レポート

まちづくりセミナー2011

第5回講演録 講師:山崎亮氏 studio-L代表/京都造形芸術大学教授

2011/01/14 

第5回 平成24114

演 題 「つながりをデザインする。」

講師:山崎亮氏 studio-L代表/京都造形芸術大学教授

 

 

はじめに

いいですね。これくらいの人数って。

ヒューマンスケールな感じがして。昨日お見かけした人もちらほら。

昨日は新潟でした。新潟市の夜に三条市でお話して。

なので最低限、三条市の話しとはかぶらないようにしようと思ってきたんですが、ただ、ここに来るまでの間にどっちを話そうかなとかなり迷いながらここまで来ました。

 

まちの中の、富山の都心部の部分をどうやってつくっていくかという話しをするのが僕は一番楽だといえば楽なんですね。ですが、あんまりしゃべったことのない話にしようということにしました。

 

ちなみにまちなかのソフトの話で言えば、おそとという雑誌をつくっていたという話とか、丸屋ガーデンズ(鹿児島)でどういうことをやって、それを宮崎県の延岡という商店街でどういう風に展開をしようとしているかという話に続くわけですが、この手の話は割合しょっちゅうやっているのもあって、新鮮にしゃべれないなということがあるんですね。

今日はその意味ではだいぶ違う話になります。

 

今日の話しについて

コンパクトシティだけでいいの?ということをお話しようと思っています。

富山だし。先進地だからこそ、また今日も雪がたくさん降っていますから、その必然性がよく分かるんですね。富山で、そして青森でというのも意味は分かる。じゃあ雪が降っている地域の人たちとの交流はどうするの。特に富山は広域的な合併もやってますから、かつてより10万人人口が増えるほどの大きな市域になりました。その大きな市域になったときに、富山の中心部のコンパクトシティと中山間地域の集落との関係をどういう風にとっていったらいいのかというのを、まさに今日お話しようと思っている点です。

 

自己紹介

最初に少しだけ、自己紹介を。コミュニティベースドと書いていますが、そこにお住まいの方とかそこに活動されている方々と一緒に、常に計画を考えたり、デザインを考えたり、マネジメントを考えたりするというのが基本的なスタンスです。キャリアのスタートはランドスケープデザイン、あるいは建築のデザインというのがもともとの仕事でした。特にランドスケープデザインというのは、公園とか庭を設計するお仕事ですけれども、公園というのは設計して4,5年経つと誰も使っていない寂しい空間になってしまうことが多い。これじゃまずいんじゃないかなということで、その公園にマネジメントということがないとダメなんじゃないか。

 

博物館に館長がいて、学芸員がいて、美術館にキュレーターがいたりするように、公園にも園長がいて、そこにコーディネーターみたいな人がいて、公園で毎日のように違うことが行われていて、だから公園に行くみたいなことをやらないとハードを作ってあとは勝手に使えということでは、これからの人口が減少していく世の中では公園がたくさん使われる空間にはならないのではないか。ならないということは費用対効果が悪いということ。せっかく税金を使って整備しているのですから、作ったのに5年で人が来なくなったということに何十億かけているということはこれからの時代、おかしいのではないかなと思い、パークマネジメント(公園をその周辺にいる市民の方々と一緒にマネジメントしていく)という仕事をやるようになった。

 

具体的にはNPO団体とかクラブ活動、サークル活動をやっているところに、一件一件ヒアリングに行って、どういう活動をしているのか、その活動をうちの公園でやりませんか?と誘って回ったんですね。最初40団体からスタートして40の団体が日替わりでいろいろな活動をする。その人たちが自分達のファンを増やしていって、ファンの人たちにメーリングリストで呼びかけて、誘うとそのうちの2割くらいの人たちが公園に来てくれるという仕組みをつくったんですね。

 

大体100人ぐらいの名簿を持っている。どこでもすぐ作れます。100人の名簿くらいは。たぶんここを主催している団体も名簿はすでに作っていると思いますが、この団体が今度はこんな講師を呼んで話をするけど来て下さいとメールをするとだいたい2割くらいの人が来てくれます。ということは1000人の名簿を持っている団体がいれば、この団体が声をかけると200人くらいの人を集めちゃったりします。少ない団体だと100人、70,80人の名簿です。それでも声をかけると20人くらいの人は集まってくれるということです。

 

この団体が何回も何回も公園で活動してくれる。いろんな活動団体がありますけれど、その団体が何か活動をすると、そのつど来園者が増えていくということで、もともとは人前でしゃべったりプログラムをしたことのない人たちでした。公民館を借りて話したりとか、お金を払って活動をしていた人が「お金はいらない。公園に来てやってください」と。ただ、公園の来園者の方々にそれを公園のサービスとして提供してくれませんか?ということで契約みたいなものを結ぶわけですね。そうすると、準備とか緊張するので月に1回程度しか出来ないんですね。しかし、慣れてくると荷物を置く倉庫とかもありますから、だんだん出来る期間が短くなっていく。その都度、来園者が増えていくということになります。

 

これが40の団体だったのが80の団体まで増えていけば、来場者は増えていくというような仕組みでパークマネジメントというものを兵庫県から最初は頼まれ、後に京都府、大阪府、国土交通省などから、また、積水ハウスなど民間の会社ともやるようになりました。それをマルヤガーデンズという百貨店でやったらどうかということで百貨店の中に小さな公園のようなエリアを各階に作っておいて、その場所はすごく安いお金で借りられるデパートの場所として、ここに40の団体を先ほどと同じくヒアリングに行って誘って活動をやってもらう。それで帰るときに、すぐ隣がお店なので買物をして帰ってもらうような流れをつくったのがマルヤガーデンズです。

 

さらに延岡駅周辺プロジェクトだと、これを商店街全体でやったらどうかということで、商店街の空き店舗やアーケードの中、神社の境内の中など、みんなで協力して空きスペース全体を使いながら地域のNPOの人たちがいろんな活動を展開していくということをやりました。だんだん、こちらの「まちづくり」という方に広がっていったんですね。

 

まちづくりということをやっていくと、まちの200人、300人という人たちと友達になってくるので、この人たちと一緒に総合計画をつくってはどうかということになって、その総合計画を市民の方々と一緒につくるといった仕事になってきました。今はあまり設計はやらないですが、パークマネジメントとかまちづくりとか総合計画づくりの仕事をよくやっています。

 

デザインとマネジメントの比率

デザインとマネジメントの比率は少しずつ違うなあと思います。設計をやっているときは9割方設計の仕事ですが、計画づくりの場合は若干マネジメントの比率が高くなってくると。しかし、常にデザイン視点は入れておきたいなあと思い、仕事をしています。

 

実践ではなく研究としては…

今のが実践で仕事としてやっているもので、その他、研究として中山間地域が日本の最先端だとずっと思っていましたので、この5年くらいは兵庫県の職員として中山間地域の研究ということをやりました。大学では、まちづくりの研究をやったりしてます。教育では、学生と一緒に、もう一度「デザイン」という言葉をもとに戻そうと。単にかっこいいとかかわいいとかおしゃれみたいなものをつくることをデザインと呼ぶことはやめよう。そういうのはデコレーションだから。ただ、飾っているだけなので、ちゃんとデザインを考えようと。社会の課題の本質を見つけて、これをみんなが共感してくれる美しい形で解決していくこと。これを考えようということで、震災とか子どもの放課後とか、神戸市が抱えている問題とか、いくつかの課題に対して解決策を出していけるような、そういうデザインのあり方というのを考えようということをやっています。大学ではコミュニティデザインに関する教育にも携わっているというのが簡単な自己紹介、今やっていることです。

 

人口減少の時代を迎えて

人口が減るということですが、2050年になると1970年くらいと同じ人口で、2100年になると1910年と同じくらいの人口規模になる。それがこの国のこれからの形ですね。それぞれ1910年と1970年のときの大阪はどれくらいの場所が市街地の場所だったかをプロットするとこれくらいですね。1910年だと今の環状線の内側くらいまでが市街地です。後は里山と集落です。集落がポツポツある。これぐらいしか、人が集積している場所はなかった。この里山とか集落がつぶされていって、1970年、万博などが行われるころには千里ニュータウンとか泉北ニュータウンとかこれくらいまでまちのエリアが広がっていくということです。さらにいうと、2000年には関西国際空港が出来ていますから、これくらいまで大きくなる。元から比べると市域が何十倍にもなる。こんだけ広がったわけですね。

 

これは人口が増えていく時代だと予測しやすいわけですね。1970年ぐらいから仕事を始めた人たちは極めて予測しやすい時代を生きてきたと思います。諸先輩方がやってきたことをさらに拡大させて、さらにグローバルにして、さらに儲けを大きくしたらよかったわけですから、ノルマが発生してどのようにそれを拡大、成長させていくかということがわかりやすかった。僕らはそうじゃない時代を生きると。

 

2050年には1970年と同じくらい。2100年には1910年と同じくらいの人口規模になる時代を生きていく。予想がしづらく、今までとまったく違った発想にならないと仕事の仕方が変わっていかない。同時に人口減少時代というのが拍車をかけていると思いますが、拡大成長路線というのが、自分達が拡大成長しているだけではなくどっかの資源を取ってきて拡大しているということがわかったので、取られていく方の環境は確実に悪化し、資源も取られてしまっているということがばれてしまっている。そういう関係になったときに、ますます僕らはただ単に拡大成長するのでいいのか。むしろ、この言葉がなんだかかっこ悪い感じに聞こえてくるような時代を生きていくわけです。ベンツの600Cを乗るのがかっこいいのか、それとも最新型のプリウスに乗るのがかっこいいのか。このあたりは年代によってだいぶ差が出るように思います。

