レポート
まちづくりセミナー2011
第1回講演録 講師:大森彌氏 東京大学名誉教授
2011/12/10第1回 平成23年12月10日
演題 「横につながる」
講師 大森 彌 東京大学名誉教授
はじめに
私は大学をもう終わっていますので、現在は「無職」ということになっています。
無職というのは世間では通りが悪い。
この歳になったので無職でも構わないが、あるところでお呼び下さった主催者の方が私が経歴等を書いて無職として出したら、それは困る、何かないですか?と言われた。
どうして無職が悪いの?と聞くと、普通は日本は世間では無職の次に続く言葉があるでしょう、住所不定って…。次は、前科何犯かってつくんじゃないですか…って。
そんなことはないでしょうとも言ったんですが、私が唯一使えるのは、もう特定の大学にはいませんから、今は名誉教授という肩書きを使っています。本当はつかない方がいいが、世間の皆さんはそうしたいとおっしゃるから。
ただ、特段に名誉教授になったからと言って、東京大学との関係が続いているわけではない。名誉教授室というのもありますし、東京大学の図書館が自由に使える以外には何もない。もっぱら寄付している。今は大学もせちがらくなって、名誉教授は寄付は何十万せよということになって、もっぱら寄付しています。そういう立場です。
東京大学名誉教授を使って、1つだけメリットがありました。
主催者によりますが、それまで座席は普通でした。でも名誉教授になってグリーンに変わりました。これは、世間がそう見てると。名誉教授の先生にはやっぱりグリーンは出すべきだとお思いの人がいる。これは一種の世間の観念ですから、世間の。
変な話で恐縮ですが…
私は今47年目になる女性と暮らしています。47年間離婚したことはありません。
ずっと同じ人と暮らしています。まあ、もうすぐ50年経つんですが、50年1人の人と暮らすというのは、よくぞもっていると思います。
どうしてもっていると思います?
皆さん方のなかで比較的、結婚して間もない人はすぐ分かるんですが
結婚すると個人差はありますが、ほぼ三ヶ月の間で飽きてしまうんです。
飽きた後で持続するというのはどうしてかというと、ずーっと耐えて耐えて耐え忍んで暮らす。忍耐です。
そして、これは別に夫婦だけの話ではなく、じっと我慢できるという人間の能力はすごい能力だと思いまして、すべての活動において事柄を成している人は皆この力が強いんです。
同じことを繰り返していく。繰り返してやれるようなそういう忍耐力をもっています。
忍耐するということは人間は自制できるということですから、したがって、たぶんどこかで人間としての成長が行われるはずだとみています。
私は自分のことはよく分かりませんので、忍耐したからといって、そんなに成熟したかどうかは分かりませんが、日常の暮らしはほとんどこれです。朝昼晩と同じことを繰り返します。だから、日常の暮らしはしばしば退屈なんですね。
平穏な日常の暮らし
日常の暮らしが毎日起伏が大きくてということになると平穏でありませんから、圧倒的にやや退屈な日常の暮らしと引き換えに我々が手に入れているんです。それは、311に照らしてみれば分かることです。大きな災害とか、個人でいえば、病気になったり交通事故になったりしますが、平穏な日常生活がストップされます。そういうふうになると、しみじみと、平穏な日常の暮らしがいいんです。
しかし、再び平穏な日常な暮らしに戻ると、なんと退屈な日々かと思います。
たまには何か事件とか起こらないかなと。自分に起こる事件は嫌ですけれど、人様に起こる事件は楽しいですから。そういうふうな日常です。
それをあきらめないで、死ぬまで、そういう暮らしを淡々と維持していく。そういうものだと私は思います。
行政学を専攻していて思うこと
私は、地域のほとんどは平穏な日常の暮らしを前提にして成り立っていると思います。
ただし、地域でいろいろなことをおやりになっている方とご一緒すると、なんとなく楽しそうで生き生きとしていて表情もいい。
どうしてそうなるんだろうか、と少しものを考えておきたい。
私はもともと行政学をやっているものですから、行政学は何を研究対象にしているかというと、一般的には国や都道府県、市町村の行政です。行政としてですから、主として日常的にこの仕事をやっているのは行政の職員です。この職員の人たちについて一応研究している。職員の研究はどうなるかというと、どういう職場で、どういうふうに配置され、どういうふうに人事が行われていて、どういう仕事をしているのか。そういう職員は地域や住民とどういう関係を結んでいるのか。広く言うならば政治の一部なんですが。
政治は普通のイメージでいってもそれ自体が面白いです。面白いというか関心がわくんです。国政政治を見ているとそう思うでしょう。
どうして今の民主党政権は倒れないんだろう。と思っても、倒れない。こんな自堕落なことをやっててどうして倒れないんだろうか。それ自身が面白い。大学の講義で政治を語る方が学生たちは面白いんですよ。ところが、行政を語ると面白くない。実は。
これが私が自分が行政学を講義しながら、この行政というのは聞いている学生たちが関心をもってもらえるだろうか。圧倒的に日常的な下支えの仕事をやっていますから、そんなに面白おかしなことはない。だけど、そういう活動をなしに世の中は成り立つことはない。だからそこは大事なんだと考え、そこを調べてやっているんですけれども、なかなか思うようになりません。
ところがですね、そういう片一方で、行政の世界の近くにあってちょっと外にあるような世界ですけれども、皆さん方がお付き合いしているような世界に少しでも皆さんが入ってきてくれると随分違うんですよ。趣が違う。どうして違うんだろうか。
行政の世界で生きている方々は、地域と住民の皆さま方について、ものを本当にわかっているんだろうか。分かるということはどういうことなんだろうか。そういうことを翻って行政の担当者の皆さん方といろいろおしゃべりをせざるを得なくなった。
それが、私が地域を回ってみて分かったことです。
なんともないことが分からなくて、ある程度になるとやっと分かったということです。
私自身について
私自身は大学のときにほとんど大学に行きませんでして、一応は大学の先生は大学にいることになっています。部屋も与えられている。でも、大学の研究室でやることは私にはなかった。そういうことをやっていたら、私の尊敬する先生から呼び出しがあって、若い頃ですけど、「大森くんもうちょっと大学に来られませんか」というんですよ、その先生が。私はその先生に「大学に来て何をするんですか」と聞いたら、「君、一応大学は来ることになっているんだろ。君のはんこは毎日来たと押してあるだろう」と言うんですよ。
研究室に入って人の物を読んでいれば研究は成り立つということもあるかもしれませんけど、私は面白くはありませんし。でも、その先生は尊敬する先生でしたから、その説教を受けてからしばらくの間は大学に行くことを心がけました。すぐにまた行かなくなりました。私の勉強の場は大学にありませんで、地域、自治体だと思っています。
根無し草(私のタイプとして)
私自身は根無し草です。根無しに近いです。ほっつき歩いていますので、自分が大地に足をきちっとつけて、そこに根を生やしてやるタイプではありません。日本の研究者はある研究テーマを一生涯やる人が尊敬されますが、私はあることをずっとやる人は阿呆だと思うので、次から次へと対象を変えています。同じことはやりません。数年やると飽きます。
したがって、次から次へと薄く浅く歩くタイプです。極めていない。
ある能力を極めていくと、普通は凡庸凡人なんですけれど、次に名人になって、達人になれるんですけれども。そういう道筋が学者に開かれているんですけど、私自身はそういうスタイルを取っていませんで、次から次にとっちらかすというタイプです。
今、何をテーマにしているか
それで、今は何を一生懸命にやっているかというと、行政の研究もしていますが、圧倒的に私の現在の時間は「介護保険の運用」なんです。それは、日本の社会が直面している最大の問題として、1つは少子高齢社会の到来ですけれども、日本はもう超少子高齢化社会です。ちょうど今、戦後の団塊の世界の方々がまもなく高齢者(65歳以上)になります。それから十年後くらい経つと、2025年ぐらいには後期高齢化社会になります。
