お知らせ
「横浜市の都市づくりと都市デザイン活動」(まちセミ講演録:国吉直行)一挙掲載
2013/02/24 平成24年度まちづくりセミナー第1回
平成24年12月8日
「横浜市の都市づくりと都市デザイン活動」
横浜市立大国際総合科学部ヨコハマ企業戦略コース特別契約教授
前・横浜市都市整備局上席調査役エグゼクティブアーバンデザイナー
国吉直行
1)元横浜市長中田氏より国吉先生のご紹介
・横浜に都市デザインを定着させたのが国吉さんであり、横浜には様々な都市デザイン的な問題乗り越えてきた歴史がある。
・例えば崖地での地下室マンション問題。地下室マンションとは、崖地だからできる地上3階地下6階等の一部の階を地下室だと言い張るマンションのこと。地下室だと言い張ることで、地下室部分が容積率や建蔽率で特典があり、結果としてはマンションの1戸あたりの値段が安くなる。このことに建設業者が目をつけて横浜の傾斜地に乱立させ景観を乱した時代があった。
・旧富士銀行横浜支店問題。この銀行は横浜を開港したときの最初の銀行であり、この銀行建築は立派な建歴史的な建築であった。この建築物を横浜市は保存することを決めていたのだがその後の活用策が進まず放置されていたという問題があった。このままだと建物が死んでしまうので、その利活用を国吉さんに考えていただいた。
・私が思うに、本当はもっとそれぞれの地域が自分たちの街を自分たちで都市デザインしていくっていう、政治的に言ったら、自分たちはこういうまちづくりをしていくと権限を持った方がいい。日本の場合、全部、国が持っている。という中で、地方はある意味、創意工夫に今は終始しているという状態。それでもやる気のあるところとやる気のないところでは大いに差がでていて、例えば京都は古都を守ろうということでコンビニの看板までもある意味では規制をしている所もある。
・ある意味、合意形成の中で民間はそのカルチャーの中でやっているのだから、地域としてお願いベースで、景観をデザインしていくことが重要だ。
・横浜は横浜で、今でも横浜はきれいな街だということで、特に中国や韓国などから視察にきていただけるような街になっています。それは都市デザイン室上席調査役エクゼクティブアーバンデザイナーとして国吉直行さんが都市デザインをやってきてくれた結果である。
・国吉さんには定年後も残っていただいて活躍していただいた。今は大学で教鞭をとっていただいている。
2)国吉先生の講演
①はじめに
・今日は横浜の都市づくりの40年にわたる内容についてやらせていただきたいと思う。ただ都市デザインというのを語ると色々な視点で語れますし、前にも色々なところでしゃっべてはいますが、完璧に全部はしゃべることはできませんので、今日なりの論点に絞っていきたいと思う。
・40年ほど前は、横浜はイメージは良さそうだけれども、きたない街だといわれていた時代もあり、それを整えてきた。
・40年やってきたが、私としては当初3年くらい横浜市役所に潜り込んでみようと思っていた。というのは、私は建築関係の仕事をして、将来、建築事務所をやる予定だった。
・しかしいろんな有名な建築家が建築物をつくっていても、その建築家の作品は街にあるが、街としての特徴作りには何の役にも立っていないのではないか。自分の作品をばらまかれるだけというのと、それと失われた日本の街の固有のイメージをつくるというのはちょっと違うのではないかと考えました。そして建築家が一番に勉強しなければならないのは街のことだということで、横浜市役所に潜り込ましていただこうというのがきっかけでした。
・私は逆に役人には似合わない人間ですので、3年くらいでやめさせていただこうというつもりでいたのですが、結局、街のデザインを考える仕事が面白くなって、40年たってしまった。当初40年やるなんて計画はまったくしていない。だからあっという間の40年だった。その40年という中でのプロセスをいくつかお見せしたいと思う。
②歴史と未来が共存する街
・歴史と未来の共存する街ということで、未来的な街並みもあれば、過去をしょって赤レンガ倉庫が見える。こういうような街を目指しているんだということをアピールしている。