 

コンパクトシティ

そういう時代を僕らが生きていこうと思ったときに、富山市がやろうとしていることはまず一つは当たっていると思います。コンパクトシティです。これは裏返しにコピーした図ですが、ところが実際はこうはならないでしょうね。大都市はちゃんと計画しないと。みんなここがスカスカに抜けていくだけですから。空き屋とかもそんなに上手く譲渡できませんので、実際はこんなに市域が広がったまちというのは、ちゃんと計画して小さく閉じていかないと、この中にきれいに小さくなっていかない。スポンジみたいに広いままになってしまいます。

 

そうなると上下水道、通信、電気もすべてこのはしっこまで出しておかなければならないし、雪が降る地域なら除雪をはしっこまで全てやらないといけないしということになるから、これから先、人数も減っていくんだしこれではもたない。税収も減っていくとすれば、どうしてこんなに広いところをマネジメントし続けることが出来るんだって、単純に考えたって分かる話。なので、コンパクトにしていかないといけない。

 

今は計画的に都心部にLRTを通したり、富山市がこれから何をしようとしているかというのは一部これからの未来を先駆けたきちっとした計画の中で行われていることだと言えると思います。ただ、もう一部では、このへんの集落の扱いをどうするか。かつては関係性があった。0がつく日に市が立つとか。集落のものを持ってより集めて、基幹集落に持っていって、これをみんなが背負ってまちまで行って、市を開いてものを買ってもらうんですね。買ってもらって街場で珍しいものを買って、また戻ってくる。集落では、これが都で売っているものか、といって皆が買ってくれる。この関係性がずっとあって、流域単位の関わりがあったので、少ない人口でも地域全体が上手く回るという仕組みになっていました。

 

よく言われるのは、金肥ですね。お金を出してでもほしい肥料というのは、人間が出した廃生物ですね。これをきちんとくんで持って帰る人たちがいたんですね。そこで肥料として使って作物が出来たらそれを都市部に持ってきて売り、これを食べた都市部の人間がまた出す。そういう流れが、食べ物だけではなくエネルギーにもあった。炭だったり薪も。この間にかなりの関係性があったというのが1910年の時代のこの図です。

 

だから2100年に向けて僕らは、ただ単にコンパクトシティ化していけばいいかというと、集落の方は雪が降っているしいいじゃんという風にここを切ってしまうというのは、都市に住んでいる人たち自身が成り立たなくなる。きれいな水はいったいどこからもらっているのか。21世紀になっても、実は電力も水もやっぱりどこかからもらっていたということが東日本大震災でよくわかったんですね。上流で何かが汚染されると下流域いったいがダメになってしまうという時代です。皆が取り合いになって西日本の作物がほしいというような話になったら相当な偏りが出ますし、エネルギーコストはものすごく上がる。

 

これからガソリンは高くなるし、電気もあんまり使えないといっているにも関わらず、遠いところから水や作物を運んでこないといけないというような事態になっちゃいますから。富山でも日本に先駆けてコンパクトシティをやろうとしているからこそ、周辺部の上流域、集落の地域とどういう関係性を切り結んでいくかということがすごく大切なんだろうと思います。

 

日本の人口の変化から

これは日本の人口です。総人口がずっと3000万人からちょっと上くらいで横ばいしていたんですが、特に1900年を越えたあたりからぐっと増えてきたんですね。これよく知られているようで知られていないのが、農村部の人口は日本の総人口のずっと8割だったんです。全人口の8割は農村部に住んでいた。都市部に住んでいた人は2割。富山市ももともと人口がそんなに多くなかったはずなんですね。昔の富山市域はそんなに人口が多くなかったはずです。

 

ところが、戦後に一気に人口の比率が逆転しました。農村部が2割で、都市部に住む人が8割ということになったんですね。この状態になってから、バーチャルウォーターとかフードマイレージが高まりました。アメリカからオレンジが牛肉が運ばれてくるようになったり、外からどんどんいろんなものを運んでこないと、こんだけ物を食べている人たちが都市部にいて、物をつくっていないですから。農村部の人たちでこれを全部養っていくということはやっぱり無理な話ですね。今までとは比率が違いますから。

 

こんな時代になっちゃったので、ずっとこの間不自然な日本です。この間、不自然な日本を暮らしてきたんですね。だから、日本の人口がこれから減っていくというのは、必ずしも悲観的な話だけではない。もとの3500万人くらいの人口に上手くソフトランディングさせていけるのであれば、これは非常にいいことです。食べ物を科学肥料を使わず作って、日本国内だいたい何人くらいの人が食べていけるかというと3500万人くらいしか食べていけないんですね。

 

日本の国土の面積からすると、この面積に降った水でなんとか日本人が暮らしていこうと思うと、1億人なんて暮らしていけないらしいです。これも3500万人ですね。バイオマスエネルギー、森林のエネルギーだけで、今のエネルギー需要で暮らしていこうとすると、約3000万人くらいしか暮らしていけないらしいです。日本人が3000万人くらいまで減っていくということは、自然な形に戻っていくということ。12700万人というのは少し太りすぎで異様な状態で、どこか遠い国から食べ物を入れてなんとかこの体を維持していたんです。

 

もう一回ダイエットをした方がいいんじゃないですかね。数千年、日本の国民というのは数千万人で暮らしてきたわけですから。この200年間だけ妙にぼこっと上がって、また長い間3000万人で暮らしていくという未来像を描いていくとしたら、3000万人になったときの年齢構成がどうかですね。高齢者ばっかりになってないかどうか。あるいは食べ物とか集落と都市の関係がどうなっているかを、もう一度調整しなければいけない。そういうことを僕らは考えながら、どういう風に計画的に人口を減らしていって、そして市域を小さくしていって、かつてと同じようなお手本になるような関係性を作っていくのか。これがすごい大事になると思います。

 

ところが今は過渡期なんです。ちょっと減ってきた。だから、ご存知の通り、限界集落と言う言葉がたくさん出てきました。兵庫県でももう200箇所と言われていますが、全国でも2000箇所近くの限界集落がありますね。限界集落の定義についても、今は少し間違ってしまっている。もともと大野さんの言った定義とは違うものが広まってしまっていますから、今限界集落と言われている言葉はあんまり信用しない方がいいかもしれません。限界集落と言われていても、そこに住んでる本人たちがやる気があれば、限界集落ではないので。いずれにしても、集落自体がかつてのような元気を持っていないということがいえる。

 

基幹集落と末端集落

これは、日本の昔からの構成です。富山県をイメージすれば、地方中核都市がここにあります。その他の中小都市がここにあるとすれば、あとは基幹集落というのがあります。日本の山はひだみたいになっていますから、山の中に入りこむところに末端集落というのがあります。だいたいいくつかの谷筋に入っていく手前のところにいくつかの集落が集まって出てくる場所があるんです。一番端っこの集落に行く前に基幹的な集落があって、それらがいくつも集まってきて地方の小さな都市を形成していて、そこから中核都市があって、そこから東京や大阪があるというのが基本的な構図です。

 

今、この末端集落がどんどんダメになっているどころか、末端集落が元気だけれども基幹集落がダメになってきている。ここがダメになれば必ず末端集落もダメになりますから、そういう状態が今日本全国で起きてきているんだろうと思います。最期の結論のところでもいいますけれど、富山市が大きくなってきていた時代は地方中小都市を飲み込んで大きく広がって、相対的には集落と市域の距離が近づいてくる。合併ということで一緒にしてしまうのも、もともとここだったのが20倍くらいに膨れ上がってしまう。もともと小さかったところが大きな市域になっていってしまう。こことここは、距離は近くなったんだけれども関係性は薄くなっていきます。こことのやり取りはなくなってしまう。ここの大きくなった人たちはほとんど外国とかよその地域から作物を買ってきて、この人たちからはあまり買わない。安いから。という生活になって、今スーパーに行くとどこから来ているのというものがいっぱいある。

 

そんな状態を繰り返してきたんですが、その市域をもう一度コンパクトな状態に戻していこうと思うときは、この上流部(流域系じゃなくてもいいんですけれど)との関係性や集落、他の中山間離島地域とどういう関係性をもつかというのがすごく大切になってくるだろうと思います。

 

なんで集落が大事なのか

思いつく限り挙げてみました。まだ他にもあるかもしれませんね。

・洪水を起きないようにしてくれている

・地下水を溜め込んでくれている

・土砂が出てこないようにする(下流部の都市の洪水を抑えている)

・大気を浄化する

・酸素や二酸化炭素を吸着したり固定したりする

・レクリエーション、環境学習

・食料自給率

・生物多様性

・水循環

・景観とかふるさとなど(地域固有の文化・伝統)

・鳥獣害に対するバッファ機能(山の中にいる動物が里まで降りてこないように、その間に、山の中の動物のための食べ物があるというのが里の機能だった。猪がいきなり里に下りてくるみたいなことはなかった。それはもう少し手前のところで何かが食べれたから。一度人間界で美味しいものがあるのが分かると、間にもう一度バッファ機能をつくっても下りてきます。覚えますから。

 

いったん荒廃するともとの環境に戻すというのはかなり難しいというのが、里地、里山の環境です。これをどう捉えていくのかというのが大切です。集落はいろんなことに困っています。耕作放棄地とか森林が荒れてきましたとか、獣害とかゴミの不法投棄、空き家が出てきています。このへんは特にパーセンテージが高いです。住宅が荒れている。お祭りが出来なくなった。このあたりが困っているということになっています。

 

