レポート
まちづくりセミナー2018
まちづくりセミナー2018 第3回講演録 講師:嘉名光市氏
2019/08/12まちづくりセミナー2018 第3回講演録
日程:平成30年2月10日14:00〜16:00
会場:富山市民プラザAVスタジオ
主催:NPO法人GPネットワーク
水都における水辺のまちづくり ~都市を変える水辺アクション~
大阪市立大学大学院工学研究科都市系専攻教授
嘉名光市氏
●はじめに
みなさんこんにちは。嘉名と申します。大阪から来ました。何とか天気がもちなおして、大変ありがたいことです。今日は水都大阪の話をしたいと思います。大阪のことだけだと少し退屈かもしれませんので,海外の都市事例も踏まえながら話をしたいと思います。
スライドの表紙ですが、実はこれにも意味があり、水都大阪のまちを走っている船ですが、世界で初めての「電気推進船」です。リチウム燃料電池で走る船です。この船は、バンさんという方がつくったのですが、今から水都大阪が成功しているような話をたくさんしますけれど、結局は水辺が好きで、水辺で仕事をしようという人の集まりが結局結果を生み出してきたという背景があります。私はいつも、水都大阪の話をするときは、バンさんの写真を表紙にしていますが、それこそ水都の話が出る前、半世紀前からこういうことをやっていらっしゃる。そういう方々がたくさんいたからこそ今の水都大阪を語ることができます。
●自己紹介
自己紹介を兼ねて、ここ数年やっていることを少し一覧表でまとめると、一言では難しいですが、公共空間をどのように変えていくか、人が使える場所にしていくかといったことをここ10年ぐらい取り組んでいます。最初は、まちのなかにある公開空地とか近代建築とか、使われてないものを開くプログラムによって、地域の良さを分かってもらうような取り組みから始めました。ほぼ同時期に水辺、公園、船着き場など、公共空間をメインに始めっていったと流れの先に「水都大阪」の取り組みがスタートしました。水都大阪は、2009年から開始したイベントで、まず「北浜テラス」という規制緩和によって河川空間のなかに賑わい空間を作るということに取り組んだことがスタートラインになったと振り返ることができます。そこから、色々なことに取り組んできましたが、基本的には都市で実験をしています。例えば中之島ガーデンブリッジのカフェ、これは橋の上でオープンカフェをやるという社会実験でしたが、当初警察にかなり呼ばれました。最初、アルコールを提供したいと申し出ていたのですが、橋の上で飲酒をして酔っ払って落ちたらどうするのだという指摘もありました。そこで、一時間に一回風速計で風速を測って、何メートル超えたら中止するとか、こういった検討もしました。このような感じで、公共空間やまちに眠る資源をそとに開くことで、まちの更なる活性化ができないかということに取り組んでいて、今に至っています。
実は、富山とも以前からつながりがあります。公共空間の活用を通じて、山下裕子さんとお会いする機会がありました。富山は「まちなか広場」で有名で、新しい公共空間のあり方等を最先端で実施されています。まちなかや公共空間は、ひと昔前とはかなり違う考えに変わってきているように思えます。そういうなかで、研究室学生も山下さんにお願いしてグランドプラザの調査も実施させて頂きました。関連して、研究室では大阪駅前にあるうめきた広場、グランフロント大阪などをどのように人が使っているのかといったことも研究しています。全国でもかなり「まちなか広場」が増えてきています。こういった流れに火をつけた最初の存在が、グランドプラザであると認識しています。先ほど、社会実験の話をしましたが、こういう場所をつくることの難しさ、面白さでもあると思うのですが、結局広場を「ポンと作りました。はい、どうぞ。」といっても、誰も使いません。やはりそこに、広場などの空間を支える人のつながりやネットワーク、その空間を使いたいというひと達の意思がとても大事だと思っています。
●大阪のまちづくりの潮流
大阪は、そのような公共空間に付随して、色々まちの中でまちづくり活動を行っている団体が非常に活発な場所です。例えば去年は、御堂筋が80周年ということで、御堂筋まちづくりネットワーク、御堂筋の会、みなみまちづくりの会など、かなり数多くの団体があります。こういった方たちが公共空間をどんな風に使いたいのか、という考えや意思がないと、つくって、どうぞといってもなかなか効果がありません。地域のひとたちと一緒に考えるということが一つ重要なことです。今日は水辺の話なので、水辺の話をすると、水辺の組織もたくさんあって、中之島水辺協議会、キタ水辺協議会などが挙げられます。つまり、水辺空間を活用しようという団体もたくさんいらっしゃいます。ミナミ、難波のあたりでは、まちづくり協議会が、難波の駅前、交通広場、タクシー乗り場などがある空間を歩行者空間化したいと地域の団体が切り出しました。役所の方にとっては無理難題であったと思います。要するに、駅前なので道路を廃止しなくてはいけない。交通をどのように迂回させるかなどの検討は、技術的にとても大変です。できないことはないけれど非常に手間がかかる。しかし、行政は自らの意思というより、皆さんがやりたいという意思があれば、「やりましょう」という風に舵を取りました。変えたのは地域の方々の力です。まちはこのようにして変わっていきます。「変えていく」という言い方は、昔は議員の先生にお願いするといったやり方がよくありましたが、最近はそうではなく、自分たちで少し新しい使い方、姿を見せたい。何日かだけイベントで利用させて下さい。そういう形でまちがかわっていく様がみえてくると、交通広場よりも人が集まる広場のほうがいいよね。という賛同者が増えてきます。では、次の年に何をやろうか、という形でまちが変わってきます。流れができてきます。そういう活動がここ10年くらい特に盛んになってきています。
