美味しそうに調理してくれてありがとうございます」と反応があったり、とにかく投稿写真のクオリティが高くて美味しそうな料理写真がいっぱい上がります。皆さん料理が上手で面白いですね。そんなふうにフェイスブックで色々なやり取りをするのが「食べる通信」です。

 

■パッケージデザイン

 

 最近、農業は6次産業化と言われていますが、生産者は生産物を加工して流通にのせるところまではできないので、我々が農業のコンサルティングみたいにパッケージのデザインから流通の部分をお手伝いしています。例えば、「オリーブの新漬け」という商品は、アク抜きしたオリーブの実なのですが、そのパッケージデザインをさせて頂いています。このパッケージデザインは、収穫体験をして食べた時のオリーブの実が宝石みたいにキラキラしていたので、それを鳥がつまんで瀬戸内海の海水に浸っているようなストーリーに、「瀬戸内色の宝石」というコピーをつけて作りました。

 

           デザインの仕事・・・さぬき庵治石硝子

 地元の産品で「さぬき庵治石硝子」というガラス作品があって、写真のブルーの硝子は硝子作家の杉山さんという女性の作品です。実は瀬戸内海は石文化がすごく発達していて、色々な島や瀬戸内海の陸地側でも色々な石が採れます。世界的に有名な彫刻家・イサムノグチさんのアトリエが五剣山という山の麓にあるのですが、そこで採れる石が庵治石という世界的に高級な墓石の石材なんです。硬くてきめの細かい石です。この石を硝子に溶かして、硝子作品を創っている杉山さんは、富山で硝子工芸を学んで、高松にUターンで戻ってきた方です。その彼女から「庵治石硝子をやりたいんだ」という相談を受けました。ブランド化する時に、「物の背景のブランディングストーリーを作ってほしい」と言われて、私は「イサムノグチが愛した庵治石を硝子に溶かしたら瀬戸内海色になりました」というストーリーでロゴやパッケージをつくろうと思い、五剣山の形をしたロックアイスが溶けると瀬戸内海色になるというロゴのデザインをさせてもらいました。

 「物語を届けるしごと」と言ったように、デザインといっても、表面的なものだけでなく、その背景にあるストーリーなども一緒に伝えるというスタイルで、いつもデザインの仕事をしています。

 

■雑誌「せとうち暮らし」

 

 瀬戸内海の島の暮らしを紹介している「せとうち暮らし」という雑誌があります。瀬戸内海には138島の有人島があって、そこに50万人ほど、結構な人が住んでいるんです。138島全部にそれぞれ違う文化や産業や暮らしがあって、そういうものを伝えている雑誌です。もし興味がありましたら後ほど見てください。その雑誌の写真をしています。

 島のひとつに、直島があります。アートの島として有名で、四国の中で最も外国人が来ている島です。考古学者の乗松さんと一緒に瀬戸内海の島を歩くと、アートとは全然違う視点で見えるんです。例えば、僕らの目からしたら、単なる石ころなのですが、実は製塩土器といって、1500年前のお塩を作るために海水をくべて火で炊いてお塩を作っていた土器の破片が、アートの島の海岸に転がっているんです。海岸でお塩を作っていたという文化があるんですね。また、小豆島はそうめんが有名なのですが、昔はそうめんを作る時に小麦粉を水車でついていたんです。その水車の跡がひょっとしたら残っているんじゃないかと、夏に仕事の合間を縫って考古学者の乗松さんと一緒に水車の痕跡を探しました。最終的に本当の水車が残っているところを見つけましたが、そういうようなことも取材しながら記事にしています。

 島は他の開発の波から逃れているので、お祭りや食など島固有の文化が残っています。そういうものを今のうちにちゃんと記録して残しておくことが僕らの使命だと思っています。僕が移住してからの間に知り合ったお年寄りが、毎年亡くなっていくんですね。「もっと話を聞いておけば良かったな」「もっと話を聞いて記録しておくということをやっておかないといけないな」ということで、この雑誌や自身のウェブサイトを通して、写真や文章で記録するということをライフワークにしています。

 

           雑誌「せとうち暮らし」・・・女木島の女人禁制のお祭り

 

 女木島という島は、高松からフェリーで20分ぐらいで行けるところに浮かんでいる小さな島です。別名「鬼ヶ島」として有名で、鬼ヶ島伝説が残っている島なのですが、県庁所在地のターミナル駅からフェリーで20分ぐらいで行ける島というのは世界的にもすごく珍しいんですね。瀬戸内海は地中海と比較されやすいのですが、地中海の島は船でも6時間ぐらいかかります。ですが、女木島は都市部から非常に近い島でありながらも、古い島固有のお祭が残っています。このお祭りは女人禁制で、太鼓台の上に毎年選ばれた男の子が乗って太鼓を叩くのですが、その太鼓を上から下にひっくり返して転がしながら、男の子たちを鍛えて青年にしていきます。島の神様に喜んでもらうために、男の勇姿を見せるというお祭りなんですね。女人禁制のお祭りなので、男の子たちが来年このお祭りに出ることが決まった瞬間から、家でお母さんにご飯をよそってもらうのはダメなんです。お父さんからじゃないとご飯は受け取っちゃいけないというぐらい厳しい文化がまだ残っているんですね。そういうようなことも記録しています。

 

           小豆島中山の郷土史

 

 小豆島は3万人ぐらいの結構大きな島で、その島の中心部には農村歌舞伎という文化が残っている中山という地域があります。そこから「郷土史を作ってください」という依頼があって、郷土史のデザインや取材を担当しています。

 農村歌舞伎会長の矢田さんという70歳ぐらいの男性に、昔の文化を聞いていたのですが、昔は道路がなかったので、島の真ん中から周辺の海に行くのはものすごく大変だったんですね。ただでさえ島は都市部から切り離されているので、貧しく厳しい生活を強いられて大変なのに、そこからまた真ん中の中山という地域に行くのにものすごく大変だったと。だから、生きるための知恵がものすごく詰まっているんですね。そういった知恵の一つひとつを拾い出して記事にしているのですが、昔、若い人たちは港町に彼女に会いにいくための、夜這い道という山の尾根線を通って会いに行っていたんですね。山の中を切り開いていくような道なのですが、70歳のおじいちゃんが「俺、夜這い道を知っているから、お前案内してやるよ」と言って先頭で鎌を持って道を切り開いていくんです。その後を、「せとうち暮らし」の編集長がついていくのですが、34時間ぐらいしてから、そのおじいちゃんが「いかん、道が分からんようになってもうた」と()。半ば遭難してしまって、GPSもつながらないような状態で、どうしたらいいんだと。最終的に竹藪を抜けた瞬間、向こうに町が見えた瞬間を写真に残し、6時間ぐらいかけて帰りました。昔の人たちはとにかく険しい道を提灯を持って山の向こうの恋人に会いにいって、また帰ってくるということをしていたんだな。昔の人は生きるエネルギーが有り余っていてすごいなと思いました。そのおじいちゃんに色々なことを教えてもらいながら郷土史を作っていますね。