現在、国がやっている社会保障の税の対策は全部これが対象になっています。2015年、2025年。ここをどうやってやり過ごせるか、というのが当面、日本の社会の最大の問題になってきます。そのなかで、多分このままでいきますと、団塊の世代に限らず、大部分の日本人は簡単には死にません。年老いて生きていきます。
戦後、日本の社会は人生50年だったわけです。ずーっと50年くらいだったんです。50年の間にどんどん延びまして、現在ほとんどの人は85歳くらいまで生きます。この歴史は圧倒的に足早に進みました。皆が長生きするようになりました。原因はわかっています。日本の医療は圧倒的にいいんです、世界の中でも。生まれてくる子どもたちもほとんど育ちます。貧しい頃、公衆衛生と医療の質が悪かったころは、子どもが生まれても死にましたので、たくさん子どもを作らないと間に合わなかったんです。
現在の社会
豊かになりまして、ある程度、必然的に子どもが育つことができ、人々は子どもをつくる必要を感じなくなりました。したがって、少子化はある程度、やむをえなく進んでいます。私は望んでいません、少子化を。だいたい社会は単純維持で2.8、2.0、2.01にならないと単純維持できませんので、若者の方々は結婚して最低2人ぐらいつくってくれたらいいんですけど。もうおそらくは絶望的です、日本の社会は。簡単に戻れないと思います。
戻れないでしょ?ここ、若い人がおいでですけど。まだ結婚していない人がいるでしょ。結婚する予定はあります?結婚しても子どもは1人か2人です、たぶん。そういうことで、日本の社会は当然このままいけば人口は減ります。世界は爆発的に人口が増え続けていきます。まもなく70億ですから。70億というのはすごいですよ。100億に近づく可能性がある。そういう中で、日本の社会は減っていくんです。おそらく1億を切るということですが、ちょっと減り始めましたけれど。1億をきって、9000万台になるんでしょ。皆が9000万台になると大変だ、大変だと言っていますが、そうだろうかなぁと。
私はもともと、あまり悲観的に物事を考えないタイプですから、別にいいんじゃないかと思っているんですけれども。そうばかりは言っていられませんで、実は人口が上手に全体として公平にいってくれればいいんですけど、そうはなりませんで。圧倒的に日本の場合は三大都市圏、特に東京圏です。まだ人口が増えてますので。まだ小学校をつくっているんですよ。考えられませんでしょう、地方から見ますと。
ですから一極集中だけではなく日本列島のなかには大都市がいっぱいありますけれども、熊本市が来年4月で政令指定市になりますので、もう20の政令市です。つまり、それぞれのところで一極収集が起こっているんです。そのなかでもダントツなのは東京です。ということはですね、他がまばらになっている。アンバランスに減っているわけです。
今後、ますますそうなる可能性もある。ただし、これ以上、地方から東京に人が流れこんで来るということはほぼ終わると思います。東京はじわじわじわーと人々が東京から外に出なくなっていますので、そこでおりてきます。したがって、今後最大の問題点は大都市における高齢化です
これは、高齢化が進む大都市でビジネスチャンスが猛烈に、今、拡大中であります。私がやっている介護保険という、介護に関わるサービスは絶対衰えません。確実に仕事があるんです。しかも、介護保険というのは、事業を展開しますと、本人が払うんですけれども、本人にかわって9割方介護保険から経費が出ますので、介護事業者はもっと増えます。これが失業しません。これから成長産業の領域になります。それは、人々が死なないからです。死なないんですけど、だいたい75歳以上になると、ほとんどの高齢者って元気なんです、それなりに。1割から2割の間の方々に心身の弱体化が起こりまして、いろんな意味でケアを必要とします。
日本の社会は高齢化しているが…
日本の社会は高齢化していますけど大丈夫なんです。問題はしたがって8割程度の高齢者の皆さま方がお元気で、できるだけ老後は病気にならないで、病気になっても病院に行かないで倒れたら早い時期に死んでもらう。それが一番です。そういうと高齢者も怒るんですけど。高齢者は病院に行って診察を受けても直らないでしょう?皆さん方の近辺にもし高齢者がいたら病院に行くことをおすすめしないで下さい。「我慢しなさい。人生80年我慢してきたんでしょう。あとちょっとです」と。
介護保険というのは65歳になると、払える人は全員介護保険を払っています。社会的連帯の制ですから、すべての世代がみんな受け持つことになっています。介護保険という仕組みが成り立つためには、ほとんどの人が介護保険料を支払いながら、その方が介護保険のサービスを受けないで死んでくれることでしょう。したがって、保険制度で言えば、掛け捨てにするということでしょう。そういう人の多いほうがいい社会でしょう。
人が好んで病院に行きますか。人が好んで介護保険のサービスを受けたいと思いますか。しかし、みんながもし仮にそういう人が出てきたら、その方が医療も保険のサービスを受けられると、自分がそれに貢献できるんだって。そうやって死んでもらうのが一番いいんですね。
ということは元気な高齢者を地域の中に多くするということは基本戦略なんですよ、これは。本人にとっても、自治体にとっても、地域社会にとっても望ましいんです、その方が。だから、自分のところは高齢者がいて、やたら病院にかかっていて、自治体が受け持っていたら赤字続きで、介護保険もピンチだというところは、地域社会そのものがどっか弱い。考えてしかるべきでないか、と私は思っています。
ただし、あんまりこれを強調すると、少し冷たい議論になりやすいので、そこは気をつけないといけないですけれども。基本は私は介護保険に関わっていて、そういう風に考えています。
地域包括ケアを目指して
現在の介護保険制度はどこに向かっているかというと、医療も含め全部が地域包括ケアの方に進んでいます。できれば30分以内で行けるような範囲の中に全部、基本的なケアのサービスが滞りなく届けられるような範囲の中で物事を考えていきたいと思っています。全部そうなるわけではありませんけれども、したがってこれを「地域包括ケア」と呼んでいます。これはシステムとして確立させたいと思っています。
すべて地域ということを頭に入れながら全体の政策や制度を組みなおし強化していきたい。お医者さんの世界はこれに向かっています、今。日本人は大病院を志向している人が多いですが、本当に望ましいのは近くに信頼できる医者がいて相談できる。いざとなったら大きな病院で治療を受けられる。そういうシステムを組むべきです。
地域で開業しているお医者さんが途中からさぼり始めた。昔は午前中、お宅というか診療所や病院で診療していても、オフは地域を歩いていたんですよ。患者というのは生活の現場に行かないと分かるわけないでしょう。聴診器を当てたぐらいで分かることはないんですよ。これをやってもらいたい、お医者さんに。
実は、診療費(お医者さんたちの報酬)というのは、お医者さんたちが特段に設けるということに心を費やさなくても、ちゃんと惨めな思いをしないで暮らすだけの報酬を出しているんです。でも、地域でいうと、お金持ちの1位か2位にお医者さんとくるでしょう。あれは儲けすぎているんです。儲けすぎているというとおかしいですけど、繁盛しているお医者さんもありますからいいんですけど。
そういうお医者さんたちにできるだけ地域を回ってほしい。そのときに看護師さんも一緒についていく、そして様々な介護福祉サービスもご一緒して、全体として地域に暮らしている人をどういう風にケアしていくのがいいか。使いすぎもよくないし、過小もよくない。一番適切なケアプランはどういうものかというのを探してもらいたい。そのためには、どこかで地域を視点にして物を考えるような仕組みに、全面的に変えていきたい。
今回は24時間365日、医療と介護が接続するような、短時間で繰り返しお宅に行くというような巡回型の、あるいはオンデマンドでちゃんと人が行けるような仕組みに変えていきたい。困ったら全部施設に放り込むような話しをやめたいと私は考えています。
高齢者に対する家族の接し方
ちょっと脱線するようですけど、今日はあまり議論できませんので。