・富山がコンパクトシティとかライトレールがある街というように、わかりやすい売り物があれば街というのはわかりやすいですから、そういうことで未来と歴史の共存する街へと言っているわけです。
③横浜の臨海部での景観づくりの現状(最近の話題)
・横浜は歴史建造(物群保存地区)ということで、高さを45m以下というゾーンにして赤レンガ倉庫をずっと保存している。一方、みなとみらいの中央地区は比較的白っぽい、新しいビル群が建っている。この2つの地区は色彩的にも感覚的にも、一方は現代的あるいは未来的で、一方は歴史的資産に調和して重々しいという感じで地区の対比を思いっ切り付けている。
・これは横浜を大事にする市民の想いと呼応して、こういうイメージづくりができている。東京と同じになっちゃ嫌なんだ。横浜は横浜としての独自のものを作って、それで街として発展していきたい。東京は違う形で発展するのではなく、違うやり方で発展することが、横浜らしいのではないか。
・そういう流れの中で最近、歴史的建造物、例えばキング・クイーン・ジャックという震災前からの塔で、現在も重要文化財として残っているが、こういう歴史を生かしたまちづくりという話をしていた中で、とんでもないものが出てきた。
・この話は計画ガイドラインを作る前の話なんですが、歴史的建造物が横浜にはたくさん残っているのですが、(ある業者が計画した歴史的建築物風建物のスライドをみせて)こういう建物をつくることで歴史を生かしたまちづくりをやっていますと。
・これは歴史を生かしたまちづくりではない。模倣だ、コピーだと。歴史を生かすことと、歴史を模倣することは全く違うことで、横浜の場合は単なる安っぽいコピーはしないと。
・この問題以降、景観ガイドラインで市が意見するようになった。
・ある宗教団体なんかも全国的にすごい建物を建てており、横浜の山下町地区にもできた。この例はなんとか、景観協議地区に入っていたので、この程度で抑えられた。
・最初はすごい形のものが出てきた。様式主義というものとデザインのことをどこで線引きするかというのは大変難しくて、だけれども、横浜の歴史を踏まえていないということは確かですね。
・最近、全国に展開する大手のブライダルチェーンが横浜の赤レンガ倉庫近くに結婚式場をつくるということで計画を出してきた。高さ45m。しかし、新港地区というのは赤レンガ倉庫を大事にしていて、ほかの計画でも赤レンガとの対比などをやっている。
・カップヌードルミュージアムも初めはカップヌードルの形にしたいと言ってきたんですが、協議の結果、非常にシンプルなものになった。
・温泉施設も、最初は提灯のような形をしていた和風のテイストだった。これが出てきたときに、初め、湾局がこれを受け入れてしまったんですね。そしたら当時の中田市長がみて、なんでこんなものが許されるんだと。ガイドラインに合っていないじゃないか、おまえら喧嘩してこい!ということで。企業としてきていただくことと、横浜のルールに則ってやっていただくことは違うから喧嘩してこい!ということで。関係企業に私と他の専門家とで行きまして、和風テイストはやめてもらうということで、割とシンプルな形にしてもらったということもあった。
・という流れの中で先ほどの結婚式場の話が出てきた。
・このような問題が生じた場合、31m以上の建物については横浜では都市美対策審議会というところにかけ審議し協議する。現在では私も大学の先生ということで委員となっている。
・都市美対策審議会は景観法の下で、景観法を取り入れた条例に基づく協議にしようと、その時に、その審議をできるだけ公開でやろうと、イギリスなんかでデザインレビュー制度もありますが、とにかく専門家だけが議論するだけじゃなくて、それを聴衆の前で議論しようと、あるいは出た内容を全て議事録として公開しようという制度にしている。
・横浜市の都市再生などをPCで検索しますと都市美対策審議会議事録が出ていまして、議論の内容も全て出ている。