●世界のまちづくりの潮流
それから、この動きは日本だけではなく、海外でも非常に水辺を活用しようという動きが進んでいます。パリはセーヌ川沿いの水辺の使い方をずっとここ15年くらい熱心にやっています。もともと非常に有名になったのは、「パリプラージュ」というものです。パリのセーヌ川沿いの河岸道路です。普段は車がここを通ります。これが、夏休みの間、1か月車を通行止めにして、「プラージュ」というのはビーチ、海岸、砂浜ですが、パリに砂浜をつくるということを一か月だけバカンスのシーズンにやっています。これは前の市長さんの取り組みです。バカンスのシーズンにパリの人はパリにいません。バカンスのシーズンにパリにいる方は仕事をしている人か、低所得層、つまりバカンスに行くことができない人か観光客です。そういったひとたちに、パリは娯楽を提供すべきだろうとビーチをつくることにしました。更に、この時期は一番交通量が下がるバカンスのシーズンなので、この時期に高速道路の車を止めるということが、一番反対が少ないだろうということでやり始めました。それを12、3年続けて、毎年1か月ビーチ、河岸道路を締め切るということを続けて、河岸道路の車道を締め切って歩道化するという政策をパリは実行ました。この前、トランプ大統領が離脱すると言ったパリ協定、CO2排出制限ですが、実はヨーロッパというのは先進的な環境規制をやることかなり熱心で、ガソリン車、ディーゼル社は2050年頃にゼロにすると言っています。やはり、自動車に頼らないまちにしていこうということをヨーロッパの人たちは熱心に考えていて、その一環として河岸道路の車道を止めるということがありました。その時、なるほどと思ったのは、その前に12、3年前から「パリプラージュ」を実施していたので、河岸道路を車が走らない状況というのを、パリ市民は知っています。一年のうちの一か月だけですが、車を恒常的に閉め切ったらどういう風景が生まれるかいうことをパリ市民はみんな知っているのです。だからパリ市民は賛成してくれたのです。いきなり全部の車道を締め切ったとすれば、大反対が起き、物事が前に進みません。そのような戦略性にとても納得しました。多分、ビーチをつくるだけのイベントであったならば、それはそれで「ああ、たのしいな」だけでしょうし、この河岸道路締め切るというプロジェクトだけをポンと実施しても、おそらく誰しもが困ることになります。この例から上手く組み合わさる、上手くつながりをもっているということが、実はとても大事であるということを改めて感じました。海外の都市も熱心に取り組んでいます。
●「水都大阪」のはじまり
こういった話を踏まえながら、今日は大阪の話をしたいと思います。「水都」とは何ですか、と言われることが多いのですが、実は複雑で、もちろん都市デザインでもあり、シビックプライドキャンペーンというのでしょうか、市民の方々に水辺の良さをわかってもらおうというプログラムでもあります。水辺ですから、当然環境という意味でもあるし、それから、実は水辺、河川空間を使うというのは非常にルールが厳しいので、新しいルールをつくっていこうという複合的なプロジェクトの意味も持っていると思っていただけたらいいです。皆さんそうだと思うのですが、よくいわれるのは、大阪のイメージというと、新喜劇や道頓堀のグリコ看板のイメージがあると思うのですが、そうではない大阪もあるということもぜひ理解してほしい、そういう意味合いも持っています。大阪にとっても、「水都大阪」は、非常に意味のあるプロジェクトです。ここ何年間のなかで書いた「都市を変える水辺アクション」という本があります。今日は、この内容を特にお話させていただこうと思います。実は今日早目に富山に来て、図書館に行ってきました。図書館に行くと、この本が4冊もありました(笑)。良かったです。そのうち一冊は平積みにして頂いて、私が来ることを分かっていたのではないか、大変ありがたい、と思いました。蔵書検索をすると「都市を変える水辺アクション」はちゃんとありました。5階のまちづくりコーナーにあります。5階のまちづくりコーナーの棚は良いですよね。まちづくりコーナーを設けているところも珍しいし、ここはなかなか蔵書のセレクションがよいのではないかと思います。私の本が4冊も、すばらしいセレクションではないかと思っていました(笑)。