 

           ウェブサイト

 

 他にも山間集落の仕事は結構多くて、自治体から地名がなくなっている五郷という地域から「情報発信をしたい」と頼まれて、地元の郷土料理を地元のお母さんたちと一緒に作ったり、パソコン教室を開いたりしています。パソコン教室では、ブログの書き方などを教えているのですが、難しいのは横文字が一切NGなんですね。ユーザーやアカウントという言葉が通じないので、全部日本語に直しながら説明をしていますが、皆さんITリテラシーを飛び越えるぐらいモチベーションが高くて気概がすごくあって、逆に元気をもらうような会でしたね。地元の方がブログを書くようなウェブサイトやデザインを作りました。

 他にも、香川県からの委託でやった「せとうち島手帖」という島の案内のサイトや、地元のお寺のウェブサイト、瀬戸内国際芸術祭のボランティアサポートの「こえび隊」のホームページもしています。

 

■全国に2箇所しかない漆芸研究所

 

 実は香川県は、漆が有名なんですね。若い人たちが国宝級の漆芸家さんに学べる、漆芸研究所という施設があります。それが日本には輪島と香川県の2箇所にだけあるんです。香川県高松市にある香川漆芸研究所で学んだ若い人たちが「森羅」というブランドを作って、それを「世の中に売り出したい」ということで、僕はそのブランディングやウェブサイトのお手伝いをしました。他には、地元にできたゲストハウスのサイトや、2012年から始まった大人気のイベント「瀬戸内生活工芸祭」のサイトなどをしています。それ以外にも、漆作家さんの情報発信やホームページのデザインが多いですね。

 

■略歴01:建築を学んだ大学時代

 

 私がなぜこんなことをしているのか説明するために、今までどんなことをしてきたのかお話ししますね。

 私は元々、大学で建築の勉強をしていました。阪神淡路大震災の時に重機などが入れない環境で紙管パイプの建築を作ることで有名になった紙の建築家・坂茂さんのもとで、建築の設計や自分たちで紙管パイプを組み立てて巨大なアトリエを作るなどしていました。

 どちらかというと都市計画の研究がメインで、東京の川の研究をしていたんですね。暗渠という、目には見えませんが足下に流れている川です。東京には埋め立てて道路になっている川がいっぱいあって、そういうものを全部リサーチして、江戸時代からどういう変遷で川が変化していったのかを調査するような研究をしていました。川に架かっている高速道路を取っ払って地下化した時に、どういった景観の提案ができるかといったことを建築学会で発表するなど、そういう研究をずっとしていていました。岐阜県高山の建築学会の「子供の居場所」というコンペでは、高山を舞台に空き家を利用しながら街の中に学校を作っていくというような提案で、建築学会の賞を頂きました。また、卒業後には、六本木ヒルズの森美術館がオープンした時に「世界都市展」という展覧会のオープニング映像として流れた「ポピュラースケープ」という作品を、「東京ピクニッククラブ」の太田さんの下で作りました。「ハビタが持っている3,800都市の人口統計データを立体の地球議上に投影したい」といわれて、東大のチームと一緒に考えながら作った映像です。立体の地球上に垂直方向に人口がプロットされている映像で、それを世界中にマッピングするんですね。そうすると、大陸ごとの色々な都市の配置やコンパクトシティなど、大陸や都市ごとに性格が出てくるんですね。また検索して見てください。

 

           略歴02:イギリスでの思い出がモヤモヤを打ち消す

 

 渋谷の東口の誰も気付かないようなところに川が流れています。大学時代、それを都市の資源として、どう甦らせるかという提案をしていましたが、果たして今、僕が見ている東京の風景が自分の子供や孫の世代に伝えていきたい風景なのか、僕がずっと関わり続けることで自分の子供や孫に自慢できるようなことが言えるのか、そんなことをずっと考え、モヤモヤしていていたんです。そんな時に自分が中学の夏休みの時、イギリスの郊外に単身赴任していた父のところへ行って連れて行ってもらった、コッツオルズというピーターラビットの里の地域のことを思い出しました。その地域には色々な小さい村があるんですね。そこへ遊びに行って僕が何枚も写真を撮っていたら、地元のおじいさんが「俺の村、お前そんなに気に入ったか」と話しかけてきたんですね。そして、黄土色のレンガを「ハニーブリックって言うんだぞ」とすごく嬉しそうに話すんですよ。ハニーブリックって、ハチミツ色のレンガということですよね。ただの黄土色のレンガをハチミツ色のレンガだと自慢げに話すおじいさんのことがものすごい印象に残っていて、自分の住んでいる地域に誇りを持って自慢できることはすごく素敵だなって、中学生の僕が覚えていたんですね。

 そのことを大学生の時にふと思い出して、4年生になった時に就職を辞めて、イギリスに都市や建築の勉強をしに行こうと思って、英語は全然話せませんでしたが、とりあえずイギリスに行きました。最初は観光ビザでスーツケース1つで行って、ホテルに泊まりながら家を探して。家が決まったら、今度はロンドン大学の建築学科にバートレット考という面白い学科があったので、そこの校長先生につたない英語で「会ってください」と言ったら「会いに来てくれ」と言われたので、自分の今までの作品集を使って身振り手振りでやりたいことを伝えたら、「英語は全然ダメだけど、面白いから入っていいよ」と言われて、特別に入学させて頂きました。大学の授業と並行しながら語学学校に通って、あっという間に3年経ちました。その3年間の間に大学の授業に出ながら、イギリスの郊外の小さな村で話を聞いたり、取材をしているうちに、いつかは日本に帰ってこういうことをしたいなと思うようになりました。

 

■略歴03:帰国後、四国へ移住

 

 2010年に日本に帰国しましたが、その時にたまたま西村佳哲さんという働き方研究家が、四国経済産業局という経済産業省の四国支部の人材募集を、「四国を4県回りながら取材をして地元の営みや働き方を発信する人、デザインができて、瀬戸内国際芸術祭もあるから英語が話せてウェブサイトが作れる人がいない?」とツイッターでつぶやいていて、「これだ!」と勝手に呼ばれている気がしてしまったんです。何の根拠もなく、俺のことじゃないかと勝手に思ってしまって、電話で「面接に行っていいですか」って言って行ったら、「さすがに東京から来たのはあなただけです」と言われて、でも「来週から来てください」と言われて、その1週間後の4月一日から勤務で、四国経済産業局に勤めることになりました。そこから四国に移住することになったのが、20104月ですね。

