お知らせ

2日後、私たちのコメは突然売れ始めました。。(まちセミ講演録:高野誠鮮その3)

2013/01/17 

スーパー公務員「高野誠鮮」さん講演会 

「こうすれば人は動き、まちは変わる」 

2012年12月15日 富山国際会議場

主催 NPO法人GPネットワーク

協賛 富山大手町コンベンション株式会社

 

その3

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最初に泊まりに来てくれた女子大生が、大学に帰って、「ケイタイつながらないけど、心がつながる村に行って来ました。」と話してくれるのが良い宣伝になりました。

そのうち、法政大学の先生がやってきて、是非、うちの学生も泊めてくれというので、お受けしましたが、泊まる家は自分で交渉してもらいました。

先に、どこも受け入れ先がなかった場合の、冷暖房も食事ないひどいあばら家を見せるので、学生たちは真剣に農家とお泊り交渉をします。

女子学生が泊まるとじいちゃんが、男子学生が泊まるとばあちゃんが、元気になります。

とにかく、生き生きとしてきます。

この子らを泊めても、何も得はありません。少し宿泊費としてお金はいただきますが、ごく僅かです。この子たちは農業のことも全く知りません。

ところが、未熟な学生を受け入れることで、農家の方の気持が豊かになるのです。

お前ら、縄の結び方も知らないのか、種のまき方もしらないのか、あれも知らないのか、これも知らないのか、お前ら学歴あるかもしれないけど、生活能力ゼロだな。

教えている方が心が豊かなのです。

じゃあ、今度、外人を連れてきて良いですか。

何でも誰でも良いよと言われて、日本語がほとんどしゃべれないニューヨークの不良高校生を2ヶ月泊めたのです。

過疎の集落が外人を受け入れるようになるのです。冬場、なんでもやることはあります。2月から3月、棚田に巨大な雛人形が現れるのです。これは、農家の人たちと学生たちで作ります。数年前からは社会人も参加してもらっています。

最初の年は力が入りすぎて、100mかけ40mの巨大なものを作ったんです。

私たちは、雄雛と女雛の間でチラシを配ったのです。何のチラシかというと、「お帰りには村のレストランをご利用くださいというチラシです。」それは、岐阜市から移住して農家カフェを営んでいる武藤君の店のオープンを33日にしたのです。

この、カフェには道案内の看板をあえて出しませんでした。チラシをもらった人は、村にはコンビにさえないのに、レストランなんかあるのかと不安がりながら、一時間も探し回ってコーヒーを飲みに来てくれたのです。

人は、こういう体験をすると、他の人にも同じ体験をさせたくて、また、誰かを連れて来てくれるのです。共感です。

金沢のあるコンサルタントは、「君たちは半年もしないうちに岐阜に帰ることになるから」と言ったそうです。携帯も繋がらない、国道沿いに看板も無い、こんなところに客が来るはず無いと。

馬鹿だと思いました。戦後の日本人の食に対する欲求は「量」でした。それが「質」に変わり、そして「時間」に変わりました。早朝に食べたい、深夜に食べたい、だからコンビニがこんなに普及するのです。

今は何が重要か。目に見えない空間・雰囲気、これと食が合わさるのです。

 

さて、彼らは食べていけるのか。久本雅美のクイズ番組になりましたので、ご覧になった方もおられるかもしれませんが、こんな過疎の村の農家レストランで年収はいくらか。

なんと、税務署を意識してか800から900万円と言っていますが、実際は1200万くらいだと思います。

彼が作ったカボチャは1個一万円以上になります。普通の農家は当然一万円になりません。なぜなら、生産・加工・販売をするからです。一次産品は包丁入れただけで値上がりするのです。細かくスライスするともっと上がります。衣を付けて油で揚げたらもっと上がるのです。それが一次産品なのです。

彼はカボチャ1個からいろいろなものを作ります。シフォンケーキ、プリン、パイなどです。280円から400円位のものです。

1個のカボチャが1万円に化けます。しかし、187平米の農地しかもっていないのです。

石川県の新規就農者の会に入っています。僅かな農地でも生活していけるのです。

彼らが、平成18年に初めて子どもを生んでくれたんです。何が起こるかというと、近所のおばあちゃんが、子育てを手伝ってくれるのです。なぜか。おらが在所の子どもなのです。18年も子どもがいなかった村で、子どもが生まれたら地域の子どもなのです。

過疎の村には、何も無いわけではなく、教育力が残っているのです。

 

同時にやっていたのが「ブランド化」です。

動機は、魚沼でできるのなら、僕らも出来ると思ったことです。 

最初に導入したのが人工衛星の利用です。

人工衛星からの写真で、田んぼにある段階で、役所が米の味の仕分けをしたんです。写真で青く写っている田んぼはとっても美味しいお米です。赤いのはとっても不味い米です。黄色は不味い米です。

レッドカード、イエローカードの不味い米は、農協に出荷してください。美味しい米は自分たちで高く値段を付けて売ろうと考えたのです。

このシステムは役所がビジネス化しているのです。クライアントは、山形から岡山まで10箇所くらいのJAや営農組合が私たちの顧客になっています。

地元の新聞で、最初は酷評されました。その次は褒められました。どっちが正しいのでしょう。

 