・その中でやはり、この結婚式場の計画はとんでもない計画だと、公開されている事業主から出されたデータでみてもヨーロッパのお城風、教会風の建物群がありまして、4つの結婚式を平行にできるという計画書があり、その中に歴史の継承という内容がありまして、歴史文化マインドの継承ということで横浜の赤レンガ倉庫の昔の写真なんかを載せている。これは継承ではないでしょう、あなたの会社のテイストを展開しているだけでしょう、直してほしいと強く言ったわけですね。
・こんなのはとんでもない、変えてくださいと言ったところ、先方は高さを31mに下げる審議の範囲から取り下げるよう変更してきた。これはもう報告事項だから審議じゃないと。しかし一旦審議されたものは、変えてもらわなければ困りますよということで、その後も議論を進めた。
・どうもこの会社は南仏風のものが好きだと。しかし周辺は汽車道という魅力的なプロムナードから赤レンガ倉庫へと繋がる場所であり、赤レンガ倉庫を中心に横浜の歴史的なイメージをつくってきたのに、この建物が代表するような形になったら、お台場の雰囲気と変わらないじゃないかと。この建物がこの地区の景観を代表するような建物になってしまっては非常によくないという話になった。
・先方より計画が提出され平成23年11月にこれではだめだという回答を市がし、平成24年3月に31mに下げた計画を先方が提出してきました。それでもダメと言われたのですが最終的には協議不調ということで終えた。
・一方この建物を計画する場所の一部は、横浜市の港湾局が所有する土地でしたので、市の審議会が反対している建物に、市は土地を貸すのかという批判も出ました。
・さらに市民主体のシンポジウムも開かれ、市民の側も批判をしていると。それで結局、決裂のまま港湾局は土地を貸しておらず、議論は煮詰まってしまった。
・このままではいけないということで、平成24年6月に私からお話をしに行きました。そして一番フェイクだといわれているこの塔(天守閣)をガラス張りにするとか、そういう物真似をやめる形にしてもらえませんかと、それに合わせて全体のテイストを変えていただくと。この計画全体を否定するということは企業活動を批判することになるのでそれはしない。その結果、ガラス張りになることで決着して、工事に着手する形になった。
・今までに様々な事業者と協議し、ご協力をいただきながら形作ってきた街において、自分だけが目立とうという形での建築活動が行われるということについては、今回のように審議会でも反対意見が出て、市民の中でもその反対意見に同意する意見が出て、それを無視することはできないという機運が生まれ、開発業者さんにも譲歩をいただくことができたという流れになった。そんなことが最近の話としてあった。
④横浜の臨海部での景観づくりの歴史
・横浜の歴史を踏まえると、開港の町であり、小さな村だったものが少しづつ大きくなり70万都市となったという都市の歴史というものがあり、洋館の建設や関東大震災の影響や、大戦での戦火そして米軍の接収があった。
・ほかの都市が戦災復興をやっている時、米軍の接収を受けていた横浜は停滞してしまっていたと。そういう中で郊外の人口増加があって、それで宅地開発が進むと。その中で1960年代に都市問題が噴出してきて、住宅地の乱開発や都心部活動の停滞といった問題が生じ、新しい都市づくりに着手するということになった。その時に、横浜は東京の単なる衛星都市として、ベッドタウンになるのではなく、自立した都市にしていこうということをスローガンに色々な工夫をしていく。そのために色々なプロジェクトを立ち上げ、組み合わせて進めていった。
・中心部にあった造船場や鉄道ヤードを移転していただいて、ここを新しい中心市街地にしていく。また同時に米軍に占領されていた土地についてもその歴史ある地区を元気にしていく。ニュータウンの整備や、工業地帯の移転先の埋め立て造成プロジェクトなどの儲けで、中心市街地のプロジェクトを進めていく。横浜の自治体としての活力を生むということをやっていた。だから鉄道や高速道路の計画、ベイブリッジもあった。