繰り返しにはなりますが…

コンパクトシティでまちの中のハード整備が出来ました。次はソフトです。

こういうことを考えていくことも大事なんですけれども、このまちがコンパクトであって成立し続ける外部の条件が一体どう整っているのかということが、バランスをとれて考えられていないとここだけでは生きていけないです。水、作物をどうするの、という基本的なところとの結びつきがすごく大切になってくると思います。

 

これは中心市街地の商店街がこれからどうなるの、というのとすごく近いんですね。中心市街地の商店街に買物に行かずに、イオンやジャスコで買物をすればいいや、も確かにそうなんです。しかし、20年間そこで買物をしている間に商店街からお店がどんどんなくなって行っちゃって、20年後に車を運転できないからイオンやジャスコに行かないということになればイオンやジャスコも簡単に撤退していきますから。イオンやジャスコがなくなったときに、次はどこに買物に行くかということで中心市街地の商店街を見たら、もうお店はない。80歳になった自分達がいる。どこに買物に行くかということを困っちゃうんですね。

 

みんなが賢い消費者にならないといけないんでしょうね。これはこの商店街から買う。これはイオンから買う。きっちりと地域とのフェアトレードを、ちゃんとここの人たちには頑張ってもらいたいからこっちの経済圏を成り立たせながら、こっちも使います、というふうにやっていかなければならない。同じように、実は集落もやっぱりちゃんと生きていてもらわないといけない。コンパクトにした市域だけが元気になればいいということでは50年、100年もたない。50年、100年後の大阪の図を先ほど見てもらいましたけれど。ああいう風に小さくなっていくまちを先読みして富山市は非常に優れた政策を組んできたわけですけれども、これがコンパクトシティのところだけやろうとすれば無理が出てくる気がします。

 

これは実は兵庫県の研究所で研究しているときに、ずっとこういう研究をしていたんですね。兵庫県にもこういう政策提言をして、中山間地域との元気作成みたいなことを県がやり始めましたけれども、今までの話は割合調査ですとか、文献から読み取ってきたことが多いですが、同時にお前は何をやってきたんだということを残りの時間、お話したいと思います。

 

事例①:いえしまプロジェクト

家島は兵庫県の離島。姫路の沖合いにある島です。姫路港から船に乗って25分。割合便利な離島です。有名なのは魚で価値があるんですけれども、風景として奇抜なのは採石をやっているので削られちゃってるんですね。40いくつある島で、そのうち人が住んでいるのは4島だけですけれど、どんどん削られていって平らになってしまっている島。なので、端っこにしか家が建てられず、海に入るちょっと前にフラットになる。そこにずっと家が建っているような島です。

 

こういう島に、西上という女性の学生がいて、卒業制作としてたまたまここに入ったというのがきっかけです。富山の中心部にお住まいの方だったら、集落が大切だというのが分かった。集落とコンパクトシティとのバランスを取りながら活動せよ、というのもよく分かる。さらに、行政にやってもらえばいいことかもしれない。私たち富山の中心部に住んでいる人間は何をすればいいのか、という話になるのではないかと思い、この話をしようかと思っています。

 

つまり、この西上という学生も僕も大阪に住んでいましたから、その周辺にある集落に入り込むというきっかけがなかったんですね。この学生はもともと芸大にいたんですが、これからはものをつくる時代ではないと話していた。物だけつくって課題が解決されるという時代でもないので、ソフトとかまちづくりが大切になってくるよと言う話をしたら、私はまちづくりがやりたいですというから、まちづくりをやったらいい。ただ、まちづくりで重要なのは、そのまちの課題をどういう風に把握するかですね。ここが大事だと。

 

富山のまちづくりが有名だから、調べに行ってまとめて論文を書きましたというのでは卒業させない。重要な点は、集落だったら集落の課題を自分でつかんでくるところを練習できたかどうかが大事で、課題が分かればその課題の解決策を提案するだけなので、課題を掴んだ時点で卒業制作は半分終了したようなものだと。縁もゆかりもないような地域に入っていけという指示をしました。

 

例えで言えば、研究室の壁に西日本の地図を入って、大阪目掛けてダーツを投げて、たまたま当たった地域に入っていって、誰も知り合いがいない中、困っていることはないですか?と一流の笑顔とコミュニケーション能力で課題を引き出してこい、と。それがお前のやることだと言ったら、本当に西日本の地図をはってダーツを投げたら、姫路の沖合いの島にささってしまったので彼女は行きました。いえしまと言うところに通ったわけです。北海道出身の色の白い子。色白の女子大生が人口7800人の猟師の島に入るわけですよ。にこにこ笑いながら、今困っていることはないですか?とみんなに聞くものだから怪しくてしょうがない。こいつは何しに来たんだと。誰も情報を隠して何も言ってくれない。役場で資料をもらおうとしても狙いはなんですか?と言われるんだからしょうがないということで、一応は大学の教員ということで挨拶に行ったんですね。実は卒業制作なんですと。情報を分けてやってください、と。これがきっかけです。何の縁もない島に一人で入ったんです。

 

ここに入って2人でここを回って、話を聞いて、卒業制作は終わった。当然、どういう提案をしたかというのをまちの人たちに恩返しということで報告しに行った。報告しに行ったときに、もともとは家島の抱える課題として採石業、海運業が衰退してきている、原油高、それからまちづくりにはほとんど関心がないという地域だということが分かっていたので、まちづくりの研修会みたいなものをやってくれないかということを役場に言われたんですね。島で始めて「まちづくり」と名のつく事業をやりたいと思う。その研修会をあんた達で上手く企画してくれないかと言われたんですね。これが始めてお金をもらってソフトの仕事をやったきっかけです。2004年です。

 

僕は2005年に独立してますから、2004年はまだ設計事務所に勤めて非常勤講師という形で卒業制作だけはみていたんですけど、家島の企画財政課の方から依頼されてしまったので、自分はサラリーマンなので土日だけやりますということで、お金をもらう仕事としてはアルバイト、設計事務所以外で始めてやった仕事。

 

1回まちづくり研修会でワークショップをやると3000円でした。今でも覚えています。13000円でファシリテーションをやってきました。大阪駅から新快速で姫路まで行くと1000円で、姫路から船に乗って家島に行くと1000円で、僕は4000円交通費を払って、3000円もらって帰るということをずっとやってたんですね。でも、設計で飯は食えてましたから、ソフトの部分はまず手探りで始めようということで。

 

コミュニティデザインのきっかけはこれですね。ダーツを投げた。当たった。入っていった。そこで話をしていったら頼まれた。これ、赤字じゃん、と言いながら。まあいいや、なんか練習になるからということでここで鍛えてもらいました。猟師のおじちゃんがいっぱいいるところです。だいぶもまれました。家島でワークショップが出来れば、全国どこでもコミュニティデザインってできるんじゃないかなと思うような場所です。

 

家島はどういう島か

ちなみに、どういう島かというと、もともと猟師ですから、大漁になったらみんなに分けて、ダメだったら皆から恵んでもらう。賭けみたいなもの。だから博打好きで、姫路に行ってはパチンコとか競馬とかもよくやる。その後、戦後になると採石業が盛んになって、もともと博打打ちがやるわけですから、2億円くらい借金をして大きなガット船というのを買って、25mプールみたいな穴が開いているやつです。あそこに石をガンガン入れていくと、だんだん船が沈んでいって、ギリギリになると石を運んで売るという商売です。

 

これを2億円借金して毎年1億円ずつ設けて、借金を返したらまた2億円で買ってということで、10隻ぐらいガット船を持っているという人がわんさかいる島です。今の50歳、60歳の人たちが役場に勤めたら初任給が月7万だったらしいです。月7万のときに、ガット船に乗った中卒の人は初任給が30万だったという話ですから、4倍以上。今、初任給20万くらいという大卒の人がいるとすれば、入った瞬間から80万くらいもらっている。船に乗れば。そんな時代を60年くらい過ごしてきた島。まちづくりなんかやるわけがない。

 

採石業が盛んで共有の土地から石を採りますから、その石を採った代金の一部を区会(自治会の一部)にお金を払う。ということで、真浦も坊勢も宮もそれぞれ自治会があるわけですけど、自治体がたくさんの貯金を持っている。100億くらい自治会が持っている。役場に物を言ってもなんとかならないときは区会に言えばいい。区会にいえば、区会が道路などを作ってくれる。区会の区長はすごい力を持っている。その100億をどう使うか決めるわけだから。区長の選挙は公職選挙法ではないですから、賄賂みたいなものをいっぱいやる。当然。

 

また採石は漁業補償も出しています。石を砕きますから、風の向きも変わる。潮の向きも変わる。そうしたら漁業に影響があるんじゃないかということで。実際はあまりなかったらしいですが、毎年何億かが漁業補償が出て、漁業をやっている人たちも毎年すごいお金が出ていた。漁業補償があるから、みんなお金持ちなんです。そして、「採石業はもうあかんのや。明日食うていけるかも分からんのだぞ。なにがまちづくりだ。のんきなことを言うな。にいちゃんの戯言に付き合ってる場合ちゃうんやん」ということをすごい言われました。そんな島で2時間3000円でワークショップをしてました。

 

研修会は当然来る人がいないんですよ。10人くらいしか参加しない。その10人に何がやりたいですかと聞いたら、これからは採石じゃない。漁業もダメになってきた。これから食っていけない。家島は観光で売れないかなというので、自分達の島がどんな魅力を持っているのかを探りに行こうということでフィールドワークをやりました。結局フィールドワークをしたくらいだから、宮、真浦、坊勢の簡単なガイドブックを作りました。

 