さて、ブランドですが、ブランドは生産者がブランドを作るのではありません。消費者がブランドだと認めたものがブランドなのです。

消費者がどうしてブランドと思うのか。心理構造の確信部分が説けない限り、ブランドを理解できません。

人間は、自分の買ったものを人に語りたいものです。その時のために、「物語性」が必要です。農作物にもそれがあるかないか。

人間は、自分以外の人が、持ってる、飲んでる、着てる、身に付けてる、履いてる、食べてるものを欲しがるのです。

あの人良い鞄持っているな、あの女優さんが着ている服どこのメーカーだろう。ケリーが持っていたバックは、エルメスでケリーバックと呼ばれました。アメリカのダレス国務長官が持っていたバックはダレスバックと呼ばれています。

 

つまり、私たちの農作物をブランドにするにはどうしたら良いのか。簡単です。いつも誰が食べているかが問題なのです。しかも、影響力の強い人が良いのです。影響力の強い人が、食べたり、持ったり、使ったりしているものがブランドになるのです。

そこで、3人選びました。 ここは日本ですから、天皇・皇后両陛下。神子原と書きますのでローマ法王。そして、米の国と書くアメリカの大統領。

 

すぐ、実行に移しました。宮内庁で不思議な言葉を聴きました。石川県といえば旧加賀藩ですから、前田家です。宮内庁に前田さんがいるのです。

明治以降、廃藩置県で、城と用地を政府に明け渡しました。政府は、未来・末代までの、藩主の身分保障をしています。だから、前田さんがいるのです。第16代、前田家当主がおいでたんです。宮内庁の受付の人は、「殿様。今日、石川県の羽咋市から市長さんが来ておられますが、約束はありますか。」と電話で確認しているのです。

今、この人「殿様」と言わなかったか?否、空耳に違いない、と思っていました。ところが、応接室で、女官さんが、「殿様・・・」と話されたのです。

私たちも、名刺を出すときに、思わず「殿様、こういうものです。」と、名刺を出しました。殿様は「はい」と返事されました。未だに「殿様」なんです。

徳川さんもおられましたよ。呼称は「徳川の殿様」です。

 

私たちが、この前田の殿様に何をお願いしたかというと、皇室の「皇」に「子」と書いて「みこ」と呼ぶ。だから、私たちの「米」を両陛下が定期的に召し上がっていただくことはできませんかとお願いしました。

殿様は、「ああ、良いですね。僕は石川と関係が深いし、早速、やりましょう。」とおっしゃいました。すぐに料理長を呼んで話をされ、料理長は、「今晩の夕食に早速使いましょう。侍従長には、自分から話をしておきます。」とトントン拍子でした。

私たちは、役所に直ぐに「成功したぞ。」と連絡し、宿泊先のホテルに帰って、ドンちゃん騒ぎでした。頭の中には、菊のご紋を使ったポスターやのぼり旗のデザインが出来あがっているのです。あっ、「菊のご紋を勝手に使って良いのか。」位のことを、早々と心配していました。天皇・皇后両陛下御用達「神子原米]近日発売の文字が頭を巡っていました。

ところが、どんちゃん騒ぎして、ホテルに帰ってみると、電話の横の伝言メッセージのオレンジ色のランプが光っているんです。

聞いてみたら、宮内庁からの連絡で、「先ほどの件については、無かったことにしてください。」ええっ・・・でした。

ドンちゃん騒ぎは何だったのか。なぜ駄目なのか、食い下がって聞いてみました。1:15:04

献穀田制度の輪番制が崩れるというのが理由でした。

帰りの飛行機の中で、市長から文句を言われました。

 

次に、ローマ法王に手紙を書きました。「神子原」は英訳するとキリストの原っぱという意味になってしまいます。ここのお米をあなたに召上がっていただけないか。でも、1ヵ月たっても、2ヵ月待ってもバチカンからは返事がありません。失敗したと思いました。

次に、三つ目、アメリカ大統領に狙いをつけました。米国。米の国です。当時はブッシュ大統領です。

しかし、私たち普通の農家が丹精込めて作った米5kgをホワイトハウスに送ったらどうなると思いますか。ネグレクト、受け取り許否されるのです。

一方で、食べたくもない遺伝子組み換え大豆が400万トン、トウモロコシは1300万トン、日本に入ってきているんです。たった5kgの米がホワイトハウスに行かないのです。

カチンと来たんで、アメリカ大使館の職員に頼んで、先代のブッシュ、父親のところへハンドキャリーして、父から息子に渡してもらおう、急がば回れ作戦に変更しました。

そんな交渉をしているところに、ローマ法王庁大使館から電話が来たのです。

怒られると思ったら、違っていました。「直ぐ来なさい。」でした。

私と町会長で45kgの米を担いでいきました。市長は手ぶらです。

玄関で大使代理が待っていてくださって、「あなたたちの神子原は500人の小さな集落ですね。バチカンも800人しかいない世界一小さな国なのです。小さな村と小さな国の架け橋を大使と私がやりましょう。」とおしゃっていただきました。

日本からローマ法王への正式の献上品としてこのお米をみてあげますとのことでした。

私たちは、古くからの献上品のリストを見せてもらいました。誰が何を献上したか、主だったものは、みんな書いてあるのです。織田信長の送った「屏風」もリストにありました。米もあるか調べてもらいましたが、ありませんでした。つまり、私たちの米が、ローマ教皇への始めての献上米になりました。

それまで、私たちの米は全然売れませんでした。突然売れ始めたのは、その二日後です。

その4につづく・・・・

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