 

           略歴04:仕事の合間の副業が、今に。

 

 四国経済産業局に入って、ウェブサイト「四国人」の運営や、四国全体の広報誌のデザインや撮影などの仕事をして、あっという間に4年間が経ちました。4年間、唯一誇れるのは無遅刻・無欠勤で、毎日朝8時半から1715分まで働きました。この仕事が有り難かったのは、残業が全くないんですよ。私は非常勤職員だったので、言ってみればアルバイトなんですよね。副業ができるので、「せとうち暮らし」という仕事をしたり、地元のネットワークを作ったり、週末や平日の夜には「物語を届けるしごと」というブログを書いていたんですね。そのブログは、瀬戸内や四国の美しい文化、物語のある風景を届けるウェブサイトです。独自の島にある祭りやおすすめの美味しいドーナツ屋さん、梅雨に遊びに行ける場所を地図にプロットしたり、移住者の人に向けて空き家情報をまとめたり、そういうのを暇を見つけてやっていたんですね。

 1番アクセス数が多いのは、四国のお祭りを全部プロットしてGoogleカレンダーに公開しているものです。「これは四国のためになる」というような意識が最初からあったわけではなく、最初のきっかけは彼女と別れて週末が暇になったからです。四国には、単身で友だちも誰もいない状態で移住したので。そこで、「四国のお祭り」という本に載っているお祭りに週末全部行ってやろうと思って、とりあえず全部Googleカレンダーに入れたんです。どうせ入れるのなら、公開設定にすればいいと思い公開して、それをブログに貼り付けただけなんですね。移住した僕が、四国でも生活を楽しむということが、きっと周りの人たちにとっていい影響を及ぼすんじゃないかと思ってブログを書き始めるようになりました。

 

■四国のお祭り

 

 色々なお祭りを簡単に紹介したいと思います。

 愛媛県にある西条まつりは、四国で出会ったお祭りの中で1番キレイなお祭りのひとつだと思います。だんじりという屋台が何百も川縁に集まって、一斉に合戦が始まるかのような音と一緒に川を渡るんですね。景色が荘厳で本当に美しいお祭りです。

 他には、金比羅さんという海の神様を祀っている由緒ある神社があります。そこで毎年109日から12日まで催される例大祭では、平安絵巻の大名行列のような景色が見られますが、行列が何kmにも渡る厳かな雰囲気の中、その年に選ばれた子供がカゴに乗っていて、周りのおばちゃんたちが「こっち向いて」といって写真を撮るんです。選ばれた子はアイドルなんですね。夜9時や10時と遅いので、子供もこっくりこっくりしている中、みんなで練り歩くという素敵なお祭りですね。

 先ほど紹介した小豆島の中山と肥土山という地域の2箇所に、農村歌舞伎という歌舞伎が残っています。江戸時代から300年ぐらい続いているお祭りで、かつては33箇所ぐらい農村歌舞伎小屋がありました。今でいう映画館みたいなものですよね。今は瀬戸内海に2箇所だけ残っていて、それが中山、肥土山という島の真ん中の地域です。さっきも説明しましたが、再開発から逃れているので、江戸時代からの歌舞伎が今も続いています。地元の人たちが演じて、地元の人たちが見に来るだけのお祭りなのですが、すごくいいのは割子弁当というちょっと面白い弁当箱に料理を詰めて、親戚同士が集まってお酒を酌み交わして楽しんでいるんですね。おじいちゃんが若かった頃に演じた役を、その孫が演じているんですよ。それを見ておじいちゃんがウルウルしているのを見て、僕がまたウルウルするという、そういう親子が代々伝えてきたような感動的なお祭りが島にあります。

 それ以外には、伊吹島という、いりこの島ですね。いりこはイワシを乾燥させた小さなものなのですが、それが採れる島があって、1年間の稼ぎを夏の12ヶ月の間に稼ぎます。その港の祭りがあって、恵比寿様のある島を7箇所ぐらい船でまわりながら豊漁を祝うんですね。それを島の人たちが見送っているような姿など、島の記録としてずっと撮影しています。先ほど説明した女木島の独特な女人禁制のお祭りなど、こういうことをブログでずっと書いていました。

 

■海外からの反応

 

 こういうことをしていると、海外から色々な反応があるんですね。私は英語が得意じゃないのですが、留学で唯一発見したのは、下手くそでもみんな喋っているということでした。例えば、イタリアやフランスの人たちはヨーロッパで下手くそな英語でも自信満々に喋ってくるんですよ。それが日本人にはなくて。日本人は恥ずかしがり屋なので、英語が話せないと思ったら文章を書くのも恥ずかしいじゃないですか。でも、その気持ちを捨てようと思って、下手くそで間違えていても、とりあえずブログでひと言だけでも英語で書くようにしたんですね。そしたら、中国で成功している若手実業家の一人で、香川県出身の朝倉さんという方から、「上海に何店舗かあるお店の中で「ASAKURA PRESS」という本を出すので、それのデザインをしてくれ」といわれたので、瀬戸内海の色々な情報を出しました。

 ブログのアクセス数を見ると、アメリカやイギリスだけでなく、イタリアや台湾など変わったところからのアクセス数があります。台湾の人は最近すごく瀬戸内海に来るようになって、台湾の方から「瀬戸内海の本を出したいからアテンドしてくれ」といわれて、その本の情報発信を手伝いました。また、オーストラリア人から突然連絡が来て「僕は木工デザイナーだけど、四国を案内してくれ」といわれて、木工所や木型職人さんのところを連れて歩いたり、山一木材という材木所を説明したり、四国唯一の和菓子の木型職人・市原さんの木工所を案内したりと、そういうことをするようになりました。

 そうしていたら今度、国交省の官公庁が日本全体を英語・中国・台湾向けに発信している「VISIT JAPAN」というサイトがあって、そこから「台湾向けで瀬戸内海特集をしたいので、そのコーディネートをしてほしい。キャロル・リンさんという台湾のものすごい人気のブロガーの方が瀬戸内に来るから、今までとは違う視点でマニアックなところを紹介してください」といわれて、そのアテンドなどの仕事をしました。ただ、ブログを書いているだけで、こんなに色々なところから仕事がいただけて、こんなにいいことがあるんだなと。色々な人と知り合えることは本当に面白いことだなと思いますね。

 前述の「ASAKURA PRESS」では、中国語で農村歌舞伎の紹介記事を書かせていただきました。また、世界中の色々なデータをアーカイブすることを使命にしているGoogleが、瀬戸内海にストリートビューを持っていきたいというタイミングで「瀬戸内デジタルアーカイブプロジェクト」を立ち上げた時、色々なアドバイスをしてGoogleプラスなどで瀬戸内海の色々な情報発信をするお手伝いをしました。