私はこういうことに関わって、家族はあんまり信頼していません。一般的にですけど。家族に心の優しい家族はいます。でも、私が関わっている介護保険の実際の運用上は、そうとう悪人の家族がいっぱいです。例えば、大変なのは分かりますけど、在宅で工夫すれば十分在宅で暮らしていけるにも関わらず、家族が大変になるとどうするかというと施設に入れてしまうんです。
日本の施設は今のところ3通りで、特別養護老人ホームでしょう。ちょっと中間施設の老人保健施設。それから、我々が昔社会的に変えろ変えろといったんですが療養病床というのがあるんですよ。お医者さんは診断しないんですけど、ベットがあって、それで療養している人たちもいます。この3つです。それで、いずれも家族が入れさせたいんです。
その理由の1つは、大変だからです。1日2日はいいですけど、1週間、10日、1ヵ月、数年、それは大変です。心身がくたびれると人は優しくなれません。だから、家族の中で虐待が行われます。言葉も虐待もあるし、本当の虐待も行われます。しかし、家族の中ですから暗数になっていて分からない。明白です、これは。したがって家族が追い出す。在宅は大変ですから。だから、日本の社会で施設のニーズがなかなか止まらない理由はこれです。
もう1つ、高齢者は年金暮らしです。家族はどうやってこの年金暮らしのお年寄りを扱っているかというと、できるだけ年金を使わせないんですね。もうちょっというと、高齢者の持っている貯金通帳やある種の資産もできるだけ使わせないで自分達でもらいたい。この家族が何をしているかというと、人間が高齢すると二つの病気が増えるんです、一般的に。癌が増えるんです。もう1つは認知症が増えるんです。長生きしますから。発症までに時間がかかりますから、長生きする分だけ増えるんです。昔、ほとんどなかったものが増えている理由なんです。
このうち、一番はまだはっきり分からずにどういうふうにしたらいいかを戸惑っているのは認知症です。認知症というのは、自分で判断できなくなりますから、このときに本人に替わって財産管理をする制度があります。後見制度です。この後見制度は今のところ3つあるんです。親族後見、家族後見、専門後見(弁護士さんたちがやる)、市民後見(これから始まるやつ)です。いずれも家庭裁判所で後見人を指名してもらって、本人に替わって財産等の管理をしていくんです。
このうち、家族のやる親族後見が怪しいんですよ、ほとんど使わせませんから。人はですね、自分が老後になったら、その人が持っているものはその人の人生が果てるまでに全部使いころして死ねばいいんですよね。それを家族が使わせないようにしているんです。こんな家族が優しいとは思えない。しかし、心の優しい家族はいますので、一般的には家族を否定しません。でも、すべての家族がいいという前提に立ったら、この世界は幸せにならないと思うので、いろいろな手立てをこうじていきたいと思っています。
高齢者の望ましい姿
私の母は93歳で死にました。ほんとにせいぜいしました。いろいろあったんですよ、ほんとに。死ぬことを願ってませんでしたけれども、死んだらほっとしました。私のつれあいの母は95歳で新潟で一人で生きています。一人で生きられるのは地域に守られているからです。間違いなく。私ども夫婦と暮らしたらおばあちゃんのやることは何もありません。高齢者が暇な何もやることがなくなったら、直ちに駄目になります。おばあちゃんは一人で暮らしていますので、できることはすべて自分でやります。
自分の持っている能力は衰えることのないまま使っていますので、家族に甘え始めると年寄りは駄目になると。皆さま方も、今暮らしているのを追い出せとは言いません。でも、好んで暮らす必要はありません。若い人は若い人で暮らす。老人は老人で暮らす。ひとりになっても、社会はちゃんとその人が暮らしていけるような仕組みをつくっているから大丈夫です。そのかわり、ご本人が蓄えたものはご本人が全部使いこなして死ぬということを支援することが望ましい仕方ではないかと思います。
そういうことを考えていくと、いろいろ地域の話しもしたいとは思いますけれども。
結婚について
私は同じ歳の人と結婚していますので、どちらが先に死ぬかということです。女房が先に死んだら私はたぶん再婚するつもりでいます。問題は相手が見つかるかどうかですけど。ほとんど笑い話ですけれども全国公募します、私は。そして、面接ですね。やっぱり。「一番さん、どうぞ」ですよ。問題はその公募に応じてくれる人がいるかどうかですけれども。
女房に僕が先に死んだら貴方も再婚していいと言っています、私は。変なことを言う人ですね、と。構いません。人生において結婚はいいものだったんだと。再婚を拒否する人はやなんでしょう、結婚が。いいものですよ。違う人と暮らしてごらんなさい。
この歳になっても、女房のつくる食事の味は違いますから、私と。合いません。だから女房が私が家にいるときは私が炊事して自分で食べますから。「今日の夕食はうめえ!」って。でも女房と暮らしているときは、別に女房のつくったものに批判したりはしません。若い頃はどうですか、と聞かれたら、普通ですね。最近はおいしいと言っています。もう少し惚気ると、今は最近どう言っているかというと。
私の死はない(論理的な話し)
実は最近ある時期にそう思ったんですけれども、皆さん方は眠るでしょう、今晩。お休みになります、必ず。人間は寝ないといられませんから。お休みになるときに眠ったって分からないんですよ。眠ったと分かるのは、夜中にトイレに起きるか、翌朝目覚めないと分からないんですよ、寝たって。人は寝た後、寝たことを問題にすることはできないんです。
今晩はお休みになって寝っぱなしになるとするでしょう。ずっと寝っぱなしになると永眠になるんです。永眠とは眠ることです。永眠とは死ぬことです。したがって、死ぬことと眠ることは同じことです。今は論理的な話で言っているんですけれども。皆さん方が近くにいる人が死にそう、私でいいですけど。大森あたりが死にそうとして、死んだということを大森彌が分かるはずないでしょう。分かると思います?そういう落語はあるんですけど。大森彌が死んでいるのを、大森彌が見ているということです。論理的にないでしょう。
ということは、私の死はないんです、人間には。私の死ってないでしょう。ここから先は少し難しいんですけど、論理的にですけど、眠ることの比喩で言うと眠ったということが分からないんだから、死んだってわかるはずありません。したがって、中学校の英文法の話しで言うと、私の死はない。そうすると、英語の文法でいうと、あとは二人称と三人称でしょう。二人称というのは、自分の近くにある人の死でしょう。最愛の人、子ども、両親、恋人、友人、それは二人称なんですよ。この死が切ない。ところが、三人称、彼ら、あの人が、これは遠のくから、人はほとんど痛みや悲しみは感じません。
日本はこの豊かな社会を享受していますけど、世界でどのくらいの子どもたちが餓死しているかなんて、我々は心を痛めません。三人称ではるか遠い死だからです。我々が見聞きできる死は二人称です。逆に言うと、二人称の死はすごく重要でして、自分が見聞きできる死ですからくっきりと見ないと駄目なんですよ。二人称の死を病院に運んで死なせたらいけないんですよ。実際の日常の現場で親しい人が死んでいく現場を見ないといけないんですよ。残念ながら、日本の8割以上の人は病院で死んでいます。なんとかして、病院で死ぬことをやめたい。
できれば在託を呼び、周縁の人たちに囲まれて死ぬような死の迎え方を実現したいと思っています。私は。したがって、私がここで倒れたとするでしょう。ある自治体に行ったら、講演をやった後、お辞儀をした後に気を失いましたので、今日ここで倒れたら困りますよね。救急車を呼ばないでください。ここで倒れたら、私の手を握ってもらって、安心して言ってください。「私もそのうち参りますので、向こうで待っててください」って言ってくれたら死にます。救急車で運ばれていって死ぬときには、めちゃくちゃ打つんですよ、病院が。心臓が止まるとドンと打つあれは、高いんですよ。やたらと打たせたら駄目です。
ここで死ぬ!皆さん方は覚悟してます?皆さん方がここで倒れたら僕が手を握りますから。私の場合は「すぐに行きますから、向こうでお待ちください」と。
ヨーロッパ近代はおかしい!