「水都大阪」に話を戻します。「水都大阪」は、公式のプロジェクトとしては2001年からスタートしています。この頃、皆さん覚えていらっしゃいますか?総理大臣がどなたか分かりますか?忘却の彼方ですよね。小泉純一郎さんが総理大臣をしていらっしゃって都市再生プロジェクトということをやっていました。小泉純一郎さんが総理だった時に都市再生プロジェクトが始まり、大阪府知事、大阪市長をされていたのが、橋下徹さんという方です。「水都」というキーワードは、大阪にとってラッキーな部分があったかなと思います。もともとは、水都大阪の都市再生プロジェクト、 都市、地域を再生するような色々なプロジェクトを都市単位でやりましょうという趣旨でスタートしたプロジェクトです。大阪は何で再生するかということを議論したとき、実は大阪は「水都」、水の都だということで、それを再生していきましょうとなりました。いくつか特徴あるのですが、まずは産官学が一体になる。都市計画の学生圏社会人圏とか、民活型、一体的に展開しようという趣旨が面白いと採用されました。富山にももちろん松川があり、富岩運河もあるので「水都」ですが、大阪も水の都です。大阪は沖積平野、大阪湾に流れ込む淀川、大和川といった大河川の河口部に位置しますので、沖積平野で、川と海と一体となったまちですけれども、まちのなかに江戸時代、たくさんの堀川が巡らされていました。全国から物資が集まることもあり、舟運が非常に発達した形でまちの形ができています。もちろん、水辺という見方もできますが、どちらかというと当時の感覚では、道路をつくったという感覚が近いと思います。こういう形で、まちができました。江戸は物資のまちですが、それに対して、大阪は町人街・商人のまちです。だから、大阪が東京と圧倒的に違うことは、色々違いはありますが、東京は街の特に山の手の方にいくと大名屋敷などがたくさんあったので、一個一個の敷地が大きいところが沢山あります。それが今、例えば近江藩の藩邸があったところは、六本木ヒルズになり、大規模なスーパーブロックの開発ができています。それに対して、大阪というのは、町人街なので基本的に大きなオープンスペースがありません。大阪のまちの中でまとまったオープンスペースがあるのは大阪城公園というところと大阪城のところと、それから中之島周辺だけです。中之島周辺は、蔵屋敷、全国の藩の蔵屋敷があったので、そこは比較的敷地が大きいですが、それ以外は全部町人街なので、びっしりと街のなかに町屋が建っています。まとまったオープンスペース全くありません。では、町人はどのように暮らしていたのかというと、だいたい道か水辺を使って暮らしていました。市場、市場も天満ですが、船から荷物をあげて道のあたりで競りをして捌いていきます。それから芝居小屋等もそうです。これは、道頓堀のあたりですが、船で乗り込み、芝居小屋で芝居を楽しむ。遊び等もそうですし、あと大阪は祭りもそのようです。祭りも水の上でやります。かつては、水辺というのは大阪の人にとってはかけがえのない、重要なオープンスペースだったのです。
●「水都大阪」とその歴史
かつてのまちの成り立ちでいうと、最初は1594年に東横堀川、この川が最初に開削されます。この開削を命じたのが豊臣秀吉で、関ヶ原の戦い、その後大阪冬の陣、夏の陣。大阪冬の陣、夏の陣で豊臣家は滅亡するわけですが、この1594年という時代はまだ、豊臣秀吉が生きている時代です。ただ、徳川との戦いを指揮していたのでしょう。何をしたかというと、大阪城の外堀、三の丸を埋めるのですが、この三の丸の造営を命じました。大阪では、防備を固める、いずれ徳川家と一戦交えるであろうことから、防衛強化で新しく外掘りをつくることを命じました。そこでできたのが東横堀川です。実はそれより西側の市街地は、この頃はまだ市街化していませんでした。湿地帯でした。この開削からスタートして、それ以降、例えば西横堀や道頓堀、安井道頓がつくったから道頓堀というのですが、これらのたくさんの堀川は江戸時代に入ってからのものです。ですから、大阪の水辺は豊臣秀吉が作ったとありますが、実は江戸幕府が作ったものが大半です。江戸幕府が大阪のまちの復興の時にこのように川を開削して出来上がっています。だいたい近世にできあがったものが大阪の水の基盤になっています。これは、大正時代1923年(大正12年)のパノラマ地図ですが、これを見ていただくと、このあたりが大阪駅であることが分かります。1923年の話ですので、大正年代ですから御堂筋はまだ出来ていません。御堂筋は1937年(昭和12年)に開通しますから、まだできていません。この頃の様子を見て頂くと、縦横無尽に堀川が通っているということが良く分かります。ちなみに、東横堀川というのは、今も通っています。道頓堀川も今も存在します。その少し北側にある東西にある川は長堀川で、今の心斎橋の辺りです。心斎橋というのは橋の名前で、今は川が流れていませんが長堀川にかかる橋だったので心斎橋という由来があります。また、岡田心斎というひとがつくったので心斎橋という名前です。大正年代は水辺がたくさんありました。来年100周年を迎えますが、市区改正設計という都市計画が日本で本格的に実施されるようになりました。その時に、大阪も都市計画が始まり、たくさんの水辺にもこのような大きな橋であるとか、立派な建築群が林立する時代になりました。大正期から戦前昭和にかけての話です。ちなみにそのころの橋のデザインの研究をしたのが、司会を務める阿久井康平さんです。彼が近代水都大阪の橋梁群のデザインの研究を博士論文でまとめました。