 

■消費者の反応

 

 企業だけでなく、消費者からの面白い反応もあります。香川県には打ち出し銅器という伝統工芸があって、110万円するようなやかんを作っている方が、銅を叩いてフライパンを作っています。銅は熱が均一に伝わることもあって、料理人が結構使っているようなフライパンなのですが、「お年を召したので、もう造りませんよ。残りもう10個しかありません」という話を聞いて、それをブログに書いたら公開して1時間や2時間ぐらいであっという間に完売するぐらい反応がありました。逆にやり方によっては怖い場合もあるなというのを感じた消費者の反応でしたが、それぐらいリアクションがあるのもブログの可能性としてあるなと思います。

 

■メディア掲載

 

 色々な雑誌社からも問い合わせがあります。

 「ブレーン」という雑誌の中で「香川県のクリエイターを紹介したい」というので、仏生山温泉という温泉を紹介しました。写真は僕が撮っています。香川県に来たら、ぜひこの仏生山温泉という名前を覚えておいてほしいぐらい素敵な温泉です。いい温泉の定義というのは、泉質・泉量・温度なのですが、その3つとも揃っているのが仏生山温泉です。

 高松には実は地下にクレーターがあるんですね。どこかの大学の先生が、日本中の重力を測っていたら、香川県高松市の仏生山辺りだけ、なぜか重力が弱いということが分かりました。なぜかといったら、その地下の目に見えないところにクレーターがあるということがニュースで話題になったからなんですね。それを聞きつけたのが、仏生山温泉の番台の岡さんのお父さんが、「じゃあ温泉が出るんじゃないか」と勝手に温泉を掘り始めたんです。お母さんが息子に「あなた早く帰ってきて。温泉なんか出るわけがない」と言っていて、そしたら東京で建築事務所で働かれていた息子さんが帰ってきた時に、ちょうど温泉が湧きました。ここでは、すごくモダンな建築の中ですごくいい泉質のいい温泉に入れます。かき氷がむちゃくちゃ美味しいことも、雑誌社に紹介しました。

 

■移住者の事例01:写真専門の古本屋

 

 男木島の人口は195人で、実際は100人を切っているところもあります。「ブルータス」という雑誌では、島で活動をされているアーティストさんを紹介しました。その記事を読んだ女性が、その後男木島に来ます。男木島の景観に感動して、東京の仕事を辞めて、移住したのが2年前です。この子は写真家なのですが、「写真専門の古本屋をやりたい」といって移住してきたら、地元の方が「じゃあ、うちでやりなよ」といって古道具屋を改装して、写真専門の古本屋さんをオープンしました。北浜アリーという倉庫街の中にあります。北浜アリーは色々なカフェが集積している地域なので、ぜひ高松に来ることがあったら寄ってみてください。

 

           移住者の事例02

 

 情報発信をすることで移住してくるという事例が幾つかあります。蜂屋潤くんという若者の場合は、高知県の室戸という地域があって、そこで地元のブランドをどうにかしたいと考えていました。

 室戸では、メジカというすぐ腐る魚が、1匹数十円で売られていました。そんな魚が倉庫に大量に積み荷のように揚がるのに、一方で島のお母さんたちは「仕事がない」といって大阪に働きに出ていっています。それを高知大学の学生だった彼が見て「何かできるんじゃないか」と思い、高知大学の学生時代にビジネスプランコンテストにビジネスのプランを提案して形にします。それが、ヤイロトコブシというトコブシでした。この地域で採れるトコブシは非常に身が詰まって美味しいのですが、他の地域と見た目が全然変わらなくてブランド化できないんですね。それをどうにかしようといって、トコブシに与える海藻の色を毎年変えることにしました。海藻の色を変えると、グラデーションになるんです。8つの色のグラデーションをトコブシで出してブランド化しようというのをビジネスプランコンテストに出して、内閣総理大臣賞を受賞します。その後、会社を立ち上げます。まだ20代の若い人ですよ。

 それから、メジカをどうにかブランド化して商品にできないかということを考えます。彼は料理の知識がなかったので、まず地元でバーベキュー大会を開いたんですね。バーベキュー大会では、海産物から肉から色々な物が焼けるので、色々な人を呼べるんです。その時に東京からデザイナーや料理人を呼んで地元の生産者と交流するというイベントをやったら、コンフィというフランスの料理法があることが分かり、低温の油で煮たら足の早い魚も長期間保存でき、真空パックに入れた状態なら旨みも逃がさずに作れるというのを提案しました。彼は「1.5次加工できるような商品を作りたかった」と言うんですね。1.5次加工というのは、生産物をちょっとだけ加工して、1.5次加工した食材が色々な人によってパスタになったり、ピザになったりと、2次加工と1次生産品の間を取り持つようなブランド化をすることをいいます。そして、「むろっと」というブランドを作って色々な商品を開発しています。

 2010年から四国に来る色々な移住者の取材をしてきて、だんだん変わってきているなと思ったことがあります。以前は、「田舎には仕事がない」と言っていた人に結構会っていたんですよ。未だにもちろんそういう方もいらっしゃるのですが、震災前後くらいから「自分から仕事を作ってやる」という眼がキラキラした若者が急に現れてきた気がしています。不思議と元気をもらうんですよね。まだ20代なのに、こんなに色々なことができるんだなというぐらい面白いことをしている若者が結構移住してきています。恐らく日本の他の地域でも、そういう若い方が結構移住しているんじゃないかなと、すごく感じています。

 

■統計データから見る四国

 

 統計データで四国はどんな場所なのかを、もう少し詳しく見ていきたいと思います。実は四国の人口は404万人いるのですが、日本全体のたった3%なんですね。GDPも日本全体の3%です。ですが、世界の色々な国と比べると、ニュージーランドやモンゴルよりも人口が多くて、GDPはフィリピンやアルジェリア、ハンガリー、エジプトよりも多いんですよ。コロンビアともほとんど大差ないぐらい高い。世界の国と比べたら、四国単体でもそんなことないよというのがよく分かるのですが、一方で人口減少を数字で見ると、日本全国の中で最も過疎化が進んでいて、人口減少が全国平均の20年、高齢化は10年先行しています。震災前に国交省が出したデータでは、「消滅が危惧されている集落」が最も多いのは四国なんですね。世界遺産もなく、新幹線も通っていないので、限界集落といわれているような地域がいっぱいあって、そこの過疎化は非常に厳しい状態であることは国の試算に出ています。