皆がいいなと思うところです。家島神社、桜が綺麗な場所がある、風景の綺麗な場所がある、「どんがめっさん」という岩がある、お祭りがいいとか、いろんなものを出してくれました。役場の人たちはいい研修会が出来て、こんな冊子が出来たと喜んでくれました。僕らはこれで大阪から人は来ませんと思ったんですね。貴方たちの思うすごいいいなと思うところは、僕らがいいなと思うところとはだいぶズレがある。だからぜひとも来年度のまちづくり研修事業は、家島の外の人たちが家島のいいなというところを集めてガイドブックを作る。こういうことをやった方がいいのではと企画を出しました。しかし、役場の人たちは満足しているわけです。だから、いい、と。それは貴方たちがやりたいことなので、貴方たちでやって下さいと。

 

探られる島プロジェクト

僕らがこっから先は自分達で遊ぶしかなくなったんです。2005年から初めて、独立した当初だったんで時間もあったんで、「探られる島」というのをやろうと。この島はいろんな人に探ってもらってその魅力を顕在化させていく島だということで、行政の人には頼らない。勝手にまちを遊ばせてもらうという事業をやろうと。そこで、全国から1週間寝泊りしてこの島探りたい人を限定30名、大募集!ということにして。泊まったり食べたり、最期には資料を印刷したりするので、この費用を積んでいくと、僕らはお金をもらわないですが、27000円かかる。それを参加費に募集したら、結構来るんですね。千葉も九州からも来た。

 

これは5年間続けようと思った。外から見たらいったい島がどう見えるのかということを島の人たちに分かってもらおうと思って、5年間ずっと島を探り続けました。この「探られる島プロジェクト」は、3年目くらいに国土交通省がダムの跡地で「探られる里」というのをやってくれないかと言われて、国土交通省の事業として「探られる里」というのをやったこともあります。もともとそんなことになるとは思わず、誰からも頼まれていないし、お金も出ていないけど、自分達でやるようになりました。

 

全国から集まった人たちとアイスブレイクをやったり、チームビルディングをやったり、島を上陸した後の作戦タイム、実際に島に入ってからいろんな情報を得て、写真を30秒に1回シャッターを切ってということで撮りまくったので、3000枚くらいの中から奇跡的に面白い1枚を集めて編集作業をやって、毎年冊子を秋ごろに作っていった。2005年から2009年まで5冊の冊子が出来たんですね。外から見て、ここが面白いぞというところをまとめました。

 

最初はファーストインプレッション、第一印象で作ったものです。二番目は採石の島ということで…

 

ずっと、家島の人たちが嫌がることばかりやっていました。家島の人たちがそこは行ってくれるなというところばっかり行ってたんですね。採石の場所には行くな、あそこは環境破壊だから、ああいうのをPRしてはいけないんだって。ずっと言われたから、はい!分かりました!と言いながら上陸してみていくとすごい面白いんです。採石って発破をかけるので、落としたところにダンプがいて、そのダンプに岩を積むわけです。

 

舗装のされていない道路をダンプが海辺まで走っていきます。海辺まで行くとガット船がいて、石を入れていく。何が出てくるか。ダンプのタイヤがすぐ傷むんです。タイヤだけでも人間の背丈くらいあるのが、いっぱい詰まれていくんです。砂漠の地平線みたいなところに、タイヤを積んででかい柵みたいなのを作って、その中でダチョウを飼って、その卵を売っている人もいるんです。そういうのが面白い。そういうのを見てみたいと思うじゃないですか。みんなは恥ずかしいと。行くなということを言われました。

 

衝撃のおもてなし

3年目は「衝撃のおもてなし」ということで、僕ら30人をもてなしてくれませんかと研修会に参加してくれていた10世帯の人たちにお願いして、それぞれの家に泊めてください。泊まるお金を払いますから、3000円くらいで僕らを思いっきりもてなしてくださいと。「もてなし」ということが、都心部とどう違うのかということを探ったんですね。

 

結構面白かったです。10世帯みんながもてなすことをそれぞれが分かっているから、あの人の家は何を出すのかということが気になるんですね。ちょっとずつ競ってしまう。だから毛蟹とか牡蠣とか貝、いろんなものが並んでくる。過剰おもてなしになってくる。これは食べ物だけでなく、もてなしになると、ここは兄弟分の杯をかわして義兄弟みたいなものをかわす。海難事故とかもあるから。家に学生が来るということになれば、親戚一同と兄弟分が待っていて、もてなしてくれる。しかも、もてなして文化とかを話してくれる。

 

翌日は遊ぶところがないので自分の仕事場に連れて行ってくれて、仕事を見せてくれたり教えてくれたりする。そして、帰りには手土産をもたしてくれる。手土産を持たしてくれるけれども、それがなんとも言えずいい手土産なんですね。ペットボトルの中に麦茶を入れて凍らしてタオルで巻いてくれた、みたいなやつ。そういうお土産を持たしてくれる。このあたりの感覚が、僕らが都心部でおもてなしをしようと思ったときに、どこか予約したりカラオケをしたり、何かをやるという感じと全然違う、人のつながりでのおもてなしだと分かってすごく面白かったです。

 

あとは空き家があったので30人で生活してみようということもやりました。最後は、仕事です。仕事をずっと取材して、その人なりのポスターをつくってプレゼントしてくるということをやりました。つまり、第一印象からだんだんちょっと奇抜な風景を見に行って、その島の生活をもてなしから体験して、今度は自分達自身で生活してみて、最期は働き方に注目した。つまり、どんどん家島の深いところに入っていこうということを5年かけてやっていった。

 

その間に空き家とかが分かってきたり、旅館の人たちがどういう意見を持っているかということがだんだん分かってきて、ゲストハウスのプロジェクトをやることに繋がっていった。探られる島プロジェクトは、誰のお金ももらわずにやっていた5年間というのがよかったと思っています。

 

1年目は何をしたか。1年目だけお話しようと思います。これは、「家島におじゃまします」というタイトルです。家島というのは、家の中にあるものがすべて家の外に出てきてしまっているような島じゃないかという気がしたんです。面白いと思ったところを第一印象ですべて写真を撮ってこいとしたら、集まってきた写真がそもそも台所とか食べ物とか時計とか洗濯物とか書置きとか襖のやりかけとかは、普通はだいたい家の中にある。家の外に行けばそんなものは何もない。綺麗に作ってある。ところが、家島はこういう家の中にありそうなものがどろっとすべて外に出てきてしまっている感じがしたんですね。それが僕らにとってすごい新鮮で面白いんじゃないかなという冊子を作ったのが一年目です。

 

これは椅子ですね。椅子もいたるところに出てます。これはバスのベンチですよね。バスのベンチが向かい合わせに置いてあるんですが、ちょっと距離が近すぎるような感じがします。これはソファーです。防水も何もしていないようなソファーがいきなり置いてあって、奥に犬小屋があるんですけど犬がソファーの上に座ったりします。一体何のために置いているか、分からないやつは結構あります。流し台と冷蔵庫も結構ある。冷蔵庫なんかは、農地の横に冷蔵庫がある。そこで収穫できた野菜をいち早く冷やしておく。その方が鮮度が保たれるのかなぁと思っていたんですよ。ところが、農地だから電源が入っていない。何が入っているのかと見ると、鍬、鎌、スコップなどが入っている。冷蔵庫が農機具小屋みたいになっているんですね。

 

離島というのは廃棄処分に余計なお金がかかりますから、使えなくなったものも最期の最期まで使い果たして捨てるんです。だからこういう冷蔵庫がいたるところにある。流し台は外にもあるし、内側にもある。鱗です。家の中で鱗をとるとはねるので、外でばーと家の中で荒くとってから家の中に持っていく。生活の知恵ですが、僕らも知らないものですから。食べ物もやたら外に干しているし、時計もやたら外にいっぱい置いてある。船の時間が気になるらしいですね。洗濯物の干し方も結構アクロバティック。伝言とかもいっぱいある。いろんなところに文字が書いています。

 

つぎはぎとかやりかけも結構ある。絨毯も外に引いている。使いふるしの絨毯を雑草が生えてこないようにひくらしいですね。こういう、家の中にありそうなものが、いっぱい外に出てきていると。つまり、家島というのは島が一個家で、島に上陸する港で誰かの家におじゃましますという感じで入らないと面食らうような島だと。そこから「家島におじゃまします」という冊子を1年目に作ったんですね。これは面白い視点を発見したと。

 

おばちゃんたちにこういうのが僕らは面白いんです。ものすごい怒られましたね。なんで、こんな恥ずかしいところばかり撮るのかと。なんとか頼み込んで冊子を作らさせてもらいました。全然信用してなかったです。これが面白いとは。ところが、5年続けていますから、3年目ぐらいに外から若い子がこの冊子を持ってくるんですよ。すみません、冷蔵庫はどこにありますか?と聞くわけですよ。あんたらほんまにそれがいいと思ってんの?みたいなことでだんだんおばちゃんたちは自分達の素のままの生活、飾らない生活が外から来た人たちにとって面白いんだということが分かってきて、気取らなくていいということが理解できちゃったんですね。

 

理解できてよかったかというと、それは別の問題で。おばちゃんたちはのびのびと、家島の猟師の奥さんをやっていますから。家島というのが最近有名になってきて、いろんなところから視察が来る。副町長が来ても場末のカラオケとかに一緒に連れていったりする。そのままの私が面白いんやろ?という感じで、そんなおばちゃんたちです。このおばちゃんたちに会いたいということで家島に来る人たちがいるのも不思議なところ。

 