ここまでで、だいたい大阪の近世として江戸末期、昭和、戦前ぐらいまでを概説しましたが、実はずっと大阪は「水都」でした。ところが状況がどんどん変わり出します。これにはいくつか理由があるのですが、例えば港、港湾では船が大型化します。それから蒸気機関等に変わっていくと、まちの中に入ってくることができなくなる。小さなまちの中の河川に入れなくなるので、どんどん港が外に出ていくということです。第一水深バースは約20m超えるような水深がないと、船は接岸できません。当然まちの中への侵入は難しい。港がまちから離れていき、舟運は衰退します。そして、この舟運は、陸上輸送に変わっていきます。まさにモーテリゼーションの時代に突入します。それから、大阪は実は災害が多く、東京都に比べて地震はかなり少ないのですが、水害に弱いです。大阪は1934年(昭和9年)の室戸台風、1950年(昭和25年)のジェーン台風、1961年(昭和36年)の第2室戸台風で大きな被害を受けました。特に、1934年の(昭和9年)室戸台風は、大阪にとっては非常に大きな被害を与えまし。大勢の小学生が亡くなられました。今も防風警報で小学校が休みになるというルールはこの室戸台風からです。通学期に子供がたくさん外に出て、瓦等が飛んできて、たくさんの方々が亡くなられました。大阪は、大雨洪水警報では学校は休みになりません。それと、あとは地盤沈下です。大阪は工業用水のために地下水を汲み上げる。一番ひどい年は、都心部等では1年で60cm、1年間で60cm地盤が下がりました。今は、大阪は地下水の汲み上げを規制しており、基本的には地下水を取れないようにしています。地盤が下がるということは、水位が一定ですから海抜0m地帯あるいは0m地帯が増えるということで、水害にかなり弱いまちです。水害に弱いまちになるとどうなるかというと、かみそり堤防が出来上がります。堤防ができて、今まで水辺との関係が密接だったものが、行き交うことができなくなります。視覚的にもまちと水辺が断絶され、堤防を渡らないと行けない。そういう形にまちが変わっていきます。人が増えることで、生活用水が入ってきて、水も汚くなります。明治期になると、いわゆる管理のルールが導入されてくるようになり、今までは誰かが使っていてもあまり気にしない。皆の公共空間という概念がなかなか通じなくなっていきます。こういう形でどんどん水辺というのが人々の生活から切り離されていきます。そして、一時は忘れ去られた水辺となっていった訳ですが、その発想を反転しようというのが「水都大阪」です。例えば、産業構造が変わりました。昔は水辺というと工業系、産業系の用途中心だったのですが、どんどんまちから離れていきました。逆にいうと、水辺というのは、街に返してくれている、使える、再び水辺が使えるようになりました。それから交通手段も、先ほどパリの話をしましたが、今は車の時代ではない。もっと歩いて楽しむまちとか、人にやさしい交通手段が望ましい、というように変わってきました。水辺の護岸や遊歩道整備も熱心に実施されるようになりました。水質も綺麗にしましょうという流れになってきた。規制も更に緩和して使ってもらえるようにしましょうという形で水辺が再びクローズアップされるようになってきました。今思い返しても、水辺を色々活用する条件が整ってきたように思えます。ところがまだまだ使われていないことも現状です。そこで、色々考える必要があるだろう、水辺と都市をどのようにして繋ぐかは、やはり誰か中心になって物事を動かしていくとか、実際に何かアクションしてみると、次の展開が見えてくるのではないかということをずっと積み上げてきたのが「水都大阪」です。
モータリゼーションの発展で、西横堀川、東横堀川、東京の日本橋も同じですが、川の上に高速道路がつくられました。堀川は、近世にできていますから、まちが古いために、高速道路を地上につくる所がないので、川の上に高速道路をつくるということでこのようなまちになりました。今の市街地の写真を上から見るとほとんど水辺が見えないという状況も分かるかと思います。
●「水都大阪」でのプロジェクト