 だからこそ、民間のNPOや市民による課題解決の先進事例が幾つかあります。そして、そういったものを取材していくことが、ひょっとしたら10年後、20年後、東京などの都市部が迎える過疎化の問題を解決する手立てになるんじゃないかと思って、そういったものを取材し始めました。

 

■課題解決の事例:海の学校 伊座利校

 

 課題解決の事例を幾つか紹介します。徳島県に伊座利という地域があるんですね。人口100人ほどの小さな漁港です。伊座利カフェというカフェがあって、わざわざ大阪から船に乗り付けて、そこのアワビカレーを食べに来るぐらい人気があります。

 そこの唯一の小・中学校が廃校になるということになった時、市民のみなさんが立ち上がって何とか残すために全国の漁村留学というものをはじめて、漁村で学びたいという人たちに呼びかけて、子どもたち人に来てもらえるような学校のモデルを提案しました。そしたら高齢化率が44%から26%にまで下がるぐらい、16名の子供たちが漁村留学のためにどんどん移住してきています。元々100人ぐらいの人口規模のところに、今19人ぐらいの小・中学生がいるというのはアクセスの悪い農山漁村ではあり得ない人口比率です。

 

 

           課題解決の事例:イン神山

 

 最近、サテライトオフィスなどで新聞やテレビにどんどん出ている徳島県の神山という地域があります。ここは四国の中でも最もホットなスポットのひとつだと思います。この地域も過疎化の進む山間集落です。2011年に人口がどんどん推移して減っていく人口動態の予想を総務省が出しているのですが、それを裏切って人口がプラスになるという、今までの人口動態の一般常識ではあり得ない事が起きています。

 その仕掛け人がNPOグリーンバレーの大南さんという方。他にも色々なことを仕掛けられていますが、有名なのは「神山アーティスト・イン・レジデンス」という、アーティストを地域に何日か住まわせて作品を作ってもらおうというものです。

 それ以前には、「アダプト・ア・ハイウェイ神山」という活動がありました。これは道路の清掃の仕組みで、今は日本各地で「リバー・アダプト」など色々なアダプトがされていますが、このアダプトの仕組み自体を日本で最初に始めたのがこの神山町で、大南さんがアメリカに留学している時に発見して持ってきたんですね。何をしているのかというと、道路に企業の看板を立てる代わりに道路清掃の費用を出してもらったり、人を派遣してもらったりすることで、町や村をキレイにしているんです。

 有名なのは、「イン神山」というウェブサイトの活動です。2008年にホームページを立ち上げて情報発信をしているのですが、その1番面白い例が移住の募集です。色々な地域で移住を募集する情報発信があると思いますが、神山が面白いのは指名制にしたことなんですね。この地域にこういう人が来てほしいということを明確に打ち出したんです。商店街の人たちと色々話をするうち、「商店街にパン屋さんがないよね」という話になって、「ここの古民家でパン屋をやってください」という。通常、行政は古民家が空いていたら、そこに誰か来てくれたらいいなという情報発信をするのですが、彼らは自分たちで明確に「こういう人に来てほしい」という情報発信をしたことで、色々な方がパン屋をやりたいと言って来て、最終的には「薪パン」という石窯のパンでパン屋をやりたいという方が移住してこられました。地域にとってパブ機能やカフェ機能が必要です。パブ機能やカフェ機能とは、ふらりと街に寄った人が、色々な人との交流があって出会えるような場所のことです。大南さんには、パン屋のイートインのスペースで色々な人が出会えるようなスペースを造りたかったという、もう1つ戦略があったみたいです。本当にそれが成功して、そこで色々な人たちが出会って、今皆さんがニュースで見るようなサテライトオフィスのきっかけになっています。そのきっかけのもとになっているのは、やはり地元の人たちがぼやっと移住者を募集するのではなくて、明確に自分たちがほしい人たちを選んで、こういう街にしたいというのを明確に発信したことですね。それが、神山の場合は明確にできているんだなというのを感じました。

 

 

■ものづくりにおける情報発信の事例:山一木材 キトクラス

 

 ものづくりの情報発信の事例をもう一つ紹介します。香川県の栗熊という地域に、山一木材という古い材木屋さんがあります。そこの3代目の女性が、岐阜県で修業された後に地元の材木屋を継ぎます。その女性は30代半ばの熊谷さんという方なのですが、「本物の材木を知ってもらうためにショールームを造る」と言って、色々な人たちが交流しながら本当の木の良さを感じてもらう、カフェとショールームとイベントができるようなスペースを造りました。元々熊谷さんも実家は継ぎたくなかったし、男社会の材木場の世界には絶対行きたくなかったそうなのですが、女性の自分だからこそできることに気がついて、ものすごく心地よい森の中のカフェを企画したり、イラストを作って「KITOKURAS(キトクラス)」というブランドの情報発信を非常にうまくやられています。そして、マルシェを季節ごとに開催したら、いつ行っても人であふれているような人気の場所になって。フェイスブックでの情報発信もすごく上手で、家族や飼っている犬などを発信しながら毎日のことをただ綴っているのですが、自分の暮らしを通して、木の良さや自分の持っている地の良さみたいなものを伝えていくという良い情報発信の事例です。

 

           ものづくりにおける情報発信の事例:ヤマロク醤油

 

 最後に紹介したいのが、ヤマロク醤油です。小豆島で150年ぐらいの歴史がある醤油屋です。小豆島は、木桶仕込みの醤油蔵が日本で1番密集している地域なんですね。愛知県などにもいっぱいありますが、結構分散していて、小豆島には木桶が1番密集している醤の郷という地域があって、その地域には今も江戸時代から脈々と昔の醤油造りをされている方がいます。ヤマロク醤油五代目の山本さんにお話を聞くと、昔の醤油造りは戦後の高度経済成長の時にタンクに切り替わるんですね。「その時に自分たちは貧しくてお金がなかったから、木桶を捨てられなかったんだ」と仰るのですが、多分木桶でつくる醤油が美味しかったというのが本質にあったのだと思います。自分が作りたい美味しい醤油は木桶で天然醸造じゃないと造れないという意識で、今も醤油造りをされています。

 この醤油蔵が本当に面白いのは、完全予約制で365日いつでも見学できるんです。それをウェブサイトで謳っていて、全く知らなくてもふらっと来たら山本さんがものすごく詳しく解説してくれるんですよ。そういうことをしているうちにテレビ局からオファーが来て、テレビ番組で山本さんがMCをする番組ができたり、今や色々な番組に引っ張りだこになりながら、毎日毎日コツコツ醤油を作っているという、ちょっと異色な方です。職人さんにはあまりいないタイプで、ものすごく雄弁に色々なことを語ってくれるのですが、お話を聞いていると100年ぐらい先のことを常に考えているんですね。