ところで、今の話、少しへんな話かもしれないですけれども、実は今日のテーマが「まちづくり」になっていますけれども、僕が今、どういう風に物事を考えているかというと、3.11のこともありますけれど、私はヨーロッパ近代はおかしいと思い始めているんですよ。ヨーロッパ近代が作り出してきた、一般的な人々の生活様式のことを文明というんですよ。文明は英語でCivilizationなんですよ。あれはCivilでしょう。都市ということを前提にしているんですよ。この生活様式がもとからして。
ここが育んだ様々な生活様式が怒涛のように明治以降に日本の社会のなかに入ってきました。現在も同じことをやっているわけです。ですが、私は、ヨーロッパ近代のような物事の考え方では、日本人の暮らし方も世界の暮らし方も駄目になるという確信を最近強めています、私自身の中で。
もともと私が政治学を習ったときに、圧倒的にヨーロッパ近代の政治、様式を基盤にして政治の講義を受け、学部論文を書きました。今は反省中です。できれば市民という言葉を止めたい。市民という言葉は難しいですし、別に間違っているというわけでもありませんけれども、どこか自分にそぐわない。市民に代わる言葉がないなぁ、どうしたらいいかなぁと散文的でしょうがないから住民という言葉を使っています。したがって、私は市民という言葉を使いません。これは意図的に使いません。
どうして私がヨーロッパ近代について自分の立場として、この歳になって反省しても遅いんですけれども、少し気がかりなのはですね、ヨーロッパ近代の基本的な人間と社会に対する考え方はヒューマニズムなんですね。人間中心主義なんです。人間中心主義の記号的に対象は、自然です。人間対自然です。したがって、ヒューマニズムという考え方は、圧倒的に自然に対して人間が優位に立ち、自然を征服し、これをコントロールのもとに置けるんだという確信に満ちた考え方ですけれども。
それのもっとも典型的な地域の姿が都市です。都市はもともと自然を排除して成り立つものなんです。どうして自然を排除して成り立つのかというと、狭義的にはどうしてかというと、都市は人間が作りだすものですから、人間が作りだすものというのは人間の脳が作り出している。人間の脳が設計して、段取りを整えて、それを作りだすのですから。人間の脳の特性が必ず反映するはずです。
人間の脳がどういう特性をもっているか。ここから先はちょっときちっと学問的な議論をしなければならないんですけれども。私が認識した人間の脳の特徴、特色をひと言で言えば、必ず人間の脳は個人の個体としての身体について言うと、指令統制することです。間違いなく。
今自分で手を動かしています。これは手先といいます。手の先ですから。手先とは脳の手先のことを意味するんですよ。これは身体運動なんです。脳が指示しているんです。したがって、脳は指令を出して、上手くいかないとまた指令を出したいんですけど、それが上手くいく。そのメカニズムのことを統制といいますから、脳の基本的な特色は指令して統制することなんですよ。したがって、人間の脳は自分が指令・統制のできないことは嫌いなんですよ。もともとからして。そのはずです。
そうすると、人間の脳の特色は指令統制をすることですから、脳は最終的に失敗するんです。なぜ失敗するかというと、いくら自分の脳で死ぬな!といっても死ぬでしょう。人間の身体は自然だからなんです。だから、脳は最終的に破れることを知っている。100%の確立で人間は死ねるんですよ、必ず。だから、早く死ぬことはありませんよ。自殺するなんてことは愚の骨頂ですよ。100%の確立で死ねるじゃないですか。人間は。なんで待たないんですか。そそくさとどうして人間の命を絶とうとするんですか。
この人は人間の身体が自然であるということにまったく無自覚の人です。私は手を出していますし、顔を出していますから、ここに雑菌だらけです。人間の胃にもめっちゃくちゃたくさんの菌がいるんですよ。この菌がいることによって、内臓器官の皮膚が守られているんですよ。だから、人間の身体そのものは生物多様性で生きているんでしょう。勝手に死んだらいけないんですよ、人間は。自分の中にたくさんの微生物がいるんですから、その生物に挨拶して死ぬべきじゃないですか。何兆個の微生物に挨拶するんでしょう。千年あっても死ねませんよ。死ぬ人は横柄なんです。この人たちの発想の中身も人間中心主義です。でもどこかで自分の身体が自然であるということを無自覚のまま、殺すんですけれども。これを克服したい。
戻しますけれども、人間は自分で指令統制できないものは嫌いですから、したがって、まず死ぬことが嫌です。死ぬことが嫌だとどうなるかというと、死んでも死なないと思いたいんです。これは日本だけではなく、世界でもです。たくさんのことはお話できないですけれども、「千の風になって」という歌があるでしょう。あの詩はへんな詩になっています。歌詞をよく見ると。「私のお墓の前にきて泣かないでください 私はここにいません」というの。せっかく葬ったのに。どこをうろつき歩いているんだって。あの歌は千の風になって時をわたるんです。日差しになってそそぎこむんです。人間は新でも死なない。身体は滅んでも魂は行き続けると思いたい。人間の脳は。横着で欲深い。
人間は指令統制できないものは嫌いである
人間の脳は基本的に自分の脳で指令統制できないものは嫌いですから、通常の自然は嫌いなんです。人間の脳は。指令統制できないから。地震も日照りも雨も。自然は人間が指令統制できないものの典型なんです。だから、人間の脳は嫌いなんですよ。嫌いであるからどうしようとするかというと、自然的なものをできるだけどんどん排除しようとするんです。排除しますから、自然じゃないものを作りだすと快適で便利で満たされるじゃないですか。それが都市なんですよ。ですから、都市は面白くない。スカスカで人間が設計してつくっているものですから、面白いものではない。予測可能です。
都市が面白いのは、予測可能なのに、中に入っている人間が予測可能に振舞わないから。だから本来の秩序を崩すから。だから、本来の都市は面白い。でももともと、都市はほっといたら排除するんです。そうやってつくられたものが都市です。だから都市的なものだけで人間がその中で暮らしていると、ろくな人間にはなりません。わかっていることです。なぜかというと、自分で統制できないもの、自分で簡単に指令できないものと共に生きるという知恵が開発されないからです。
農産漁村の重要性
ここから一挙に飛躍するんですけれども、私はある時期から農産漁村がすごく大事で、農産漁村を滅ぼしてはならないと変わってきているんです。私のいろいろなものを見てもらえれば分かると思いますが、私は全国の町村会の道州制と町村に関する会の座長なんです。何をやっているかと、押し寄せるように日本の町村をつぶし始めた。ここはほとんど農産漁村で成り立っている地域の自治体です。ここはみんな小さいんです。世の中で小さいものはお金も管理もかかるから迷惑なんです、と。なくなってもらえませんか?っていわれたんですよ、町村が。
私が総理大臣だったらそう言いませんね。あんたのところは小さい町村で人口を3000きったんじゃないですか。このまま単独で自治体を維持できるんですか?大変ですよ。それでも貴方がたは自分達の地域を守りとおしたいんですか。守りとおしたいというならば、それならば、そんなに苦労を承知の上で、貴方がたが地域の自治を守りたいならば応援してあげるから頑張ったらどうですか、といいますよ。私なら。
この国の歴代の総理は言わない。お前のところは小さくと迷惑だからつぶれてくれって。こんなに悲しいことがあるかって。これもみんな全体すると大きな意味で高密度なんですね。国民の財産であるべき地域をつぶして、もっと便利で質のいいものに変えていきたいと。そういう意向強いんですよ。圧倒的に。