こういうなかで、「水都大阪」というプロジェクトが立ち上がった背景には、いくつかの理由があります。一つは大阪市長がトップになったまちづくりの話と、大阪商工会議所の会長がトップになったまちづくりでした。分かり易く言うとハードとソフトのような形でやりましょう、両輪で行きましょうということでした。実は、この頃はまだ、大阪市長は橋下さんではなく、関淳一さんでした。関一さんのお孫さんです。大阪商工会議所の当時の水都のトップだったのが、佐藤茂雄さんという方で、この方は京阪電鉄の社長さんをされていたのですが、これがラッキーでした。なぜラッキーかというと、佐藤さんという人は京大のボート部の方です。水辺が大好きでした。「おお、それ、ええな、やろやろ」と。根っこは理屈ではなく、「それええな、やろやろ」というところからスタートしました。そういう意味で、非常に応援団に恵まれたところからスタートしました。道頓堀川には、昔噴水がありました。今、道頓堀川は貧酸素状態でヘドロがひどいので、強制的に循環させています。水質浄化のポンプを入れています。これは東横堀川ですが、高速の下で誰も近寄れない雰囲気になってしまいました。天満橋、八軒屋浜では、大阪水上バスが運営している遊覧船があります。大阪観光の遊覧船の船着き場がありますが、その前には最近までブルーテント、つまりホームレスの方々がいらっしゃいました。かつてはこういう状況でした。八軒屋浜、天満橋駅周辺では、京阪の駅を横に出たらすぐ船着き場という風に改変されました。道頓堀川では、道頓堀リバーウオークという遊歩道が整備されました。太平洋側と比べると全然違うのですが、大阪ではだいたい、満潮干潮の差は市内で1m50cmくらいの潮位差があります。潮位差があるので、実はこういう水辺を歩くような文化を構築するのは難しいことなのです。こういった箇所では、上流と下流に水門をつけました。東横堀川と道頓堀川の両方に水門をつけたので、常に水位を一定にできるようになりました。そうすることで遊歩道を整備することができるようになりました。そこから2009年、この年は大阪にとって重要な年で、淀川開削100年という年でした。この年に水のプログラムをやりましょうという流れになり、「水都大阪2009」というイベントを実施しました。この時の大阪市長が平松さんで、大阪府知事が橋下さんでした。橋下さんが大阪府知事になったのが2008年の11月。つまり、この「水都大阪」が始まるまで1年ありませんでした。我々はちゃぶ台返しと言っていますが「これではダメです」と言われました。もともと、北川フラムさんのプロデューサーで、アート中心のプログラムを中心に考えていましたが、橋下さんは「せっかくお金をかけてやるのだったら後世に残るものにしましょう」とおっしゃいました。イベントでお金使って終わるというは良くないということで、何か次に残るようなものにできませんかとおっしゃられました。急遽、いろんなことを考えるようになりました。例えば、ライトアップを実施しましたが、これはイベントの予算で実施しました。大阪府の予算でした。しかし、橋梁の管理をしているのは大阪市でした。流れとしては、大阪市の橋に大阪府のイベントの予算でライトアップをしたということになります。細々とこういったことも継続して実施しています。この年に水辺にひとが集まるようなプログラムをやり出すようになりました。グランドプラザも同じような計画があったかもしれませんが、要するに立派なハードをつくりました。水辺にアプローチできる、水辺に佇めるような立派なハードをつくりました。ところが最初は誰も行きませんでした。それは、最初に申し上げたように、水辺と場所がつながっていなかったのです。ハードの空間をポンとつくっても、誰も行かないのです。生活から断絶されているから、誰も行かなかったのです。何億というお金を投じているのに、誰も行かないということはどういうことかという話になりました。水辺に行く必要がないし、そもそも水辺が楽しいということ誰も知らない。やはり、何か行くきっかけや、いってみたい、という仕掛けがとても大事だということを反省したわけです。その頃から、少しずつ水都がハード整備にずっと特化していたものが、色んなひとに参加してもらうということを重視するように変わっていきました。ソフトのプログラムのようなものを重視するようになりました。これは、ラバーダックと言うのですが、実は民間事業で実施しているプログラムで、千島土地という大阪の会社です。不動産会社が社会貢献事業として実施している事業です。これはオランダのホフマンさんがつくったアートです。ラーバーダックはバルーンアートですが、これを千島土地の下川社長さんが「大阪水都」をやるのであれば、それに貢献できるようなアート作品をやりましょうということで実施しました。だいたい1週間くらいで700万の費用を要します。空気を入れているだけのように見えますが、クレーン車で引っ張ってきたりして色々お金が掛かります。我々は、イベントの時にお金を払っています。さすがに700万円全額払えない状況が多いので、そういう時は、どういう取引をするかというと、だいたい300万くらいは出して、残りのお金は、キーホルダーやTシャツを売ることで交渉しています。今ではおかげ様でラバーダックは「水都大阪」のアイコンにもなり、「今年はいつ出るのですか?」とか「どこに出るのですか?」といった声も多く耳にします。もし、富岩運河に浮かべたいということで言って頂いたら、700万よりは安く実現できるのではないかと思います。