そうこうしているうちに、2004年から総合計画を一緒につくらないかということを役場に依頼されて、ちゃんとしたお金を始めてもらって、総合計画を住民参加型で作っていましたが2005年に家島は姫路市と合併してしまったので、家島独自の総合計画はいらなくなったのでそれを「まちづくり読本」どいう形で冊子にして閉町式に合わせて全戸に配布しました。7800人、3500戸あるところに配って、姫路市の一部になっても、この地域だけはちゃんとまちづくりを続けていくぞという決意を固めたということです。

 

家島のまちづくり基金

実はこれをやっている間に家島町の財政課が持っている貯金をどうするかという話になった。あまり褒められた話でもないかもしれないが。家島町が姫路市と合併すると町が持っている3億円の貯金というのは姫路市の財政課の中に入る。単純に考えて、姫路市がもらった3億円をすべて家島のために使ってくれるかというと分からない。姫路市の財政課の中に入った瞬間にその3億がどう使われるか分からないということで、合併が決まってからその1年の間に家島町はこの3億円を家島町のために使いたかった。

 

これを1年の間に使おうとなれば、自主資金が3億あるから補助金も3億入れて6億で文化施設を建てて、使い切るしかないかなということで相談に来た。あんたのところ、そういえば設計をやっているじゃないですか。それで文化施設をばーんと建てて早めに着工しておけば姫路市からお金を取られないでしょうと財政課から相談されました。

 

2005年で、僕は独立した年でした。独立した年にいきなり文化施設を建てれると。これは設計者としてはいきなり新建築(建築雑誌)のデビューかとゆらいだんです。でも、独立する前からもうハードの時代ではない、と自分で言ってしまっていたので、設計するわけにはいけないなぁとかなり葛藤がありました。最後にやっぱりそういうものを作ると、その後のランニングコストがかかるので止めときましょうと。3億有効に使える手立てを考えますから。

 

ということで調べていたら公益信託銀行というところに預けていたら、守護官庁がOKといえば、この場合は兵庫県庁がOKすれば、家島の貯金を公益信託銀行に入れて、まちづくりのためだけに選定委員会が選んだ人たちだけに補助金を出していくという仕組みが作れるということがわかったので、すぐ企画財政課の人たちにこれを提案して、その人たちが兵庫県に話しをしにいって、県がOKといったので町の財源を3億そのまま三井住友公益信託銀行というところに入れちゃいました。入れて、選定委員会をつくって、もとの町長とか議員さん、自治会長がそこに入って、まちづくりからこんなことにお金を使わせてほしいという企画が上がってきたらこれを審査して、しかるべき金額をそれに補助すると。

 

3億円があるということは、1年間に10何回補助しても、30年くらいはまちづくりの活動を応援し続けることができる。そっちをやった方がいいと。文化施設というお荷物を作るより、まちづくりの盛んな島になった方がいいんじゃない?ということで基金を作りました。僕も今はこれの選定委員の一人になっています。姫路市は相当怒っていたみたいですね。ですが、家島はまちづくりの団体をサポートすることができる。数十万単位のお金ですけれど、20万か30万くらいでどうしてもこのお金があれば前に進むぞというものをきちっと選定してお金を出すというやり方をしていて、今のペースでいくとあまりお金を使っていないので60年~100年くらいは続くんじゃないかというスピードで今はやっていっています。

 

家島で初めてのNPOが立ち上がる

2007年から初めて家島でNPOが立ち上がったんですね。これまで、家島でNPOなんか絶対に立ち上がらなかった。採石業で儲けていた時代があった島ですから。ところが、もうさすがに儲けるという話だけでは進められないということでNPOが立ち上がりました。これは一番最初に2時間3000円でやっていた研修会に来てくれていた10人のおばちゃんたちが核になって、4年後に、「山崎さん、私らNPOがやりたいねん」と言ってくれたんですね。やっぱり嬉しいですよ。分かりました。説明しましょう。ということで、NPOとは公益事業、収益事業というものをまわしていくものですよという説明をしました。今ではおばちゃんたちはNPOが何かということを分かっていて、そういう活動もしています。

 

家島の他の人たちは、NPOが何かを分かっていないです。NPOというのはこのおばちゃんたちのチームの名前だと思っています。「NPO法人いえしま」が出来たと。このおばちゃんたちは何がしたいかというと、旦那たちが取ってくる魚。余って捨てているやつは猟師なのでご近所はダメで親戚くらいしか配れないので、後は全部捨てなくてはならない。これはもったいないということで、自分達が安く買い取って、これを加工して真空パックなどにして東京、大阪などの都心部に売るということをやっていきたいということで話にきた。これで利益が出たら、その島で島独自の広報誌を作ったり、福祉タクシーを走らせたりしたいと思っています。

 

家島町はもともと広報いえしまというのがあったんですね。毎月ちゃんとみんなの手元に届いていたんです。姫路市と合併したらこれがなくなりました。これはよくないということで、広報をもう一度復活させたいということでNPOをやり始めた。おばちゃんたちは特産品をどう開発するか、自分達の家島ならではの味付けをやっていきましょうということで、勉強会にも行っています。いろんなところに視察に行ったり、パッケージのデザインを考えたり、料理方法を考えたりということをやっています。僕らもアドバイスをしていっています。

 

このおばちゃんたちのやっていることは出来そうで実は出来ないことなんですね。漁業関係者なら分かるかもしれません。漁協の力があんまり強くないと言えばそうなのかもしれませんが、漁業組合はこういうのはほっておかない。猟師の採った半端ものを横流ししてお金を猟師がもらっているということになれば、仲買いさんは猟師を嫌います。自分達が指定した数がそろって大きさがそろったものをおろしてもらって、残ったものを横に流しているとなれば次から取引しないと切られてしまうですから。猟師の人たちはそれが怖いので、余っていても捨てるしかない。家族で食べるか。そういう状態がずっと続いていたのが、おばちゃんたちはもったいないということで悠々とそれを買ってしまっている。

 

仲買いとか漁協がそれを黙ってないのかというと、黙っているんですよ。なんでかというと、このおばちゃんたちの10人の中に、猟師の奥さんもいるが、仲買いの奥さん、漁協の奥さん、会長さんの奥さんもいるんですよ。男性社会はきっちりと序列でやっていいこと悪いことをきちっとつけるわけですけど、女性社会はそれをがさっと繋げて楽しいことがやりたい。だから、料理をつくって売りたい。「手間いらず嫁いらずシリーズ」。湯銭でお湯に入れると冷凍の真空パックの焼き魚が元に戻るようなやつ。炭焼きのアナゴとか。こういうのをたくさん作って、あまり美味しい魚が取れないところに売っては儲けようとしている。これの一部は全部旦那さんのご飯のところに置いておいて、これ勝手にあんたたち食べなさい。私たち「まちづくり」やってくるから。といって家から外に出てきている。そんなおばちゃんたちがいるところです。

 

油断するとこういうTシャツを作っちゃうんですね。NPOいえしまスタッフみたいな。常々僕らはデザイナーですから、こういうのこそ僕らに相談しなさいと言っているんですが盛り上がったら作っちゃうんですね。ただ、パッケージとかは僕らが。どうせいいものを作ってるんですから。手作りで作った料理を瓶の中に入れていって、それを販売すると。このパッケージは通常より文字が多い。どういうおばちゃんたちが作っているか、家島はどういう場所なのか、いろんなところで手にとってくれた人たちが、結局はそれが欲しいというよりは家島を気になってほしい。いつか家島に行ってみたい、おばちゃんたちに会ってみたいと思ってもらえるようなパッケージのデザインをいろいろ考えていきましょうということで、家島を知りたくなるようなパッケージをずっと書いています。

 

これを販売して利益で広報いえしまを昔のと同じように作るか、コミュニティバスを町内で走らせると。行政からのお金は出ていないけれども、自分たちで公益的な事業をやるために収益の事業もやって、そういうことをやりたいからこのおばちゃんたちは補助金なら100万円くらいのやつならばーと書いてすぐ取ってきます。もともと5年くらいにそれを教えてきたんですね。こういう補助金がありますよ、申請書類のこの辺に時代の背景を書いておいたらいいです、今回の場合ここにアンダーライン引いておいたらうまいですとか、いうのを教えました。この人たちは収益事業がやりたいかというよりも、利益を出して公益的な事業をやりたいと思っている。このへんの枠組みをちゃんと書けば補助金もちゃんと出る。そういう関係性をちゃんと作っていくということが、非常に大切ではないかという気がしています。

 

ゲストハウスプロジェクト

空き家が多くなってきたので、この空き家を外国人限定で泊まれる場所にしようというプロジェクトも始まっている。世界遺産になった姫路城ですが、姫路は泊まってくれない。京都入りした外国人は姫路城を見て喜んで広島で泊まるんですね。広島入りした外国人は京都に泊まる。姫路で外国人を捕まえて家島に連れてきてしまえばもう帰れない。関西国際空港で家島の話をして、この人たちが家島に来てしまったら23日くらいゆっくり過ごしてくれと。箸づくり体験とか、クルージング(漁船ですが)みたいなことをやってたり、外国の人たちはなかなか日本のそういったところまで入りこむことが出来ないので結構喜ばれています。

 

このNPOが外国人限定にしているのは、家島に他の旅館もあるからです。他の旅館が外国人まで手が伸ばせなかったところを、NPOが外国人限定でPRして泊まってもらって、家島が気に入ったら次からはこの旅館に泊まってくださいと紹介するのが、NPOいえしまゲストハウスの役割です。2回ここに泊まってしまってはダメ。次はあっちという風に割り振っていくというやり方をしています。地域の人たちは協力していかないといけない。

 