・さらにコントロールという手段もあり、全体が開発されるのではなく、その一部はなんだか緑が維持されるようおさえておこうと、これは地主の反対意見も押し切りながら1/4を市街化調整区域としていった。
・そして合わせて、都市のデザイン、横浜の個性をつくっていこうと、東京にはない魅力的なことをやろうということで、アメリカなどで考えられていたアーバンデザインという手法を取り入れていった。
・そのころの横浜のまちづくりを見い出したのが田村明さんという人で、当時の革新的な市長のもとでスカウトされた民間プランナーの方でした。そのもとで新しいまちづくり組織、都市デザインチームができ、中心だった岩崎さんや北澤先生という東大の先生などが入り、まちづくりをはじめた。
・みなとみらいに発展するように、バラバラな都心部をまとめて、1つの大きな都心をつくろうというような考え方とかですね、関内地区も軸をつくって元気にしていこうとか、緑の軸をつくっていこうとか、色々なコンセプトを打ち出した。
・そういう中で高速道路の計画が持ち上がった。国の計画では横浜の中心部を高架でつくる計画となっていたわけですが、高架だと横浜が分断されるので地方自治体として国に変更のお願いをして、それまでは地方自治体が国にお願いするというのはありえなかったですが、一部受け入れていただき中心部については地下にしていただいた。このことにより横浜が分断されることは免れた。
・自立的というのは、市職員も自分でちゃんと考えてちゃんと自発的に行動する、補助金をもらうから全部言いなりになるのではなく、言うべきことは言って、まあできないことはあるかもしれないけど主張して交渉していく。都市として自治体としての自立でもあったし、それをこう身体で覚えないとダメだということで田村明さんは敢えてそういうことをやったのだと思う。
・このことから、職員の自立性というのも高めていくことができ、高速道路も地下の方向に進んだ。そして高架予定だった箇所が緑地帯の大通公園になりホテルも建って育っていった。このように高速道路の問題の解決が街の形成にも繋がった。そういう様々な取り組みの繋がりで景観が悪化するのを防止することが重要だ。
・当初は、専門家に大通公園のデザインを頼むことがデザインだと思っていたが、大きなプロジェクトだけではなく、街には小さな建築物が多くあり、小さな公共事業がある。それをほったらかしておくと街はまたバラバラになるのだが、ちょっと工夫すると和風の建物の中にインド風の物があったりと、そういうことを平気でやっていると、街はバラバラになってしまう。この地域はこのテイストでやっていただけませんか?というちょっとだけ寄与してもらうと街のテイストができる。
・そういう中でわかりやすい広報活動として、歩いて楽しい街にしようということをまずはじめました。7つくらいの目標をつくり、その中には地域の歴史文化遺産を大切にするというキーワードを設けました。総合的と言いつつ総合的にやってしまうとなんだかわかりにくくなってしまうので、まずは歩きやすいということを徹底したいということにした。
・街をみると建築・土木いろいろありますが、まず足元だけでも歩きやすい道路にしていこうと、しかし道路の問題だけでなく、角地の建築なども重要なんですね。だから歩くことを中心に考えて、建築などもやってもらいたい。歩くことを考えて街並みはどうあるべきかと、そういうことを考えることができる。そしてわかりやすいアプローチをしていこうとで、歩くことからはじめました。
・みなとみらいというのは、元々、三菱の造船所がありましたから、まちづくりをしたいからどいてくださいといっても怒られるんですね。そこで移る場所として埋め立て地を用意して、出ていただく交渉をすると。でもそれは時間がかかるんで、その間に既存の街をよくすると。造船場後の街ができてから、既存の街をよくしても完全に負け組になってしまいますから、その前に既存の街を整備すると。それには歩いて楽しい街だということで、さきほども述べたこういった新しい街をつくると。