2009年くらいから潮目が変わり、考え方が変わりようになってきました。いいハードをつくるということだけを先行しても無駄ということが分かってきたので、色々なプログラムを重ねていこうということになりました。例えば、大阪府文化課が実施している「おおさかカンバス」というイベントがあります。これは、博物館・美術館のなかでアート作品を楽しむのではなく、カンバス事業というのは何かというと、まちにアートが飛び出していくというコンセプトの事業です。まちの中にアートが設置され、水辺を美術館と見立て、アート作品を置きましょうと言う事業です。こういった行政主導のイベントとコラボした事例もあります。「光のまちづくり」は大阪の経済界主導している冬のイルミネーション事業です。こういう取り組みを水辺で実施したり、色々なものとひとが来るようなプログラムと重ねるようにしていきました。その結果、水辺に最近来ていなかったけれど、来てみたら変わっている、面白い、というような状況をつくるようにしていきました。それから「水都大阪フェス」は2011、2012、2013年に実施していたのですが、そのプログラムの中で、公園で結婚式をやりました。東北地震で被災し、大阪に疎開してきていたカップルに結婚式してあげてもらおうということで、公園で実施しました。実は、親戚は、もともと東北にいらっしゃった方で、大阪で結婚式をあげるのに親戚が5人くらいしか来られていなかったのですが、公園にたまたまいらっしゃった方が一緒になって祝福しました。偶然バラ園にバラを見に来ていた方々にも、結婚式をやっているということで、一緒に参加して祝福してくれました。
また「北浜テラス」というプロジェクトもあります。これは、後ほど詳しく説明します。また、関西大学のプロジェクトで、中之島公園の使い方について、色々とその可能性を伝えたいということから、関西大学の木下先生がボードゲームパークという取り組みを行いました。中之島公園の一部を関西大学の学生たちが貸し切って何をしたかというと、ボードゲームパークなので、オセロなどのボードゲームを貸すという画ができます。オセロを渡すとちょっとオセロをやろうかという流れになります。そうすると、風景が豊かになります。みんな気持ちいい場所で、自分たちが居心地いい場所を探すし、それがまた絵になってきます。こういう体験を生かしてもらえると、次からは何の仕掛けもいらずに、自分たちで水辺に行って、とまちや水辺との関わり方が変わっていくということです。そんなことをやっていると、どんどん水辺をイベント的にも使ってくれる方が現れて、最近ではシークレットライブなども実施されています。
●「北浜テラス」について
ここで「北浜テラス」の話をしたいと思います。「北浜テラス」は何かというと、いわゆる河川敷、河川空間のテラスです。基本的には河川空間は、私用で使ってはいけないという場所です。1997年に河川法という法律が改正になり、今までは、水辺、川の空間というのは治水と利水に重きが置かれていました。治水というのは水をせき止める安全の話、利水というのは用水です。飲み水とか農業用水とか水力発電とかそういう類を利水といますが、そういう使い方しか許可されなかったのが、環境とかといった別の使い方をしてもいいですよ、という法律として変わったのが20年前です。そこからでは、色々な使い方をしてもいいですよというようなことが言われるようになり、「北浜テラス」を最初に実施したのは2009年です。水都大阪2009年の時に社会実験で実施しました。この河川敷を、要は民間が賑わい利用する、単純に言うとそういうことです。実は、古い話だと同様のことはもっと前から実施されています。どういうことかと言うと、毎年大阪では7月25日に天神祭りという祭りが行われますが、水上では船がたくさん通ります。船がたくさん通って花火があがります。この頃になると、川べりの一軒のビルが毎年必ず、決まってエアコンが壊れます。毎年必ずエアコンが壊れるので、修理のための足場が必要という、専用許可が毎年出ていました。河川事務所も分かっていたと思います。「ああ、これ、足場作って天神祭りの監視をするつもりやな(笑)」と分かっているのです。分かっているのですがやっていました。ですが、やっぱりせっかくこんないい水辺なら、きちんと合法的にと。アンダーグラウンドでイリーガルにやるのはやはりよくないだろうと。合法的に是非やりたい。とっても素敵な風景が見えるのでそれをちゃんと合法的にやりたいという話を西大阪治水事務所の人に地域の人が相談にいきました。そうすると、「いや、それはいくらなんでも無理だよ」という話だったのですが、ちょうど2008年に広島の京橋川で、河川占用許可の特例措置で、初めて川べりにオープンカフェが出来た事例がありました。どうやら規制緩和で出来るらしいということになって、だったら大阪でもやってみようという流れになりました。しかし、行政の管理からしたら怖い。いきなり実施するのは怖いので、じゃあ水都大阪2009の時に「イベントとして実施したらどうや」という話になりました。社会実験をして、安全上の問題点があるかどうかを検証することにしようという理由で実施しました。イベントのプログラムのなかに組み込み、社会実験で問題がないかどうかを検証し、問題無いということを確認した上で合法的に川床つくれるようにしましょうという風に変わりました。どのような仕組みかというと、この川床というのは、実は公共空間からのアプローチできないのです。