あとコンセルジュもやっています。あと、他の離島だったり。各種ニュータウンのマダムたちが家島のおばちゃんたちを大好きらしいです。何回もやり取りしているうちに、バスを貸しきって家島まで来てくれたり。そんなことにもなってきました。

 

先ほど集落の話もありましたけれども、コンパクトシティ化していく、都心部の中で何をしていくかも大事ですけれども、一人からでも富山市の地図でもはってダーツを投げてたまたま当たったところに行っていろんな人たちと話をしていくというところから、余裕な時期であれば23年それを積み重ねていくうちに新しい展開というものが見えてくるという可能性が十分あるだろうと思います。

 

僕らもまったくの素人でしたから。設計しかしらない。僕らが独立するときに、まさにこのプロジェクトをやっていた。2003年、2004年、2005年から独立して、探られる島というのをやっているうちに、いろんな新しいプロジェクトが立ち上がってきた。僕らは、2009年に家島に関わるのをもうとめています。6つのプロジェクトが今進んでいて、3チームがやっています。それぞれ違うグループがやっていますが、6つのプロジェクトが同時並行で行われています。そして、必要があればこの人たちのプロジェクトの中から基金に応募があります。僕らは審査する側ですから、最低限のお金だけは補助金として出している。というのがこの場所でやっていることです。

 

事例②:半泊集落のプロジェクト

情熱大陸で取りあげられていたもの。これも都市農村交流の極端版なんです。

家島は割合近い場所と交流しているのですが、ここは五島列島の中の一番アクセスの悪い場所なんですが、ここに隠れキリシタンが海から入ってきて集落を作っている。もともとは20世帯ほどあったんですが、今では5世帯9人しかいなくなっている。5世帯9人から電話があって集落を活性化させてくれないかということで電話があったんです。活性化する意味ありますか?と聞いたら、5世帯9人がモデルとして上手くいけば、五島には50以上の隠れの里がありモデルになるので、ぜひここでやってほしいといわれ、お手伝いを始めたというプロジェクトです。

 

ややこしい宗教的な背景があって、5世帯9人と言いましたが、もともとは4世帯7人です。4世帯のうち一世帯は、何の宗派でもないです。古く昔Iターンで入ってきた人です。残り3世帯はそれぞれ宗派が違って、隠れキリシタンの人とカトリックの人と浄土真宗の人。それぞれの家が3つなんです。それで、それぞれが宗派が違うので口を聞かないんです。挨拶しても返事をしないんです。4世帯7人の集落。最年少は72歳。72歳の集落にピチピチの若手夫婦がIターンで入ってきて、この集落をもっと元気にしたいと話を聞いて回ったら口を聞いてくれない。ほとほと困って市役所に相談したところ、コミュニティデザインをやっている人がいるので頼んでみてはどうかということで連絡が来た。その若手に会いに行ったが、ピチピチの若手54歳でしたね。54歳夫婦に会いに行って、その人たちと一緒に、それぞれの世帯の人の話をずっと聞いて、共通点を導き出していって、こういうことなら一緒に出来ますよね、ということの話を進めていった。

 

結局これも同じで、集落というこういう小さな場所が、こういう小さな場所だけではどうしようもないでしょうと。このへんをヒアリング調査した結果ですけれども。都心部は田舎暮らしを体験したい。自然や歴史に触れたいと思っている人がいると。こちらにはさびれてきた、荒れてきた、里山、川などの管理が大変だという悩みがある。では、その悩んでいるところを都市部の人たちが来て活動しちゃうというような限定のツアーをやってはどうかと。静かに暮らしたいという人もいたので10人限定で、1週間家族で泊まりにきて、ここで里山の木を切ったり、川の石積みを直したり、隠れキリシタンの話を聞いたり、漁に出て新鮮な魚をさばいて食べたり。1週間やれば疲れますから、その次の1週間はお休み。もう一度次の一週間でお客さんを呼んでいくというようなツアーを提案した。

 

なぜそんなことを提案したかというと、半泊の集落が特徴的なのは、流域(雨が降ってからどちら側に水が流れるかというエリア)が半径500mの間にすっぽり収まっているんです。通常流域というのはもっと長くつながっているのですが、ここの場合は半径500mの中に1流域がすっぽり入っているのでこれって環境学習をやるのにいいんですね。例えばここの木を切った、草を刈った、藪を手入れした。そうしたらその日の夕方に川の水はどう流れていって、それが透明になるのは何日後で、透明になればどういった水がここに入っていくのか、魚がどういう風に寄ってくるのかというのが1週間いればよくわかる。レスポンスというか、自分達が環境に手を入れた結果がすぐ見えるというのが、500m圏域の流域です。物を学ぶにはよい。

 

ここはもともと分校があって廃校になっていたので、ここをリノベーションして泊まれるようにしました。ここで泊まってトイレにいったりしても、トイレで出したものが水路を流れていって、水路の中に牡蠣を砕いたものを入れておいたりして順番にこの水が流れていって、クレソンの畑で綺麗にされて田んぼに行って、さらに海に出て行くという自然浄化の仕組みが見えるようにして、これをまた食べてみんな出しているんだよということを学べるような場所にしようと。

 

今はJTBが一緒に考えてくれていますが、JTBとしては異色です。ほとんど貢献事業ということです。10人限定のツアーだから、ほとんどペイしないわけです。ピチピチの若手が案内役です。都市から来た人を案内して、町内会の人たちは直接はお話しなくてもいいですけど、たまにリアルな猟師さんに会ってみて話してみたり一緒に漁に出てみたり、隠れキリシタンのお父さんに話を聞いたりすることが出来るようにしましょうと。こういう人たちに何を教えてもらえそうかということをヒアリングをして聞いてきたので、こういうことをやったらどうかということをお話してます。

 

これが廃校の跡地をリノベーションしたところです。ここに集落の人たちが集まってくれて、ついに口を聞いたんです。顔は合わせなかったです。分校にベットが3つしか用意出来ないと。部屋を増やして10人泊まれるようにするかという話をしていたときに、「そんなんやったらうちに部屋いっぱい余っとる。分校で風炉まで入ってくれて寝るだけなら、うちの空いてる部屋を使ってくれていいぞ」といってくれて、後ろで聞いてくれている人に対して「お前のとこの部屋空いとるだろ。貸したれや」と前を見て言ったんです。そしたら後ろの人が「空いとるぞ。うちを使ってくれてええぞ」と。初めて会話が成立したんです、このとき。そういう歴史的な瞬間もありました。

 

今は半年経ちましたが、おばちゃんたちが集まって、来た人たちにどういう料理をつくったら半泊らしいか。特産品みたいなものを作って練習してます。お迎えするときに何を出したらいいかということを話しあって、盛り上がりつつあります。

 

事例③:穂積製材所のプロジェクト

穂積製材所のプロジェクトも割合近いかもしれません。コンパクトシティ化していこうと思う富山とその周辺地域とどう関係をもっていくか。周辺地域といってもかなり遠いんですが、僕らが関わっているところは。

 

2007年から関わっているプロジェクトです。島ヶ原という京都と奈良と三重の境目くらいにあります。この島ヶ原という駅。関西本線という電車ですが単線です。山の中の駅の眼の前に穂積製材所という製材所があります。苦戦していて製材所をもうやめようと思っているところからスタートしました。奈良からも来れますし、京都や大阪、名古屋からも2時間以内で来れる場所というのが特徴的です。

 

このプロジェクトはもともと背景としては、日本の国土の3分の2が森林の面積で、その内の半分は杉檜の人工林の割合が多いのに、里山里山といわれているこちら側は手を入れているんだけど、人工林の方は民有地が多いのでほとんど手が入らない。ここをなんとかしたいと思っていたんです。海外の安い木材を輸入して、国産材は切るだけで赤字になるということで国産材が余っていると同時に、杉檜の林は手入れがされなくなりました。杉や檜は30mぐらい伸びますが、地下に50cmから1mぐらいしか根っこが生えておらずちょっと雨が降って地盤がゆるんで風が強く吹けば、山手側ではだいたいすべっています。すべって自然のダムをつくって、ある程度の水がたまるとその木材もろとも流れてきますから、下流域で被害が出るといった問題が出てきています。これをなんとかしたい。誰かが健康な森にしていかなくてはいけないが、なかなか手が回らない。

 

プロジェクトの舞台は島ヶ原。大阪、名古屋からちょうど間くらいにあって、そのほかの主要な都市からもだいたい電車で2時間あれば来れる。この駅のすぐ目の前に1000坪の製材所があり、廃業しようかなというところで何かやりましょうかというのが経緯です。近くに川もあり自然に遊ぶこともできるし、温泉もあります。しかも、製材所の中に職人さんがいる。

 

きっかけは伊賀市でやったまちづくり研修会です。300人くらいいました。まちづくりの話をしてくださいと現場に行ったら、伊賀市なので忍者の格好をさせられました。おかしいじゃないですか。忍者の格好をしていたら、話の内容ではなく僕の格好が気になってしまうので、おかしいじゃないですか。というと、すみません。貴方の前にじゃべる伊賀市長も忍者の格好をしてしゃべりますと。そして、300人全員忍者の格好をしていますと。それじゃあ僕だけ洋服じゃおかしいので着せてもらいました。着てみて鏡見るを割合のってきてなるべく忍者っぽい格好をして写真を撮ってもらいました。

 