 醤油の木桶を日本で作っているのは、もう大阪に1社しかないんです。木桶の藤井製作所という会社の、お年寄りの三兄弟しか大きい桶は作れないんですね。その三兄弟が木桶を作ることをやめたら、日本の天然醸造を作る木桶がなくなるんです。それが何を意味しているかというと、日本食をベースにする醤油、みりん、味噌、お酒等の木桶で造られているものが、今残っている木桶がもし壊れたら誰も造れなくなるんです。そのことを山本さんは危惧して、「自分の子供や孫の世代が木桶の醤油を作りたいとなった時に、木桶を作る技術がなかったら困るじゃないか」と、島の大工さんたちを連れて小豆島に渡ります。島に渡って、藤井さんに木桶の作り方を何日間も泊まり込んで教えてもらって、自分たちで箍を編むような技術を学んで木桶を作るようになります。戦後で初めて新しい木桶を作ることに成功しました。「木桶職人復活プロジェクト」を通して木桶のものづくりを始めたら、小豆島だけで木桶を作ることに成功したんですね。お話をお聞きしていたら、実は竹箍を作るのが1番難しいんですね。竹を編んで桶を囲むものなのですが、これを作る技術が非常に難しいんです。それに加え、十何mの長い竹が必要なのですが、それをトラックに積むと道路交通法に引っかかるんです。つまり、他の地域から竹を持ってくることができないんですね。で、「どうしようかな、これは本当にもう作れないな」と思った時に、地元の人に話したら「お前のところのじいちゃんが裏山に真竹を植えていたぞ」と言っていて、おじいちゃんはいつか必要になるかもしれないと思って箍を編むための竹を裏山に植えていたらしいんです。山本さんはその話を聞いた時に涙が出るくらい感動して、不思議な縁を感じながら箍を編んでいるんですね。そういうふうにして情報発信をしながら木桶文化を守るような活動をされています。「食べる通信」の1月号でこの山本さんの醤油を取り扱うので、ぜひその続きは誌面の方でお楽しみいただけたらと思います。

 

 最後に、私が「物語を届けるしごと」を通じて、いつも心にふと思い出す言葉があります。サン=テグジュペリという「星の王子様」の作者が、「人間の土地」という本の中で、こういうことを書いています。サン=テグジュペリは飛行機乗りなんですね。飛行機に乗りながら色々な風景を見ていく中で、「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野の間に、ぽつりぽつりと光っているともし灯たちと、心を通じ合うことだ。」と。灯火一つひとつに暮らしや家庭の明かりがあって、そのことに対して心通じ合うことが大事だということを書いていて、僕もデザインを通じてそういうことができたらなと思っています。長い話になりましたが、ご清聴ありがとうございました。

 

【質問タイム】

 

—今日はとても興味深いお話をいただき、とてもありがとうございました。今、雑誌やホームページなど色々な活動を見させていただきましたが、写真を見ているとそこに住んでいる人の楽しそうな笑顔や姿が伝わってきまして。富山の場合ですと、富山の人は自分を発信するのが苦手な県民性だと言われておりまして、本当はいいことを知っているのに、それをなかなか人に言わなかったり、県外の人に聞かれても何もないと答えたりします。坂口さんは、取材をしていく中で地域の人の中に入ってすぐ打ち解けられる場合もあれば、なかなか聞き出せない場合もあるのかなと思うのですが、取材するアプローチでこんなふうに聞いていったらうまく引き出せたというお話をお聞かせいただければと思います。

 

 ありがとうございます。結構苦労したのは鰹漁師さん。結構怖いんですよ。漁船に乗ったら、いきなり怒られて。鰹漁師さんの取材に行ったら、いきなり「なんでヘルメットを持ってこないんだ」と言われて、「聞いてないし」という()。「寝袋を持ってきていない」とかすごく怒られて怖かったのですが、その後お酒を交わしたら、むちゃくちゃ陽気な感じですごく優しいんですよ。「またお前ら来いよな」みたいな感じで、本当に熱くて。でも、実は最初は漁師さんも嫌々だったんですね。「自分たちは魚を釣るためにやっているのであって、お前らの取材に付き合う時間はない」と言われていたのですが、それでも何とかして皆さんの魅力を伝えかったんです。もう1つ漁師さんが嫌がっていた理由は、例えば23日になる時に、釣れなかったら漁師さんはずっと室戸沖で漂ってそこで1泊して、翌日にまた鰹を追うんですね。もし、僕らが次の用事があったら、燃料代を1往復分無駄にして、もう1回戻らなければならなくなります。そこで、漁師さんから「お前らはそれでも付き合えるのか」と言われたのですが、僕らが「もちろん付き合います。釣れるまでいつまでも船に乗りますから」と言った瞬間から、漁師さんの声色が変わりました。覚悟を見てくれたというか、それぐらい本気で付き合うのだったらいいぞという感じで受けてくれて。

 他の生産者に対しても、僕らは1回だけじゃなくて通い続けるんですね。何回も話を聞いて、何回も通う。1番いいのはお酒を酌み交わして話すと、お互い本気なんだなというのが伝わって心を開いてくれるという。本当にそこですね。僕らはやっぱり外の人間なので、地元の人たちが気付いていない魅力を、僕らを通して気付いてもらうという役割があると思っていて、そのことを何回か会っていくうちに気付いてもらえると、地元の人たちも気付いていくのかなと。 

 富山の場合は、そういう気質があると伺っていますが、きっと外から移住されている方もいらっしゃると思うので、そういう方たちに地元の魅力を気付かされる瞬間があると思うんですよね。そういうのを大事にできるといいのかなという気がします。

 

 

—山下と言います。今日はありがとうございました。雑誌を読んでいて面白い仕事をされているなと思っていましたが、今日具体的に知ることができて良かったです。四国でやっている色々なことを発見するというのは、色々な人から聞くということでしょうか? どういうふうに発見するのかを聞きたいです。

 

 色々な人に話を聞く。ただ、それだけですね。外から来ると情報なんて何もないんですよ。高松はうどんが有名じゃないですか。2010年に面接に来た時、僕はiPhoneを持っていなかったんですね。高松駅に着いて、うどん屋が見つからなかったんですよ。JRの駅を降りたら、瀬戸内海も見えないんですよね。どっちが瀬戸内海か分からないし、うどん屋もないし、時間もないから、ビルの2階にあったそば屋でそばを食べて帰ったっていう。高松に来たのに、うどんが食べられなかったんですよ。今はiPhoneで情報がいくらでも出てきますが、それでも地元の人に聞く情報に勝るものはなくて。未だに地元の人たちのお薦めのところ、特に主婦の人たちはカフェの情報にものすごく詳しいんですよ。そういうのを飲み会に混ざって聞いて全部メモして行けるようにするみたいな。ひたすらそういう場に顔を出して、常に情報収集をしていますね。