しかし、皆さん方が、ここ富山もそうですけれど、ここがどういう風に成り立っているか。山と里と海。これが連環しているんですよ。お水の大循環。これによって日本の国土と日本の本来の暮らしは守られているはずなんです。それが今、途絶えようとしています。しかし、日本人は山を崩しませんでした。ちょっと昔の話で恐縮ですけれども、歴代の政治家の方々とお付き合いはありません。お付き合いはなかったんですけれども、田中角栄という総理と話して、一回だけ講演会が同じになったことがあるんです。雪国青年会議所がお呼びになりました。総理がメインで私がサブで。
雪国青年会議所が私をどうして招いたかというと、当時別に総理と肩を並べて講演会なんかできる立場ではありませんから。これがあの新潟の雪国青年会議所の素晴らしさですけれども、「一人の人間に依存するような地域は駄目になるから。依存するなと言ってください」というんですよ、私に。そのとき一緒に来たのは田中角栄ですよ。
私が前で田中角栄の場合はいいんですけれども、田中角栄先生が先にやった場合はみんな帰っちゃいますから、私が最初に講演をして総理がやったんです。総理はこういった「皆さん、新潟には雪が降る。1時間50cmの雪が積もる。どうして雪がここに積もるのか。山があるからだ。」そう。正しい。ここまでは。そのあと「雪が降ると大変だ。この新潟の山を全部削ろう」と。その残土を瀬戸内海に持っていって埋めちゃえと言うんです。
これを一国の総理が言ったときに会場の皆が拍手するんですよ。切なかったですね。新潟の山を削ったら新潟山間部のアイデンティティは失われるじゃないですか。何を考えている総理かと。およそ恐れを知らない人でしょう。日本人は山を削っていないんですよ。山は聖なる土地なんですよ。あそこに雨が降って、あれは天水なんですよ。日本の田は、肥料を入れないでちゃんとお米が育つようになっているんですよ。山を取って水が出てくるからなんですよ。山から水を通せば、必ず稲は育つんですよ。
お米というのは1粒から1000粒から2000粒取れるんですよ。これほどの再生能力がある穀物はないんですよ。私はお米以外に人類は救われないと思っています。
お米を食べること
ここからまた飛躍しますと、
私は維持になって、農業をやっていない人間たちが特に稲作をやってる農業を支えられるのは一つしかない。それは三度三度ご飯を食べること。守っています。私は。今日も家を出るときからお寿司を巻いて、自分で巻いて食べてきました。美味しかったです、今日は。自分でつくったらおいしいですね。
私はこれも維持になっていますけれども、お酒は日本酒を飲もうと思っています。ビールとかウイスキーの美味しさは許さんと。…許しますけれども(笑)うちは米粉パンにしていますから美味しいですよ。モチっとしていて。今、頑張っているのは米粉でつくるうどんです。ベトナムのうどんが美味しいのは、あそこはお米が上手いですから。最大のライバルはベトナムです。私は維持になってもそう思っています。それは、永遠と築いていた日本人の遺伝子はご飯を食べると信じている。
欧米で今、小麦アレルギーという人は結構増えてきていますけれども、その人たちはお米を食べています。お米はアレルギーはほぼ出ません。ですから、私自身はそういったことを考えながら、地域論で言うと、どこかで都市をやめませんかと。都市をつくってもいいんですけど、できるだけ都市の中には私たちが簡単に統制できないもの、自然を持ちこみたい。出来れば森の中に都市があるような都市にしたい。
都市と自然
例えば、秋になったら必ず落葉樹を街路樹の樹木として植えたい。落ち葉になりますから、誰が掃除するかっていう話しになるじゃないですか。絶対に役所があの掃除をやってはならないんです。街路樹のそばに暮らしている人たちは街路樹の葉が落ちたらそれを掃除する義務があるんです。それを胸をはって言わないと駄目なんです。貴方が落葉樹を享受しているじゃないですかと。その程度のことをやらないで、どうして都市で暮らせるんですか。出来れば一つでも二つでも。
都市の中にある、私は例えばプールを地域の中から全廃しなさいと言っていますから。どうして日本はこんなに小学校の中にプールをつくっているんですか。もともと日本は中小大の河川が非常に恵まれた国ですけど、それをないがしろにしてプールを作るんですかと。しかもあんな死んだ水で泳がせるんですかと。今、学校の先生で優れた先生は海水パンツで泳がせませんよ。服を着たまま放り込むんですから。そうしないと生きる力なんてつくはずがないんですよ。私はできれば将来は今まで滞ってなくなった流水、河川を取り戻して、夏場そこで子どもたちが水浴びをするという姿こそ大都市の中で生み出したい。これは全体に役所だけで出来ないんですよね。地域で暮らす人たちが自分たちの中にある自然とどうやってお付き合いするということなしには出来ないことだと思います。私の感じ方でいうと地域というのはそうだと思っています。
「教養人」ではなく、「今日、用のある人」
あとは、今日のテーマを話さなくてはいけないですね、大急ぎですけど。
私はもともと東京大学にいたんですけど、最近「教養」の意味が変わってきたんですって。当て字で現在では「今日」「用」がある人って読み替えるんですって。言葉遊びなんですけど面白いんです。
皆さん方は今日、用があったんですね。ここに来てるでしょ。いつも毎日、どこかで最低20分以上は玄関から外に出る用がある。用があるときにほっつき歩くのもいいですけど、必ず誰かと顔を合わす。そのときに出来れば馴染みでそういうほっとする場所がある方が行きやすいです。そこにいくと、なんかちょっとした用事がある。そういうのを「今日、用」っていうんですって。皆さん方は今日用があってここに来ているので、全員「教養人」です。朝起きたときに今日も何も用がないって寂しいですよ。いやー、今日も忙しいんだっていう方が嬉しいですよ。
人間は心のどこかで他の人の用に立つと思ってもらえるだけで生きられるんですよね。お前なんか用済みだと言われると切ないですね。僕らの場合は研究者ですから、外に出ないでコツコツと文章を書くという自分自身に用事があります。さて、この用があって出ていく、出て行き方について、少し短い時間にまとめて話したいと思います。
横につながる
突然また話題が変わりまして、今日のテーマを「横につなぐ」がいいとしましたが、私の意図がどこにあったかと言うと「横」なんですね。横をあえて私が選んだ理由があります。それは私が行政学をやっているのもあって、圧倒的に日本の社会のことの運び方は、人と人の関係の結びつきかたが上司と部下、上下関係で物事を含んでいっている。この方が大きなことがやりやすい。
縦で人間をつなげる。典型的は役所です。役所は必ず上司と部下がいるんです。民間も基本的にそうです。そうやって大仕事をやるやり方です。これは組織論的に言うと、縦で人間をつないでいって指令統制することがすっといって従うというやり方のほうが効率がいいんだっていうことが経験として分かっています。なので、一般的なものごとのやり方は縦でつながるやり方をとっています。
ところで、縦でそうやってことを成しているんですけれども、縦という漢字はあまり悪い用法はないんですよ。縦に関して、皆がマイナスイメージにしているのは縦割りぐらいですよ。縦割りの弊害として、大切なことが無視されたりするんですよ。組織が大きくなったら縦割りをするしかありませんで、縦割り自身が組織論的に悪いわけではないんです。縦という感じで悪い字はあまりないんですよ。探してみたんですけど。
ところが、これと比べて圧倒的に横は悪いんです。私はこれは大発見したと思ったんです。この話を日本史の先生のいる教授会の前で言ったんですよ。大森さん、日本史をちゃんと勉強しなかったでしょと。しなかったなぁと。大学の入試というのはドリルで訓練ですから。年表を暗記しただけだったなぁと。それで、日本史の先生が言ったところによると、横という字が悪いのは、江戸時代、幕藩体制の時代からあったでしょうと。