ビルの入り口通らないと、この川床にはアクセスできないという形です。じゃあ、これをテラスできたらと、どんどん商業利用が進んでいきました。行政が地域の人と話し合って、協議会をつくってくださいということになりました。地域で水辺協議会をつくり、大阪府はこの占用許可は水辺協議会に出しましょうということになりました。水辺協議会は責任持って、民間事業者、オーナーさんと話し合いをしてくださいということですね。きちんと話をして、ルール守る、実はすごくたくさんのことやっています。例えば、川床の構造とかデザインのルールもあります。東京で実施している川床では周りにビニルシートつけたり、屋根をつけたりするタイプがたくさんあります。屋根をつけてビニルシートを巻くと、それだけで営業できるので、営業上は非常に良いのです。営業上は非常に良いのですが、ここはやってないのです。だから冬場はほとんどお客さんが入らないという感じになりますし、でもやっぱりそのほうが風景をつくれるという意味ではいいだろうということで、寒い時は寒い。暑い時は暑い。蒸したときは蒸れる。そういう川床で行こうというのが、「北浜テラス」での考え方です。デザインルールは守ってください。それからちゃんと、清掃をきれいにしてください。というような意識・責任を持ってやってくださいと。やってくれるのであれば、大阪府は占有許可出しましょうということになりました。
大阪でも地元の協議会に特例で貸すということをやり始めたのは初めての事例でした。いわゆる地元のまちづくり団体に許可を出したということです。これには色々なパターンがあるのですが、今でも、やはり事業者さんが信用できない場合は、市役所や区役所とかに占用許可をお願いする。カラクリはこのような感じの構造になっています。この辺りは、公私境界の河川部に土台をつくって、堤防に支えられているように見えますが、堤防の上には橋もかかっていない。こういう状態でやっています。地元の人には夢があって、将来的にはこんな風に、この「北浜テラス」の外側から船着場にアプローチしたいという意見もあります。その上が遊歩道になっていて、ここから階段を上がって行けるような川床をつくりたいというのが地元の人の夢なのです。これが可能になると船でお店にアクセスすることもできるという訳です。地域の方々はこれが夢なのです。ですから、道半ばなのです。もともと、三軒から始まった「北浜テラス」は今では13軒になっています。どんどん増えています。毎年、私も年度報告を聞く機会がありますが、最近はすごくゴージャスな川床になってきたりしています。一方で、プレイヤーが増えてくることでの課題もたくさんあります。水辺協議会に占有許可を出しているので、水辺協議会がつくったルールを守っていただかないと川床は出せないのです。水辺協議会と大喧嘩したら、直接占有許可取ると言って、事務所に直接行った民間事業者もいらっしゃるそうです。その時に治水事務所は水辺協議会にしか占有許可出しませんから、みなさんと話し合ってください。という方法でやってらっしゃる。やはり、根っこを辿ると、公共空間を勝手に使って良いルールではなくて、公共空間を賑わい利用する、公共性を担うという宿命なのですよね。別に、好きなように使って良いという許可、手続きが得られるという訳ではありません。また、対岸が中之島公園であり、中之島の対岸からもこういう風景が見えるということはまちの風景を豊かにしてくれる。公共性もある。もちろん私有空間、民間ビジネスもあるのですが、景観を良くしてくれる公共性があるので認めましょう。そこで、「北浜テラス」をビニールで囲ったらどうなりますか? 単なる公園を使ったビジネスになっちゃいますよね。景観つくるという公共性は無くなりますので、そういうことは今のところは許容していません。
●「水辺バル」について
2012年には「水辺バル」というプロジェクトをやりました。これは「水都大阪フェス」というプロジェクトの一環です。ハートビートプランという事務所があります、社長の泉さんが中心となっているプロジェクトです。「まちバル」という函館発祥のまちおこしプロジェクトがありますが、今ではもう全国で100を超えるバルが展開されているかとも思われます。だいたい一枚500円から700円くらいのチケットです。だいたいバルは3,000円とか3,500円の5枚つづりのチケットになるのですが、このチケットでワンドリンクという仕組みです。仕組みはだいたいどこでも同じだと思われます。この5枚つづりになっているのがミソで、5枚つづりということは一人で行ったら、5回使えるということ、二人で行った場合も2軒、3軒目くらいまでは行くことができます。どういうことかと言うと、伊丹というまちが非常に有名なのですが、まちをはしごしてくれるのです。2軒目、3軒目というところがミソだと思っていて、1軒目は多分自分が良くいく馴染みの店にいくのです。2軒目、3軒目となると、今まで行ったことないけど、気になる店に行くようになるのです。今まで気になっているけど、行ったことの無い店に行くということは、要するに新しいお見合いみたいなもので、お店にしてみたら、新しいお客さん獲得にいい機会になる。