・小さな成果をつくってアピールして、役所の中では都市デザイン室っていっても誰も相手にしてくれない。道路は道路部局、公園は公園部局、建築は建築部局という役割分担ですから。小さな成果をつくればその意味や良さを分かってくれます。だから最初は、あまり大きなことをやるのではなく、整えるという実験をやってみました。そして歩いて楽しい道をつくろうということで、プロムナードを整備したり、市民に参加していただいてタイルや案内板をつくったり。横浜の街を歩きましょうといったキャンペーンをやりました。歩いていくと、歴史的建造物をみて街の発見をしたりして街並みというのが気になるようになるんです。そういうことで街並みを感じる手がかりとして歩くということをはじめました。
・そして地下鉄工事でヤードとして使った道路用地も、道路に戻すのではなく、広場として整備しましょうと提案する。そして、その周辺のビルについても建て替える時は茶色、補修する時も茶色という風にしてくださいとお願いをして、当初は条例ではなかったので、一軒一軒お願いをしていった。そうして広場を整備すると、広場の整備も当初道路に戻すための予算をキープ(この場合は鉄道業者の負担金)しておけば、整備に手戻りもなく、比較的手出しが少なく整備ができる。ヨーロッパのような道路と建物の統一感のある場所があってもいいじゃないかといって、実験的にやってみる。そうすると、いい場所ができたじゃないかと、マスコミが取り上げる。そしたら、例えば市役所の建物の歴史を紐解くとレンガ造りだったという、レンガの伝統がある地区だからそういったものも踏まえて、この地域はレンガでやっていこうという話になるわけですね。そしてレンガ建築を街のテイストにしていく。というように、すごいデザイナーなどが決めていくのではなく、地域の中で歴史などを踏まえた方が市民にもわかりやすいし、そういうことを大事にしていきたいと思っています。
・例えばこのビルは白い建物だったんですが、19年経ってから、市役所に電話がかかってきました。そのビルの管理会社からだったのですが、外壁を補修する場合には色を工夫してくれということだがどうすればいいんだ?と。19年前に私が置いた条例ではないお願いの置き手紙を見てかかってきた。私もずっと平で移動もせず都市デザイン室にいたので、待ってました、外壁の色を変えていただきたい。ということで、先方の設計業者に提案をしていただき、建物内のテナントとも相談をして決めて行ったことがあった。
・ということでまちづくりというのは時間がかかるし、待てばできるんだということも実感しています。こういう小さな成果を積み上げていくことが、我々の自信にもつながるし、我々も学びながらやっていけるんだなということが分かった。このように、広場の空間整備から街区建築の整備に広がり、山下公園周辺地区の銀杏並木を大切にして、建築物のまわりに広場をつくって、非常に歩きやすくクオリティの高い街にしていきましょう。そうするとこの街の価値も上がってきますよと、街のためにやりましょうとお願いして、建築活動を行う際に数々の広場をつくっていっていただくと。
ある場所での建築で、設計者であった有名な建築家に設計に際して広場やレンガのデザインをお願いしたときには、カンカンに怒られました。建築のことに役所からとやかく言われたくないと。でも我々も一切引かない。その時はビルのオーナーにお願いして、あの建築家をなんとかしてくださいと言いました。というようにひとりひとり説得して、共通の空間ができて、クオリティの高い街ができていくと。
・一方でお願だけではなくて、広場をとっていただいた場合には公開空地として評価し、それに見合って床面積や高さのボーナスを与えると。これは国の総合設計制度ができたことに合わせて、横浜市独自の市街地環境設計制度というのをつくらせていただいた。独自に作るといいのは、独自に変えられる。のちのちに、横浜市のニーズでつくりかえられるという利点がありまして、例えば歴史的建造物を保存すればボーナスが与えられ、駐車場がなければ駐車場をつくればボーナスが与えらえる。国の法律だと、一都市のニーズだけではかえられない。これはニューヨークでやっていたやりかたを勉強しまして、ブロードウェイの劇場街を維持するのに、建物に劇場をつけるとボーナスが与えられるという制度をやっており参考にした。