 

—今日はとても素敵なお話をありがとうございました。私、今井と申しますが、まちづくりに興味があって20年ぐらいやっています。そのなかで、富山県は薬都ですから、薬膳を考えていたら、土づくりからやらないと。最近は、戦後の観光農業で土が大変傷んでいる。農薬がいっぱいかかったものが、地産地消のもので、富山産だからいいんだと思って間違えて食べたりしています。ここで有機農業の生姜の話が出ていました。書いてあるものを読ませていただいたら、自然の堆肥ですね。バクテリアとお水ということで、有機農業というよりも自然農業なのかな。1番好ましい形だと思います。まだ充分に勉強していないので、自然農業と有機農業の違い、それと四国の方たちはそれに対してどのように考えられているのか教えていただけますでしょうか。お願いいたします。

 

 正確に有機農業と自然農業の違いについてはよく分からないのですが、有機農業には有機認証という農水省が決めている認証(JAS)があって、その水準に合って初めて有機農業と名乗れるんですね。無農薬はそれとは全く別もので、有機認証があるからといって無農薬ではなく、有機認証の中で数種類は農薬を使っていい農薬というのが決まっているんですね。そういうものを散布している生産者ももちろんいます。有機無農薬というのは有機農法ですが、さらに無農薬であり、肥料を使わずに土づくりをしながら作っていく人たちですね。それが、より自然農業に近いと思うのですが、生産者に聞くと有機認証を取るために毎年膨大な資料を作らないといけなくて、それがものすごく大変だと。だけど、有機認証をもらうことでできる情報発信があるから取っているという方もいらっしゃるし、あえて認証は取らずに自然農法を守って作っている方もいらっしゃるという。国が決めている認証に限らず、自然に作られている方は結構四国にもいらっしゃいますが、僕らの会員数は毎回400500セット送らなければいけません。しかし、自然農法はどうしても生産量がそんなに多くないんですよね。1回の発送で、1つの食材を500400作ることはものすごく大変なことじゃないですか。それがなかなかできないのですが、実はこだわっている生産者がいっぱいいて、そういう人たちをどうやってサポートするかというのが、今後の僕らの課題です。例えば、オプションで数量限定で「いい人参を作っている方がいるから、プラス500円でそのいい人参が買えます」というふうにしたり、あるいは色々な種類の野菜を鍋物セットみたいにして農園産のものを送ったりするような活動を今後考えていますね。

 自然農法でいうと、戦後、手島という島に農民福音学校がありました。それは何かというと、循環農法ですね。動物が出した堆肥をそのまま。当時は一体農業と言っていましたが、一体的に果樹を植えて動物を飼って動物の堆肥を使って野菜を育ててというのを、コーポを立ち上げた方がずっとやっていたんですね。日本で1番農民福音学校の生徒が多かったのも手島なのですが、そういうところで有機農法や自然農法を学んだ人たちが日本中の色々なところで、その後自然農法をやっているというのは聞いています。名前は、農民福音学校で検索すると出てきます。福音なので、キリスト教にまつわる自然農法の活動をされている方たちが日本中にいるそうです。

 

—今日はお話ありがとうございました。私は実は高松出身で、主人がこちらの出身で富山で仕事をしたいということで2ヶ月前にこちらに引っ越してきたのですが、今日は坂口さんがこちらにいらっしゃるということで、ぜひお話をお聞きしたくて参加させていただきました。主人も建築の仕事をしていて、私も美術の仕事を今までやっていたのですが、私たちも富山の良さを仕事を通して、坂口さんと同じようにしながら、自分の仕事をこれからやっていきたいと考えています。坂口さんから見た富山の良さやアピールしたらいい部分がありましたら教えていただきたいなと思います。

 

 僕はまだ富山に来たのが2回目で、昨日高岡に入って、今日お寿司屋さんでものすごく新鮮な魚を食べて感動していたのですが、瀬戸内海と全然魚種が違うので魅力的な魚がいるなと思って食べていて。天気はあんまり良くなかったのですが、たまに見る青空やキラキラした雪解けの感じなどが瀬戸内海にはなくて。四国はわりと晴れていて天気がいいんですよね。晴れは嬉しいのですが、なおさら富山に来た時にたまに見る青空や、雹が降っていたのに急に雲が晴れる感じの喜びみたいなものをすごく感じるのかなという気がしています。もう一つは、意外と高松と似ているところもあって、コンパクトシティみたいな都市構想の考え方も、平坦で自転車で移動できる感じも似ているのかなと。冬は寒くて自転車どころじゃないのかもしれませんが、もっと富山と高松で地域間交流があってもいいのかなと。似ているところもあるし。そういうところにも可能性を感じています。

 

—大変楽しいひとときをありがとうございました。先ほどのお話の中で西村さんのツイッターを見て、四国に行かなければいけないと思い立って四国へ行ったというお話を聞きました。坂口さんのような方にぜひ来ていただきたいと思った時に、どういう発信の仕方といいますか。どういったところが四国に行かなければいけないと思ったのか詳しくお聞かせ頂ければと思ったのですが。

 

 実は四国経済産業局の広報情報システム室で働く人を、僕が辞めるタイミングで後任を探してくれと言われて、いるのかなと思い、困ったんですよ。能力的にではなくて、地元のハローワークでバイトを募集すると、ワードを触れないおじいちゃんが来たりして結構面接が大変なので、できれば顔が分かる人から探してほしいと言われ、人づてに探していくなかで、ちょうどいい人が目の前にいたんですね。大学の後輩でウェブサイトが触れて情報発信をしたいという人だったので、彼を口説き落として来てもらったんです。それが僕の後任なんですね。

 結局、情報発信する時もブログを書く時も全く一緒なのですが、誰に対して書いているのかを明確にイメージしていることが大事です。40代女性にターゲット層を絞る方法よりも、具体的に近所の知っているおばちゃんにこの記事を書くとか、誰々に届ける時に具体的な発信をすることはすごく大事なこと。例えば東京に面白そうな人がいて、彼に来て欲しいなという人を見つけたら、彼に向けて発信しているぐらいの感じがいいと思います。行政は平等に扱わなければいけないので、それがなかなか難しいんですよね。だから、経産省の募集要項は、情報システムエンジニア募集みたいな案内で、非常につまらなそうな仕事でした。それを西村さんが翻訳して、ああいう形で書いてくださったんですね。その翻訳の仕方がすごくうまかったんだろうなという感じがします。西村さんが具体的に僕をイメージしたことは全くなかったと思いますが、情報発信をする時はひとつのコツとして、具体的にこの人に届けたいとイメージしながら書くことが結構大事なのかなと思います。