日本人は意外と明治革命のころは大好きなんですよ。繰り返し繰り返し小説にも書かれ映画になっているんですけれども、ちょうど幕藩体制が緩んで、国際社会の波が足音高くやってきていて、それに気づいていた人間が出てきて、特に武士たちが気がつくんですね。ほとんど農民と武士たちは気がつくんですね。その人たちが何をやり始めたというと。
その当時の幕藩体制は二通りの移動を禁止していたんです。垂直的に移動するやつと水平的に移動するやつです。水平移動というのは、空間を利用することです。垂直移動というのは、身分を上げるということです。したがって、幕藩大戦のときは、まず垂直移動はほとんどなかったです。士農工商で身分の地位は確実に固定されていました。お殿様が一番偉いんです。だから、縦に水平的に人間が動くことはないです。水平的にどうだというと、結構日本人は水平上に動いているんですが建前としては自分の藩から出ていけないことになっていました。水平的にも特段に許可なしでは動けないということになっていましたから。垂直水平同時に日本の移動は禁止されていた。非常に不便だった。
実は草創の武士たちはこの二つを破っていく。破っていきましたので藩から外に出て行った。出ていたったらまた出てくるへんなやつがいて、会っちゃうんですね。会うとおしゃべりするでしょ。それが当時あのほとんど無能に近かった幕府と呼ばれる中央政府でさえも気が付いた。こんなことをやっていたら、垂直水平の固定してきた日本の社会は崩れると。こりゃあ取り締まるべきだということで、どういうお触れを出したかというと「横議横行の禁」を出している。自由勝手におしゃべりをするのがまかりならない。自由勝手に歩きまわってはならない。この二つを込めて禁令を出すんです。したがって、これを破って逮捕されれば打ち首です。この横議横行の禁を命をかけて命を落として出て行って、新しい時代を切り開いたのが明治革命だったです。
このときに草創の武士たちの行動を動機付けたのはなんだったか。彼らは平気で横議横行をやったんです。横につながる、横に出ていくんですね。横に出て行くためには志がないと駄目でした。明らかに。このままでは日本は駄目になる。なんとかして自分達で社会を変えたいという大きな志を持ちました。しかも行動力をもって打ち出していきましたから。したがって、彼らが何で結びついたかというと、志を持っているかどうか。志が高いか、命をかけられるかと。それで結びついた。可能になったんです。
こうなって新しい社会が開かれました。開かれてひゅーと横に結びつくような、人々の行動は収束してきます。したがって、それがどこに現れたかというと、横につく漢字が全部悪いということになりました。言葉というのは、もともと人々の感じ方とか考え方の下付構造みたいなもので、どういう言葉によって社会を自己認識しているか、どういう言葉によって会話しているかということを調べていくとその社会の特性は分かる。
この場合は1つの例にすぎませんが、横という感じを調べるとみんな悪い。
横暴な人、横着な人、横車を押す、横道にそれる、ただの横好き、横恋慕。
横でつなぐような言葉は皆悪いということは、全体としては、横は奨励されていない。
少し誇張して言うと。
したがって、今日の私の演題は、奨励されていないことを奨励しに来ているんですよ。これは明らかに不届きな人間ですよ。縦の秩序で上手いことやっている人間はこの演題を絶対付けません。明らかですからね。私はどうして平気に言えるか。日本の社会は少しずつ、従来の縦の秩序関係では上手くいかないことが分かり始めて、人を横につないでいくといって今まで封じ込められた意欲や力が発揮されることに気が付き始めている。これが大事。
協働
したがって、ある程度までそのことがいえる。典型的な言葉の用語は「協働」です。あれは人間を横につなぐ基本的な原理なんです。愛知県の豊田市とお付き合いしているんですけれども、あそこは同じ協働でも「共働」と言っています。それから、臼杵市は「響働」と言っています。感じも増やしているんですけれども。基本は協働です。これは活動主体が複数あって、共通に何かを実現したいというときに、対等であるということが前提なんです。対等である、対等者が協力して事を成そうとしている。一般的にこれは上手くいくかどうかを試されていない。なぜならば、対等者が横につながって事を成すには、縦につながるよりはるかに大変です。横同士を対等に認める。どちらがえらいのではなく、お互い様の持っている良さを認め合いながら協力し合うわけですから、いろんなことを相談、協議しないと成り立ちません。
自分達の目指しているものは何なのかということを、言葉をかわして協議して、それならこれでいこうということを言わないといけません。協議というのは、もともとからして対等社会で結びつく原理なんです。協議しないといけませんから手間隙がかかります。しかし、これで何が可能かというと上から下まで命令して従うときに封じ込められている人々の様々な可能性が、協議というプロセスを通じて出てきやすい。今まで隠されていて、自分でも気が付かなかったような良さや発想が出てくるという意味です。だから、人間の持っている能力の様々な可能性が開かれる。そういうチャンスがこのやり方によって出てくる可能性が十分にある。
グランドプラザは、協働によって実現された。
私がこのグランドプラザに着目したのは、早くこれまでの今までのケースを本にしないと「俺が書くぞ」と言っているんですよ。このグランドプラザを書いたら売れるんですから。これ以上待っていると新聞社が書いてしまいますよ。私はいろいろな地域を歩いていて、協働という事業はあまり成り立っていないんです。市役所の人と民間の人たちが上手に自分達がどういうふうに街を見ていて、どうすれば人々の賑わいが作れるか。どういう仕組みでやればいいか。どうやってネットワークをつくっていったらいいかに気が付いたんです。それは役所の人が出てこなければ出来なかった。これは民間と行政の協働ですよ。こんなに上手くいったケースはあまりないんですよ。
私みたいなよそ者がここに来る理由は、皆さん方がここにくる理由は、この試みの中にやっと、長い間私どもがある程度この閉塞社会の中で探し求めていた協働の実例がここにあるからなんですよ。日本で最初に協働とはこう成り立っていて、具体的ケースがあって、この要素はこうなって、これを理論化すればこうなると書くと私が最初の人間になれるでしょう。狙っているんです。それくらい協働は大変なんです。どこかでこういう社会みたいなものを作っていったらどうかなということを進めて参りました。
地域主権
それで、実は今日、もう1つお話しなければならないことが、地域のことですけど。民主党政権が地域主権と言ってしまったでしょう。地域主権改革までいったんですけど、途中で自民党が少しはなびいたんですけど結局は駄目で、地域主権、地域主権改革は法律の言葉になりませんでした。なぜなら、日本国憲法違反なんです。したがって、法律用語になりませんでしたから、失敗したんです。
普通の人は地域主権という言葉から二通りの解釈が成り立つんです。
1つは、日本列島のどこかに地域を設定して、過去のある時期を想定して、その地域に主権らしきものがあった。ところが、誰かがこの主権を奪ってしまったから、主権を回復しようと読める。そのような歴史はありません。したがって、これは成り立ちません。もう1つの解釈は、これからです。どこかに地域を設定して、その地域に主権を与えようと読めるでしょう。その地域に主権を与えるのだから、そうとう大きい地域になるでしょう?たぶんこの魂胆はどこにあるかというと、今の都道府県のような地域にはならない。都道府県を全部廃止して、もっと大きな第二の地域を設定して、そこに主権を与えようということになるでしょう。道州制になるんです、これは。