だからワンドリンク・ワンフードでお試しなのですよね。そういうイベントになる訳です。まちとしても、2軒目、3軒目とハシゴする。発祥であるスペインのまちのバルの飲み方ってまさにそうなのですが、みんな馴染みのバルがあって、4人いたら、4軒バルに行かないと帰れないそうです。「私の行きつけのバルに来い」、そこで一杯飲むと、一杯しか飲まない。一杯飲んだら、「あなたの馴染みのバルに連れて行け」という風に。4人いたら4軒。10人いたら10軒回るのです。そういう飲み方するのだそうです。さらに、割り勘のルールがないので、自分のバルは私が払う。そんな感じでハシゴする。このバルも、そのようなやり方で実施するので、地域活性化のプログラムとしては非常に注目されているのですが、これにプラスアルファしてクルーズのチケットというものをつけたのです。チケットは飲食にも使えるのですが、船にも乗れる。船にも乗れるチケットですよって言われたら、やっぱり乗ってみたいなと思いますよね。今まで水辺に行ったことがない人に「船乗れますよ」って言ったら、じゃあ乗ってみようかとなる訳です。これで水辺が面白いなと思ってもらえたら水辺のリピーターになってくれる。というプログラムでやりました。泉さんとや大阪の舟運業界の人が中心となり頑張って大阪中の船を集めて八ヶ所の船着場を設けました。「北浜テラス」では、臨時の船着場をつくったりもしました。こういった取り組みを常設で実施したいという思いで社会実験を実施しています。やってみてわかったのは、すごく好評でしたし、船が足りなくて、船に乗りたかったのに乗れなかったというお叱りも受けました。もっと、船を増やすということが大事だったというのが、私たちとしても勉強になりました。
●昨今の大阪の水辺での動き
大阪城の辺りから京セラドームの辺り、東横堀川、道頓堀川、木津川で囲まれるエリアを水の回廊と呼んでいるのですが、最近は淀川本川の河川敷を利活用できないかとか、臨海部の辺りを活用できないかと、水辺利活用のエリアはどんどん拡大しています。富山も外国人来訪者の方が多い印象を受けましたが、大阪もいま非常に多いです。特に、道頓堀、大阪城、中之島の辺りが多いです。今年は、学生とインスタグラムの研究もして、中之島では、非常に多かったです。私たちもそうかもしれないですが、違うまちに来たらやはり船に乗ってみたいというひとは結構います。観光行動としては船に乗るというのはオーソドックスなので、外国人の方は、水辺に抵抗感なく船に乗って頂いている印象もあります。舟運事業者も多くの外国人来訪者を受け入れる体制を整えています。大阪水上バスという、大阪城、天満橋あたりを走らせている船は、アルバイトでウズベキスタンの人を雇っています。なぜウズベキスタンの方を雇うのですかと聞くと、ウズベキスタンの人は中国語とロシア語と英語が話せるので、観光ガイドしても秀でているとのことでした。とにかく船を増やすということは当面の課題で、最近はどのようにして船の数を増やすかということを熱心に考えています。運行の関係上、定期航路の船との関係もあり、ダイヤを外すなど色々な課題もあるのですが。予約さえあれば運行するというのはかなり増えてきました。これから中型船、小型船の定期航路みたいなのものがどのようにしたらつくれるかというのが課題と思っています。この2、3年ずっとやってきたのは、行政と民間の橋渡しといいますか、水辺空間の利活用とか、そういうものをやりたいという人と、やりたい人がいるのであればそれを実現していくためのインフラ整備や規制緩和を実現しましょうとか、行政と民間を橋渡しするような組織をつくって活動をしてきています。
昨日から「マンハント」という映画が公開になったのをご存じでしょうか。ジョン・ウーという方が監督で主演が福山雅治氏です。実は、この映画のロケ地に大阪の水辺をかなり取り入れて頂いております。中之島周辺では水上バイクのロケ、大阪城公園の辺りでも撮って頂いております。これはジョン・ウー監督から持ちかけられた話でしたので、渡に船でした。水辺だけに(笑)。こんなことからも知名度が上がってきたのかなと思っています。まず、まちの魅力を見つける。また、それ自体を頭で理解するのではなく、体で体感しないとなかなか動かないので、そういう見つけるという機会がいると思います。それから見つけたものを他人に伝えるとか、理解してもらうという働きかけも必要になります。では、デザインがいらないかと言うとそうではなくて、空間をしっかりとつくらないといけない。こういった風景を日常化しようとすると、電気、浄水、排水なども必要であることも分かってくる。やはり、設えがとても大事だということにも気づきます。とは言っても、いきなりやっても駄目なので、お試しの機会も必要でありますし、それを支える制度も重要となってきます。それぞれの項目でどれが欠けても駄目です。しっかりバランスよく進めていかないとなかなかまちづくりというのは上手くいかないということをこの「水都」で今も実践しながら、考えているところでございます。
時間が来ましたので、今日はこれで締めさせていただきたいと思います。本日はどうもありがとうございました。