・そして既存の歴史的建造物を生かすことを考えた場合、がちがちに3m壁面後退を守ると、一番重要ところがなくなってしまうということで、柔軟に1スパンだけ残して広場をとってもらうといった実験もしました。そういう地区づくりが進んでいった。
④建築制度や敷地間調整などの複合的な取り組み
~地域の取り組みの主体となる人を大切にしながら~
・次に建築制度や敷地間調整など複合的な取り組みを行いました。ここまでの期間で横浜市が馬鹿みたいに茶色茶色というものだから建築家から批判がでましたが、これは占めたもので、それだけ浸透しているということなんです。ありがたい。しかしある時からは変化も必要ということで、最初から変化を取り入れてはめちゃくちゃになってしまいますが、ある程度整えば変化も必要ということで、全体をまとめて広場にしていきましょう、高さを揃えていきましょうといったことをしていくわけです。国から広場公園の事業をやらないかという話があって、道路と公園の境目をなくしたような新しい空間をつくったわけですね。建物の色も、茶色だけでなく、手前は白っぽいものをそして背景は茶色っぽいものをといったような調整を10年くらいかかってしました。
・私はこういうことを行政の内部の人間としてやりましたが、こういうことを全部行政がやるべきではない。地域の活動は地域の方がやるべきだ。地域の取り組みの主体となる人をできる限り大事にしていきたいと考えていたわけです。関内という地区では、はまっこという人たちがいて、横浜にプライドをもっていて意固地に、商売は下手なんですが、意地っ張りというか、そういう方たちがいまして、その方たちが私が東京で勉強したようなモダンなことは東京でやってくれよと横浜は横浜でやるからというわけですね。ですから、その伝統を大切にしようとするものをお手伝いしましょうということで、まちづくり協定の制定運営や独自の工夫、資金負担とか関内だけでなく、元町や伊勢崎などでも異なる取り組みとして行われていくわけです。商売人ですから話題作りや発信の仕方も上手で、このような市民運動からも、歴史的建造物の保存といったことも行われていくわけです。
・街や地区の自立的発展ということで、関内を愛する会の鶴岡さんという方で青年会議所の理事長の時に横浜スタジアムをPFIでつくった人で、横浜への想いが強い人です。また林さんという横浜中華街発展協会の理事長を19年間やられていた方は、昨年70歳になって退官されて、できるだけ若手に移行していきたいと考えている方です。また元町の近澤さんとか、色々な想いをもった前向きな人たちがいっぱいいて、その方々とお付き合いしながら、各商店街独自の取り組みをしていただきました。
・馬車道、伊勢崎町、元町中華街と繋がっていくわけですが、例えばまちづくり協定があると、商店街の事業として新しい建物の事業者等に雰囲気を馬車道にあわせてくれとかそんな話ができてくるわけですね。そのほかにもこんな浮世絵に書いてある橋の復元もやりたいといった話も商店街から出て、市と協力してやるわけですね。で、こういうことを進める中では警察との協議等もあるわけですが、はじめはぶつぶつ言われるわけですが、少しずつ、横浜の場合はもっと工夫しなくてはという雰囲気になってくるわけですね。
・このようにみんなが少しずつ学んで上昇していくんですね。これは道路上にベンチを置いてはだめだと言われたので、柵だと言って置いたものですね。ベンチという名称を使ってはだめだと言われたので、ベンチという名称を使わなければいいんですねということで、柵だけでなく、街路樹の台座ですということで、置いたものもあります。そういう工夫をしていた時代もありまして、警察も規制するところは規制しないと他の都市に波及しては困るというので、横浜だけの特例でいいですからと言って、進めるわけですね。そうするとだんだんと警察も変わっていくわけですね。
~元町商店街の話~