この話をしたあとに、忍者の列が出来るわけです。名刺交換の。そこでいろんな忍者と名刺交換をしていたら、そのうちの一人がおばちゃんだったんです。うちの旦那は製材所をやめようと思っていて、息子は三重県庁に勤めているので製材所を継ぐ気がなく、うちの製材所が駅前にあるので、先生は設計の仕事もされているし木材もふんだんにあるので公園を作ってくれませんか?という話になりました。なぜ民間の人が公園を作ってほしいかというと、この穂積さん、60歳の亡くなったお父さんが520年、島ヶ原の村長をやってた人なんです。そして、いろんな人のお世話になったので、息子世代の自分達が製材所を止めるときにはここがみんなが集まれる場所にしたいと思った。ということで、製材所を公園にしてほしいという依頼があったんですね。奥さんはNPOをやっていて、まちづくりが好きで講演にやってきていたんです。

 

現地に見に行ったら、材木も技術も残っている。だったら、ここを公園にするというよりも、いろんな人たちが家具を作りに来れるような工房にしたらどうですか?という提案をしたんですね。ここでまた設計料をもらい損ねたんですが。設計や文化施設の依頼があっても全部断っちゃうんですね。これでここを都市部から来た人たちが作れる場所に。材を動かすから高くなるので、天板がほしい人が電車で動けばいい。そしたら丸太一本で2万円くらいで売っていますから、そこから何枚も天板がひけるわけです。

 

そのため、欲しい人が動く、材は動かさないということで、ここに来てみんなで作りましょうと。また、製材の技術を身につけることも出来ます。何人かで仲間を作ることも出来ます。しかも森林がどうなっているか環境も学ぶこともできます。地域の人たちが自身を持つことも出来ます。そんなプロジェクトをやっていきたいんじゃないですか?と。

 

プロジェクトに必要な要素

プロジェクトに必要な要素は3つそろってたんですね。ご飯は奥さんの方がNPOで製材所の一番手前で夢の道という定職屋さんをやっているんです。地域の食材を使って料理を提供するということをやっていました。ご飯は作ってもらえる。道具と材料もある。温浴施設もある。あとは週末だけ泊まる場所があれば、ここに泊まって家具をつくって、途中であればここに置いといてweekdayは仕事をして週末になればまた電車に乗ってきて続きをやればいい。そこで土日泊まれる木製のテントを作りましょうと。建築物にしたくなかったので、基礎は作らずに単なるテントに。消防法とかもなくなってくるので、いざとなればたためます!という木製のテントです。そういうのを今作っていっています。

 

納屋を解体して広場をつくったり、解体した材料もまた再利用しています。あと、在庫。在庫で一個一個の小屋を作って寝泊りできるよう。製材所は大きな鉄骨の屋根があるので、この中に小さな寝床を作っていくわけです。今までで6棟。関西の建築家にそれぞれ手伝ってもらって、4畳半くらいの場所が出来上がっています。こういうところに泊まりながら家具を作ることが出来たり、森林を見にいって木が細くなったり、中がスカスカになってしまっている、節がこんなに多いのはこういうことになってるからだとか、それを切ってみて節がどれくらい影響を与えているかということを分かる場所にしようとしています。これは都心部の人たちがここへ通うということになります。広場もありますし。

 

公益事業としての実験場

これは2007年から続けていて、お金ももらってないです。事務所の公益事業として進めているものです。ある意味、実験を持ち込もうと。先ほどの家島に入ったときも初動期はお金をもらっていないです。そこから発注は出てきましたけれども。最初は僕らは頼まれずにやる仕事を全仕事の中の1個か2個は必ず入れておこうとずっと思っています。NPOにしようか株式会社にしようか迷っていた時期もあったので、僕らはNPCにしようと決めたんです。日本にはNPCという仕組みはないですが、うちは会社だけれども利益が出たら僕が株主なのでこれはいらないと会社側に寄付してしまえば、このお金を使って交通費を出したりして公益事業をやったり出来るので、この公益事業をある一定の割合で入れておきたいと思っています。

 

今は穂積製材所が公益事業です。お金をもらわずにやっています。だからこそ、ある種の責任は逃れることができるので試せるんです。いろんなことが分かったら他の事業にどんどん応用できるので、今は実験場はここです。1000坪の敷地が僕らの実験場になっているとも言えます。

 

例えば、大阪の中之島にあるデザインミュージアムで展覧会をやりたいという話があったので、デザインミュージアムで材木を売らせてくれと。材木を積んでおくだけでは、いかにもホームセンターなので組みましょうと。釘をささずに止めるとこういう構造を作れるのでインスタレーション、空間を作りましょう。こんな空間をうちのバーで使いたいなということになればそのまま買っていってもらってもいい。そんなことをやって売らしてもらったり。

 

大阪の東急ハンズの中で同じようなものを組み立てて、島ヶ原の可愛い食器などを磨いて洗って展示して買っていってもらったり。200円とか300円でどんどん買っていってくれる。集落で出来ることと都心部でできることを上手く交換していくと、結構面白いことができるなぁということを思っています。

 

今は事務所と工房を作っているところです。寝床が出来たので。後はうちの事務所も312日に決断したんですね。去年の312日に東京で帰宅難民になっている人たちがいっぱいいるのを見て、どう考えても働き方としておかしいだろうと。大阪の梅田という場所で僕らは事務所をやっているんですが、なんかあったら同じ状態になるぞと。うちの事務所の大部分の機能を島ヶ原に移動させようということで事務所を作っています。拠点にしようと今年の4月にここがオープンされますけど、今は作っていっているところです。リノベーション、構造を補強したりしています。

 

まとめ

もともとは、先ほどお話した通り、富山という市街地は今ほど大きくなかったということは確か。1900年とか1800年までさかのぼれば。大阪でも1910年であれですから。それがここまで大きく膨れ上がってきたというのが20世紀です。都市が小さくで集落が元気で。ところが集落が弱ってきた。コンパクトシティというのは、計画的にこれを小さくしていきましょう。今こうであるものを、スカスカになって全体がダメになるくらいならこっちを目指していきましょう。しかし、そこには新しいシステムを入れていきましょう。と言っているんですが、そのとき集落が弱って消えていってしまうのでは意味がない。

 

上下流であったり集落と都市との関係性があるから、都市も健全でいられるし集落も健全でいられる。ここの関係性をつくりながら、いかに健全な集落をつくって両方が楽しめる仕組みをつくれるか。これを行政がやるんですというところもいいんですが、ダーツを投げてたまたま当たった集落に入っていってこの関係性をどうつくるかというのも個人個人が出来る話であるという気がしています。やっていくうちにだんだんコミュニティデザインの仕事が増えていくというようなことになっちゃったのが、今の僕らですけれども。

 

もし、これからの若い人でこの種の仕事をやっていこうとする、もしくは建築のように僕らと同じようなバックグラウンドを持っている人だったらほとんど出来る話ですから。人の話を聞いて、アイデアを練って、こんなことをやったら上手くいくというのを11個考えていくだけですから。この(関係性の)線をつくるのは、行政かもしれないが、市民自体かもしれない。こんなものがいろんな試行錯誤の中で生まれてきたら、ここの間に線がいっぱい引かれるようになってくる。そうなったときに、町を小さくしながら、健全な流域であったり、健全な都市農村交流が出来るような仕組みを制度的に担保していくかというのが行政の仕事になるかもしれません。

 

再生センター(エコビレッジ)

これはカリフォルニア工科大学というところの再生センターの写真です。これが何かというとエコビレッジと言われるように、先ほどの集落にエコロジカルに住みましょうということを世界中の人たちに提案している施設です。周りは山で何もなくて、中にソーラーパネルがあったり、水があって空気があると、水で冷やされて涼しくなった空気がこの中に入っていきますとか。縁側は光を反射して中まで奥まで光を入れてくれますとか。太陽光の熱で温泉をつくるとか。トイレが畑の中を通っていてだんだん綺麗になりますとか。先ほど言っていたようなことを全部やっているような場所です。

 

ジョン・ライブという建築設計をやっていた人が所長をやっています。ジョン・ライルさんは世界中からここに視察に来る人たちにきっちり丁寧にエコロジカルな住まい方を説明するんですが、唯一日本から来た視察者には冷たいそうです。というのは、ジョン・ライルさんはこの施設をつくるために日本の集落を5年間調査しているんです。そこで肥溜めの仕組みとか縁側の仕組みであったり、どういう風に風を家の中に通すかということを徹底的に分析してこれを作ったのに、日本の東京の研究者がここに研究に来ている。日本の集落に行けと。

 

なので、富山のエコロジカルな暮らし方。未来の暮らし方というのは、集落側にたくさん知見がある。こことネットワークすることによって、僕らの生き方がだいぶ変わるという可能性はある。だからいかにもここを切って、集落の力を弱めてコンパクトシティを作っていきましょうというのはもったいない。コンパクトシティをつくっていく流れは僕はとてもいいものだと思っていますので、この流れをつくるときにどういうふうに集落との関係性をつけていくのがすごく大切な点でないかなと感じています。

 

僕の話題提供はこれぐらいにしたいと思います。

ありがとうございました。

 

 

 

<質疑応答>

 

Q1.            最初の方に、マネジメントとデザインの比率の表があったと思うのですが、総合計画を策定される際にデザインの視点を入れられたというのがあったのですが、計画をつくるときにどのようにデザインの視点を入れたらいいのか。

 

A1.            総合計画の中にデザインを入れるというのは、割合普通の感覚です。総合計画の冊子自体がきちんとデザインされて見えるかということ。総合計画というと、なんとなく無機質な感じのものが多いですが、僕らが作ったものは一般の人たちが手にとってみたくなるような中身なんです。イラストが入っていたり、文字の級数が大きかったり、すごく少ない文字で書いてあったりします。これは住民が提案したことです。実際に住民が提案したことを総合計画の中に位置づけて、ページのデザインなども変えていって、単に計画を作るだけではなく、計画を提案した人自身がきちんと活動を起こす。そこの間にちゃんとしたデザインがないといけないんじゃないかと考えて、冊子の作り方をだいぶ変えたということです。