 

 

—茅原と申します。今日はお話ありがとうございました。質問ですが、四国の現状は集落消滅や人口減少などの問題を抱えている一方で、小豆島の方は若者の方も伝統行事に積極的に参加していたり、高齢の方もブログを自分で書けるようになるために勉強をしたり、好きな地元を何とかしようというモチベーションがすごく高いなと思ったのですが、そういうモチベーションの高さが生まれるためのきっかけはどのようなものなのか、お考えを教えていただきたいと思います。

 

 島に住んでいる皆さん、根本的には島を何とかしたいという大義を持っているのではなくて、なんとなしに寂しさを感じているお年寄りが多いんですね。いわゆる限界集落といわれている集落に行ってみても、四国の人たちはみんな結構幸せそうに暮らしているんです。年金で後はおさらばできるぐらい、わりとちゃんとした現金収入があって、恐らく最後は島で死ねればいいやぐらいに思っている人たちも正直いっぱいいるんですね。だけど、島や地域に若い人たちがいないことに、どこか寂しさを感じていて。瀬戸内国際芸術祭というお祭りが2010年にあったときに、アートによる地域興しは日本中にありますが、本当に活性化するのかなと正直思っていたんですよ。だけど、1番最後に印象的だったのが、お祭りが終わった時におばあちゃんが涙を流して、「このお祭りが終わってしまうのが本当に寂しいんだ、またやって欲しい」といって。それを見た時に、アートをきっかけに若い人たちが島に来てくれて交流できることを喜んでくれているおばあちゃんがいるんだなと思って、僕ちょっと考え方を変えて、地域活性よりもここにいるおばあちゃんたちが喜んでくれるのなら、それでいいと感じました。質問の答えになっているのか分かりませんが、活性化や限界集落という言葉とはちょっと違うところで、本当に地元の人たちが欲しているようなものがあるような気がしていて、それを実際に島や地域に行くと感じますね。

 

 

—市森です。どうも今日は本当にありがとうございました。GPNWの会員なのですが、3年ぶりぐらいにまちづくりセミナーに参加しまして、初代の立ち上げの時にはいたのですが、随分と武内くんの素晴らしい会場設定と、今日はデザインのお話で随分クリエイティブになりましたね。聞かれている皆さんもお洒落な方が多くなって驚いておりますが、ちょっと感想を述べさせていただきたいと思います。先日、北陸新幹線W7系をデザインした工業デザイナーの奥山清行さんのお話をお聞きしまして、奥山さんはイタリア人街で初めてフェラーリの車両デザインを手がけられた方でもあるのですが、今日坂口さんが仰ったことと本当に同じことを仰られていまして、新幹線のデザインは北陸三県の地域特性と北陸三県の物語からデザインを起こしているんだというお話がありました。例えば、赤のラインは銅の色、ブルーは水というようなことで、デザインひとつも色々な物語から成り立っているんだというお話を聞きまして、今日のお話を聞いて、まさにその通りだなと思いました。デザインというのはそのまま地域を作るし、町を作る。多分、町の未来も工業デザイン並びにグラフィックデザインが作っていくのかなと思っています。

 質問が2つほどございまして、1つ目は坂口さんにとってデザインは物語ということでありますが、デザインというものの価値観、富山もしくは日本、それから先ほどロンドンにもいらっしゃったといわれていましたが、私の個人的な感覚として日本というのはデザインに対する価値といいますか、評価が比較的欧米から比べるとちょっと低いのかなと。欧米諸国は工業デザインやグラフィックデザインというものに対する価値を分かっていて、そこに対してものすごく理解のある文化だと思っているのですが、その辺り実際にデザイナーとして携わられてどのように思っているのかというのが1つ。それから、今は四国を拠点に活動されているということですが、ご自身の将来的なビジョンとして、このままずっと四国でやっていって四国で地域興しをやっていかれるのか、それともまた別のことをビジョンとして考えられているのか、この2点お願いしたいと思います。

 

 まず、デザインの地位という話ですが、日本はデザインという言葉が、例えば携帯の見た目やポスターのかっこよさを一般的には説明しているんだろうなと印象的に感じていたので、デザインという言葉を別の言い方に変えるとしたら何かなと思って「物語を届けるしごと」という言い方にしたんですね。仰るとおり、日本はまだ一般的にいわれるデザインという考え方が、背景を伝えるという役割までにはなかなか至っていないと思います。ただ、最近すごく思うのは、ヨーロッパに行くと、それが逆転していて、ヨーロッパの若い学生さんたちが建築のデザインをすると、変わった形の建築を作りたがるんですよ。皆さんがいうには、協会や古い街並みをすごく見慣れているから、現代建築を学んでいる学生さんたちはいかに変わった形、いかにエモーショナルな建築を作るということに意識がいっていりと。それ自体が悪いとはいいませんが、留学に来ている日本人学生や僕と同世代の人たちは全く逆で、恐らく団塊ジュニアといわれる世代の人たちは、高度経済成長によって日本文化が失われたような時代に育っているので、日本本来の自然景観や地元の文脈みたいなものを大事にしながら建築を設計するというスタンスを持っている日本人の学生に結構出会うんですよ。だけど、そういう学生が留学先でプレゼンすると、「お前、なんでこんなつまらないものを作っているんだ。こんな地元に馴染んだ目立たないものを作ってもしょうがないだろ」といわれるという悩みを共有していて、その辺が意外と逆転しているんじゃないかなという。僕らの世代は意外と背景や文脈みたいなものを意識してデザインしているのかもしれないなと、ちょっと感じていますね。

 もう一つは将来でしたね。しばらくはもちろん高松にはいるのですが、「食べる通信」が1年でようやく軌道に乗って、今後どんな展開で広げていくというのはもちろんありますが、自分の夢を聞かれると僕はまだ独身で自分の子供もいないわけですよ。色々な中小企業の社長さんやお年寄りと話すと、僕と圧倒的に違うのは彼らは社員を抱えていたり、子供を育てたり、社会的な責任と後ろ盾にあるものが違うので、言葉の重みが全く違うんですよね。僕が地域活性と偉そうに言えないなといつも思うのは、自分は子供を育てていないし、家庭も持っていないからなので。もし、今後、私がプレゼンしたようなことを本当に地に足をつけたような形でやっていくのだったら、まず僕がちゃんと結婚をして子供を育てて、いずれは社員も雇えるようなビジネスとして回せるような持続可能な仕組みを作っていくことが大事かなと思っています。それが夢というか、やらなきゃいけないことだなと感じています。

 

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