民主党の今の相当の人たちは道州制の人たちは道州制論者たちですよ。自民党にも相当いますけど。大阪の橋本徹だけではないんですよ。あれはもともと大きな地域をつくって、主権らしきものを与えようという魂胆なんです。ただし、これは民主党の名誉のためですけど、この言葉遣いは駄目でしたけれども、民主党の言っている地域主権と地域主権改革の内容はそんなに間違ったことを言っていないんです。
ちょっと硬い話しで恐縮ですが、民主党の言っている地域主権、地域主権改革とは、人々の身近な行政というものは自治体、都道府県、市町村ですけども、地方公共団体が出来るだけ自主的に総合的に取り組むことができるような体制に変えていきたい。国が何から何まで決めないで、地域によって違うんだから、そこはある程度ものを考えて責任を取るような仕組みに変えたい。正しい。もう1つ言ったんです。いろんなところに地域があって、人々が暮らしている。その住民の判断と責任において、地域の諸課題に住民が取り組むことができるように変えていこうと言っているんです。第一の当事者はそこに暮らしている住民なんですから、住民が何が大事か。自分達で何ができるか、どうしたいかということについて、自分達でちゃんと相談した上で、これをやりたいとなれば、出来ればそれを邪魔しないで出来るようにいろんな状況を整備すること。こういうことを言っているんです。
自助、互助、共助、公助
正しい。内容的には間違っていない。しかし、言葉遣いを間違ったんですね。ということは、今日のテーマで言うと、後者の側、地域の住民がその判断と責任において、出来るだけ地域の諸課題に取り組むことが出来るようにする。そのように変えていくことだとしていますから、そうなるとどうなるかというと、地域の単位をどうとるかになります。日本の地域の最小単位は農山村でいうと集落です。都市でいうと基本的に町内会の単位です。これが活動単位の基本になっています。あとは、様々なグループがそこに関わりあいながらいろいろな活動をしています。日本の地域の実態はこれです。そういう地域のことを前提にしますと、社会の一番小さな基本体は個人と家族ですね、そうするとそこから出発すると次のような議論になります。
地域についての考え方として、個人や家族が出来ること、したいことはやり抜く。これが原則です。自助と読んでいます。どんな社会でも個人や家族でやれることはやり抜く。これを外すと社会は不健全になるんです。しかし、これだけ言うと、社会はすごく冷たい社会になるんです。個人や家族がどんなに頑張ろうとしても無理なことはあるでしょう。高齢者の一人で暮らしている人は無理なんです。無理な段階で何が生まれているかというと、ニーズが生まれている。必要性が起こっている。その必要性が起こっているときに、誰がその必要性を支援できるかということなんです。
個人や家族の一番近くにいる存在というのは、友人、知人、近隣でしょう。この人たちがささやかな手を差し伸べることによって、個人や家族が直面しているあるニーズが満たされる。それは互助になる。次は何が控えているかというと、社会の仕組みとして様々な人たちが協力し合いながら、そこを越えて出てくるニーズに応えていこうとする。これが共助になる、と思います。それでもなおかつ出来ないことを公助する。これが社会を構成する基本的な発想なんです。少なくとも私はそう見ています。
その反対に最初から人に依存するようなやり方はよくないと思っています。私は72歳を越えましたので、だんだん心身が衰えてきますけれども、私は社会の施設はあんまり罵詈やフリーにしない方がいいと思っているんですよ。バリヤフリーにすると持っている力を失うんですよ。あんまり年寄りをお世話すると駄目になる。少々意地悪なくらいが親切なんですよ。そうすると本人の能力は持続できるんですよ。楽すると人間の能力は必ず落ちてしまう。
僕は何が困難かというと、足の指の爪を切ることなんです。苦痛なんです。爪が切りにくい。そうなると女房に言うと、なんで時間をかけたらできるのに、私が切らなければならないのって。不親切だというと、貴方が自分で切れるうちは切りなさいと。正しいね。彼女は私に不親切であるんじゃない。人間はちょっと甘えてちょっと楽をしようとすると自分の力は衰えてくるんですよ。年寄りをそうしてはいけない。年寄りは鞭で打つんですよ。まだ出来るでしょう、と。
私がこれをどこで学んだかというと、私が最初に一人で旅をしたのはデンマークなんです。福祉施設を見て回ったんですけど、向こうは施設に入っていても車を借りてピクニックみたいに外に出ていくんです。早朝私が行ったら、おじいちゃんおばあちゃんが杖を使ってバスに乗る。そこで、僕の眼の前で杖を落としてしまったんですよ。僕は気配りの大森で有名なんですよ。すぐ気がつくの。その杖を拾おうとしたら大きな声で拾うなと怒鳴られたんです。みんながじっと、ゆったりと見ているんです。これだと思いましたね。おせっかいが悪いと。
気が付くとすぐおせっかいをやきたいでしょう。私が杖を拾ったら、その人は杖を拾う能力を失ってしまう。人間は死ぬまで能力は伸び続けるということになります。地域はそうやって、基本的に言えば、個人や家族を単位にしながら、しかしどうしても無理なことは手を差し伸べるような、そういう社会をつくっていきたい。やっぱり日常の普通の暮らしのなかで互助の仕組みが大切だと思うんです。
どこに行っても、私が地域の様々な小さい試みを調べているんですけど、ほとんどがこの互助の世界で成り立っているんです。例えば、最近、街なかにコミュニティカフェって増えてるでしょう。居場所って。そういうちょっとお昼時にご飯、コーヒーを出せる。介護保険のデイケアまで行かなくてもいいんだけど、そこに行くと誰かがいておしゃべりができる。ということは、そんなに大掛かりなものではなくて、しかし、日常の生活の中で人に支えられて生きているんだと分かるような装置が街の中にたくさんあることが大切なんです。でっかい立派な施設をつくることはない。空き屋をちょっとお貸し頂いて、そこのコミュニティカフェにちょっと関わるだけでいい。出来れば様々な方がそこに来れるほうがいい。そこで出会った人、出会う人の中でいろんなものをお互いに分け合うことになるからです。
まとめ
今日は締めをどうするかということを悩んできたんですが、今年100歳になった柴田トヨさんというおばあちゃんの詩人がいるでしょう。「くじけないで」という詩集でミリオンセラーになったんですけれども。この詩集のなかで「貯金」という詩があるんです。私が三陸に行ったときに避難所の中にこの詩が書いて飾ってあるんですよ。あそこの被災者の人たちの気持ちの1つだと思うので紹介します。これが、本当に地域を地域たらしめている本質ではないかと思います。
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「貯金」
私ね 人から やさしさを貰ったら 心に貯金しておくの
さびしくなった時は それを引き出して 元気になる
あなたも 今から積んでおきなさい
年金より いいわよ
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年金も大事です。しかし、人は年金だけでは生きられない。人が人としてお互いに分かち合うような優しさが、しかも、その貯金が人を生かしている。これは明らかに人との結びつきの中から生まれてくるものです。100歳になった柴田トヨさんは見事にこの詩を普通の言葉として表します。
皆さん方が地域と関わったときに、この優しさをどのくらい貯金できるか。他の人の心にどのくらい貯金をすることを可能にしたか。そのことが地域を地域足らしめている、一番大事なことなのではないか。そうやって人が横につながっていく。それが今日、私が話したかったことです。
ありがとうございました。
<質疑応答>
関係のないことでもいいので、という大森先生からの提案
Q1. 関係ないこと…、先生は奥さんを愛してらっしゃるんですか?