 

これはしゃもじみたいになっていますが、しゃもじを叩きながら踊る踊りがこの島では有名なので、また普段からも掴んでいますから、なんとなく身体感覚は近いだろうということでしゃもじをイラスト化し、それぞれのイラストはそれぞれの計画を提案してくれたチームの人たちの顔に似せて描いてあります。それぞれの人の自分の顔が載っちゃった。だからやらなきゃ。といったふうに、冊子と自分との関係性を上手く編みこみながら、実際にはこの人たちが活動をし始めるんですよ。また、ただ単に冊子ができた、ということではなく自分達が動かなきゃいけないというところまで入れてあります。

                  

                   冊子のデザインだけではなくて、活動する場所がすこしおしゃれだなと思えないとみんなそこに行きたいと思わないですから。本当に少ないですよ。ほとんどがマネジメントです。人の気持ちをどうマネジメントしていくかとか、プランニングなんですが、ごく一部の部分にはちゃんとデザインの要素も入れておかないと、その後、人々がここに関わりたいと思ってくれないなぁと思ったので。ぼろぼろのところでもやれればいい、冊子もとりあえずできればいい、大事なのは活動だからと言ってしまうとちょっと力も弱まってしまうところがあるので、最後の最期までデザインという部分については僕らも関わっていこうと思っています。

 

 

Q2.           最初のお声がけするときの一言、決めセリフのようなものは持っていますか?

 

A2.           住民の人たちと話をするときに?特にはないような気がします。僕らのやり方というのがいくつか種類があるのですが。コミュニティデザインの本を書いた後に、あれはあれでいい。次は教科書を書いてくれないかと言われたんですね。どういう手順で進めていっているのか。全部上手くいっているように見えるじゃないかと。教科書を書けば書くほど、その通りにやれば失敗するものが出来上がるんです。ご想像の通り。僕らの手順もこれを見て理解してくれる人も多いですが、この通りやると必ず失敗します。僕らはこれを軸に考えて、必ず毎回変えていっているということです。

 

                   基本は、この地域のコミュニティを理解するためにヒアリングに行きます。10人役所の人にこの地域で面白いことをやっている人はいませんかと紹介してもらって、その人たちのところにヒアリングにいって、その人たちからさらに3人ずつ面白い人を紹介してもらって、数珠つなぎで100人くらい紹介してもらって。そのときは「何をやってるんですか?どんなことをやってるんですか?困ってることはないですか?面白いことをやっている人を3人紹介してくれませんか?」とこんなぐらいです。ずーと話を聞いていって、紹介してもらった人のところにどんどんつないでいく。

 

100人くらいの人が知り合いになると、その人たちに後で電話してワークショップするので来て下さいね!と誘います。公募しますからワークショップの場合は。知り合いじゃない人たちも入ってきますから。200人集まるんだったら100人くらいの人は全然知らない人で、残りの100人くらいの人は2時間話しをした人たちが入ってきます。この人たちが会場の中で混ざってきます。ワークショップをやるというのは2番目のプロセス。僕が知っているまちづくりのコーディネーター、コンサルタントの人たちはここからやっているような気がするんです。これは緊張するんです。200人初対面ですから。そうならないためには、半数ぐらいの人が友達かどうかです。会場に入った瞬間に声をかけるのは、「ああ!この間はどうもありがとうございました!」という感じですよね。みんなに聞こえるように。そうすると初めてきた人は、余所者じゃあないのかと。それぞれにでかい声で話しかけていって、そろそろ始めますかとかいって司会をふったりして始めます。そうすると残り半分にいる人たちに対しての、勝手なことを言う場ではないというなんとなくの関係性を作ることが出来るんですね。あいつはあの人の知り合いかよ。みたいな感じとかが見えてくるとちゃんと話し合いができるようになってきます。

 

なんだろう。良質な抑止力といいますか、みんなの場でちゃんと議論する準備を先の段階でやった方がいいだろうということで、最初の段階で手間ですが、ずっと回って11で話を聞いて、アイデア出しをすると同時にチームビルディングをして、単にチームを作るのではなく、その人たちに実際に活動してもらう。チームが出来上がって、この人たちと一緒に活動をすると楽しい!という状態を作って、自分達自らで動いてもらう。そういう手順を踏むことが多いです。しかし、その通りやろうと思うとダメですからね。ヒアリングをやってみた。そうしたら、驚くほどみんなやる気がなかった。そうしたらここで終わりますよね。やる気がないのにワークショップをしてはダメです。やる気がない場合は違う人と組まないといけない。大人がダメなんだったら子どもを集めてやろうということで小学生と一緒にやらなければというのが本に書いてある事例です。なので、毎回これを基準にしながら、毎回これと違うことしかやっていないというのが僕らのやり方です。という意味では教科書はなかなか書きにくい。集まる人たちのメンバーによってやり方が変わるし、やる人の主体によっても変わります。見え方としゃべってる内容の違和感をなくさないといけない。やる主体と集まった人たちの順列、組み合わせの分だけやり方を変えないといけないものを教科書にすれば、ほとんどこの教科書通りにやってしまうと間違ってしまうような気がします。

 

 

Q3.           富山市のコンパクトシティの話の中で、コンパクトシティ化していくときに、全体に少なくということではなく拠点に固まる、いわゆる中心市街地だけではなく農産漁村みたいなところもキラリと光るような地域集落をやっていかないといけない。それを富山市は「団子」というふうに言っていますが、いろんな団子が散らばっていて、それらが関係性を持ちながら繋がってコンパクトになっていきましょうということを言っているんですが、そのときにその間のところ、40年にスプロールしたときに新興住宅地になったところをどうしていくのかという答えはまだ全然見つかっていないのですが、そのあたりは先生はどう思われますか?

 

A3.           それをもし計画的にやるんであれば、スプロール市街地であったり、郊外でこれから人が少なくなってくるときに、空き家のまま何年以上放置してはいけない。引っ越す場合はさら地にしてから引越しなさいというある種の条例をひっかけないと計画的にやらないとたぶんゴーストタウンみたいなものが広がっていってしまいます。これはもう事例がたくさんあります。北海道の陸別町というところもそうです。そういう仕組みをこれから導入していかないといけなくなるだろうなあと思います。人が住んでいるところをきっちり集約させていくこと。しかも伸びきったインフラを使えるところは団子できっちり使いながら、つなげていく必要があるんですけれども。ここは使わないと決めていたところはきっちり自然に戻していくか、少なくとも自然倒壊で隣の家が何か危害をこうむってしまうような状況を避けるような政策をやっていかないといけないと思います。これに対して、税金でやっていくというのはなかなか難しいですから、ある枠とそれを市民の了解を得ながらきっちりとビジョンを示して、こういう理由だからこういう枠をかけねばならんということを考えていく時代に入っていくんだろうなという気がします。

 

                   これが逆線引きとかダウンゾーニングという資産価値を目減りさせるような気持ちにさせるので、かなり長い間の説得が必要です。本当はデータを示せば資産価値を目減りさせる結果にはならないんですけどね。市街化調整区域といって、住宅が建てられなかったところが、市街化区域という住宅が建てれるところになったら、もともと農地並みの地価だったところがいきなり宅地並みの地下に上がるわけじゃないですか。そうしたら自分が持っている土地が得をしたような気がするじゃないですか。ところが、市街化区域というのは概ね10年以内に家が建つような場所が設定されているんですが、もう30年家が建っているような場所がざらです。そうすると何が起きているか。冷静に考えれば、農地並みの課税にしといてくれれば固定資産税はそんなに払わなくてよかったはずなのに市街化区域になって家が建つかとワクワクしていると地価が上がっているものだから妙に固定資産税を余計に払わなくてはならない日々を過ごしてきたわけです。

 

でも30年その土地が売れなくて、誰も家も建てなかったんだったら、しかもこれから人口が減ってくるんだったら市街化調整区域という方に戻してもらった方がいい。これは逆線引きといいます。そういうふうに戻してもらったら、毎年払う資産税が少なくなるんだった儲けもんじゃないかという発想に頭を切り替えられるかということです。資産価値が下がることは嬉しいことだというふうに発想をかえられるかどうかということは、すごくこれからみんなに共有していっていくつかの議論が必要だと思います。これと同じことだと思います。自分達が住んでいる土地を、隣の家が空いて倒れてくる危険性をずっとびくびくしながら生きていきたいかということです。これにはもしかしたら空き家率がもっと高まらないとその信憑性が出てこないかもしれません。実際に北海道では隣と向こう三軒の家が空いた。自分の家しかなくなった。この不安感というのが自分達に対して次のアクションを起こさなきゃということになるんですね。ところが、まだつまっている家の方が多くて、空き家が1軒ということになれば、なかなか聞いてもらえないというところがありますから、計画的に投資をしていく場所をつくって、ここらへんが弱ってきたなぁと思って、弱りきったときに共有できる話をしていくというふうにしないことにはなかなか難しいと思います。

 

あわてて付け加えておくと、弱らせたいということではなく、そこに住んでいる人たちにやる気があるんだったらきっちりと傾斜配分をしていくべき。そこはちゃんとやっておくべき。ところが「何をやってくれるんですかー?20世紀型の行政は何をやってくれるんですかー?」というふうに言っていて自分達では何も動かないという地域がそのままずっと放置してあるという状態になってしまっているのであれば、そういう地域には次の策を講じねばならないという気がしています。

 

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