A1. 難しいことですけど、愛とか恋とかは人間の心の変化ですよね。それでもし私が古女房を愛しているとするとどういうことになるかって、他人事のように考えると次のようになります。日本の言葉の中に「痘痕も靨(あばたもえくぼ)」というのがあります。第三者が見るとその人は痘痕に見える。それは客観的に突き放して観察するからです。ところが、愛とか恋とかが入ると、痘痕がえくぼに見える。片一方がAさん、もう片一方をBさんとすると、Bさんの方も違った意味でAさんが痘痕のえくぼに見える。双方向になると不思議なことに一緒に暮らしたいとなるんです。
そうなるとどういう手立てが考えられるかというと、一回痘痕のえくぼに見えたら絶対に一緒になったあとは、その相手を客観的に突き放して分析してはならない。普通子どもをつくったら子どもを観察の対象にしてはいけないでしょう。丸ごと抱えなくてはならない。子どもというのは、分析の対象にしてはいけない。したがって上手くいかない人はどうなるかというと、一緒になるでしょ。そのときに痘痕のえくぼに見えてたものが、実は痘痕だったということに気が付いてしまう。こんな人ではなかった。そうなるとどうしてこの人と一緒にいなければいけないかが分からなくなってしまう。だから、結婚という決心はずっとえくぼだと固く信じて疑ってはならないんです。もうそれが愛だと思います。
したがって、私が思う愛とは、誤解です。ただし、誤解ですけれども、出会って結ばれるときにはたくさんの言葉をはいているんです。一般的に男性はすぐ忘れるんですけれども、どういうわけか女性はよく覚えているんですよ。女性と男性の大きな違いが二つあって、そういうときの記憶は抜群に覚えている。一様に自分が見聞きしたことを実況放送のように話す能力が女性にはある。電話口で聞いていると、どうして逐一しゃべれるのというくらい話す。違う能力であると思います。再生能力。愛は誤解で、たぶん幻想に近いんですけど、それ以外には一緒に暮らせないんでしょうか。一般的に僕らが社会学者から習った「どうして人間が結婚するか」というのは3つしかないんですね。政権の共有と性の共有と愛の共有です。女性たちが政権と性について自立したら、後に残っているのは愛だけです。危ないんですよ。愛だけで人間が結ばれるなんてよほどのことでしょう。もともと愛は相当怪しいものです。だから、それ以外で補強して、あたかもそれが愛の結果だと思わないと維持できないだけなんでしょう。
ただし、貴方が質問されて、私がここで答えていますけれども、ここに私の女房がいたらこんな答えは出来ませんから。日ごろからそう思っているんですか、と。本当は違う。客観的に説明しているだけですと言わざるを得ない。ついでですけれども、私は女房に寝る前に、女房に「今日も一日ありがとさんでした。明日もよろしくね」と言って寝るんです。僕は必ず言っているんですけれども、女房は言わないんですよ。そういうと女房は「この口先男め」と。愛は口先なんですよ。それを繰り返していくということ。したがって、家庭のことが生計を共にしている共同体、愛の共同体と言うでしょう。愛に結ばれる共同体です。この共同体は相当危なくてもろい。誤解したら誤解し続ける。この人は私のかけがえのない人。この人を失ったら、私は生きている理由がなくなるんだと思い続けたら、たぶんそれは愛に近い。そういう感じです。答えではなく、僕の感じです。
Q2. 先生は富山の魅力をどういうふうにお感じになってらっしゃるか、その裏づけ、根拠のようなものはありますか。
A2. 私はわけあって今の知事さんと2年間行政改革を手伝ったんですよ。手伝って、駅前に泊まって、夜酒を飲みに行って、あとはちょっと出先機関の再配置の件でちょっといろいろ回らせてもらったりしたくらいですから、そんなに大きなことをしているわけではないですけれど。圧倒的に私が富山を思うのは、富山湾です。富山の食材です。じゃないかと思いますけれども。すぐにそういうことが思い浮かびます。後は、市について言うと、ここはコンパクトシティと呼ばれているんですけれども、コンパクトシティなのかというのはちゃんと歩いて実感していないのでまだ言えません。そういうふうに言われたときに、正直に申し上げますと、他になくて富山にしかないというものを聞かれると困ってしまう。富山という土地が育んでいる様々な物産と、それを大切に扱ってきたこの土地の人たちの関係以外にないと思うのですけれど。それがいったい何であるかはよくわかりません。
Q3. 互助と共助と公助の話がありましたけれど、その中ですっかり公助になっているものを互助に戻す、持っていくためにはどのようなやり方がありますか。
A3. いろんなやり方があると思いますが、一つは愛知県の高浜市で、市役所のやっている仕事のうち、この仕事は市役所でやらないでも済むような仕事を民間に、住民の方に提供している。民間の側で株式会社をつくってやれるものはそれでやった方がいいんじゃないですかというやり方があります。一つは従来やってきた自治体の事業を洗いざらい調べあげた上で一覧表を作りまして、このうち、住民、民間ができることはどうぞと言い出して、申し出るやり方があります。一般的に事業を公募している。したがって、その仕事は役所ではなく民間がやってもいいのですがお金がかかりますので、何らかの形でその分に必要な経費は出します。その場合は、共助のようなスタイルに変わるんじゃないでしょうか。
その対象となるのはあまり限定せずに、一般的に開かれていた上で不特定多数の人を前提としながら事業をやりますから、その事業は民間がやっても公共性を帯びることになりますので。結構それはいろんな自治体が取り組み初めています。無理やりにやれとなると困る。押し付けになると困りますから。住民の方で選択できるようなやり方を取らないといけないと思います。その場合はある程度、どこかで契約をする必要がありますので、単なる任意団体だとなかなか難しいですね。どうしても権利をもつような法人格をもって、一定の収益事業までやっていいと公共的な仕事ができるのは例えばNPOなどは、典型的な法人ですから、そういうものをつくって頂けるとやりやすくなる。大っぴらに出しにくいですから、公共的な仕事を民間がやれるということを前提として。例えばそういうことが思い付きます。
あとは、住民や皆さん方がやりたいことをおやりになっても全然構いませんので、役所がやってきたことを引き取るためには、どこかでそれはニーズが必要ですからね。ニーズを放置しないということが前提ですから、そのニーズに応える主体を変える。その変え方に工夫が必要だと思います。
質問者:財源のようなものは、結局は変わらないんですか?
財源も実はいろいろ工夫があるんです。一番大きな話をすると、皆さん方が市町村にお暮らしになっていて、市町村の次は都道府県に暮らしているんです。基本的に地方税というのは所得にかけてます。それ以外に、住民税の均等割りというのがある。同じ額ですべて税金を納めてもらっています。現在、住民税の均等割りは4000円になっています。4000円のうち、1000円は県庁に行き、残りの3000円は市町村に入ります。この均等割りという税は、ある人がこの地域に暮らすための付き合い税に近いです。したがって、住民税の均等割りの部分は地域で使ってしかるべきです。意外と自治体はそれを誤魔化している。もう少し言うと、それを越えて補助金で出している可能性もある。しかし、私はそれを基本的な税だと思っているので、その税で地域に還元して、地域に活動できる資金源になる。どうしても足りなくなったら、自分たちでその住民税の均等割りについて、あと500円上乗せして住民税にしても構わない。これが、もともと基本的なやり方です。しかし、これは税の話になりますから、結構難しいんです。
あとは、一般的に住民の団体から事業のアイデアが出てきたら、それは全体に公募します。公募してそこをお願いするか、競争的にみんなの前で説明してもらいます。それで限定して投票してもらい雇われます。一種の公募制をもっていますので、そういうやり方をすればフェアになりますから、いろいろ工夫の余地があっていいのではないかと思います。
もう少し小さいレベルで言うと、福井県の若狭町というところと付き合っていますけれど、ここは二つの町が合併してなかなか文化が合わないんですよ。地域の中に小学校単位のまちづくりの協議会をつくるんですよ。800人しかいないところなんですけど、全部で6件の一人暮らしのお宅があって、毎日小さい旗を玄関先に出して夕方それを下ろすということをやっています。近所の人が見ていて、今日は旗が出てないと見回りする、お訪ねするプログラムがあるんですね。実はそうやると誰に狙われるかというと、そのお宅は明らかに一人暮らしとばれて危ないでしょう。それでその地域のお宅に全員やってもらっているんですよ。そのことによって6件の一人暮らしの方を孤立化させないようなやり方をとっています。そのときに、旗をつくるのにお金がかかっていて、当初は役所の方で20万くらいは補助するとしましたが、その地域は出来ればその程度のお金なんであれば自分たちで稼ぎ出したいとしているんですよ。コミュニティカフェみたいなのをつくって、収益を上げたいと。どこかで補助金に頼らないで、自分たちの手で出来る範囲のことをやれるような資金を自分たちの手でつくり出す必要がこれからはあると思っています。そのためにも、地域まるごとNPOになってしまう。コミュニティ型のNPOを作って、そうすると皆さん会費を払うでしょう。それによって収益事業をやって、次の事業に当てたらいいでしょう。非営利というのは収益事業はやってはいけないということではないので、収益事業をやって、少なくとも最低自分たちの運営にかかる費用は自分たちで捻出するという試みがあってもいいのではないかと思っています。そういう例を調べています。鹿児島のやねだんは典型的ですけれども。いろんな新しい活動が展開できますけれども、そのためには最低自分たちでなんとかして経費を捻出していくことが大切ではないかと思いますけれども。