・面白いのは組織の問題ですね。元町商店街は、昭和30年ごろに、道路幅員が6mしかなかったので壁面後退も自分たちでやっていて、道路を広くとったわけですが、そのころがんばった30~40代の人たちがまちをつくってきた60歳、70歳とかになって、世代交代がおきます。現在の30~40代の人たちが、みなとみらいなどが出来て、元町もこのままではいけないということで、長老たちは気にしなかったのですが、理事長選挙で長老たちに対抗馬をたてるわけですね。長老たちというのは、浜どうらというファッションを全国に売り出した、その時の担ぎ出された人は近澤さんという人で、その頃がんばった長老たちが今ではもう保守的になっているわけですね。その組織を打破したいということで、若い人たちが理事長選挙で世代交代をしようと、クーデターに成功して、8mに壁面後退したものに1985年に電線も地中に埋めて共同溝をつくろうという計画を作って、土日は歩行者天国にしようと、平日はお客さんが自動車で来るから歩行者天国にはしないという元町のまちづくり協定をつくりました。
・また都市デザイン室や私がデザインをするわけではないので、ちゃんと建築家を雇いなさい、場合によっては行政としてそのデザイン料の一部を補てんします。というようにそれぞれ固有のデザイナーを雇うという風にして、そうすれば、違った魅力の街が広がっていくという風になるんですね。このようにすると、施主が説明し、商店街の人たちもフランクに都市デザインのことを話し、都市デザインのことを意識し、都市デザインの専門家が商店街の中にもできる。都市デザインのルールを運営するのは行政に任せるのではなく、自分たちでもやって勉強していく。行政ができないような、もう少しソフトな面白いアイディアをやっていく。みなとみらいに、巨大な街並みができるのに対し、元町は小ぶりな街並みにして対比的に勝負していこうと考えたわけです。さらに、面白いのは、見飽きた街並みでは集客はできないということで、作り変えてから15年も経たないのに街並みを作り変えていこうと、模様替えしようと、近間さんたちは、次は若い連中にやれということで、若い連中にお金を渡して計画を作らせ、2004年に第二次整備が完了した。そしてまちづくりのルールも地区計画等を含んだルールブックが作られました。
~中華街のまちづくり~
・中華街のまちづくりも進みます。林さんという人がキーパーソン。この方がなぜキーパーソンになったのかというと、中華街は台湾系と中国系がいて2つの組織があるんですが、昔、お寺が焼けた時に、林さんが両方の方からお金を集め再建することができた。その後、周辺から中華街のまちづくりは、林さんにまとめていっていただきたいといことになり、中華街らしい独自のことが進められました。
・あるとき、中華街のど真ん中にライオンズマンションをつくるということになりまして、これに反対運動がおきまして、市はいいじゃないかと思ったんですが、中華街としてはよくないと、夜間人口は増えるかもしれないけど、中華街は年中イベントをやっていて、最初は中華街に来ていいかもしれないけど、だんだん病人も増えてくると、中華街のイベントはうるさい、爆竹はうるさいとだんだん規制がかかってくるのではないか?また中華街がマンションのために途切れてしまって、商店街が衰退してしまうのではないかと。市役所としては法律上規制ができませんでしたが、中華街側はその土地を買うんですね。そして18億の借金をみんなでして、廟をつくっていると。
それから、ゼンリン門の向こう側に映像公告がついたのですが、中華街の雰囲気が壊れるということで、市は何も規制できなかったのですが、まちづくり協定をつくり、大通の下層階への映像公告の設置を禁止、映像箱の設置の禁止というのをつくり、これが施工される10月1日に、問題となった映像広告は撤去されると。映像広告は、広告料で成り立っているのですが、街で問題となっているから、誰も広告を出さないんですね。だから広告会社としても儲からないという理由もあってやめたんです。
・ということで街によって何を大切にするかということは違うわけで、それは街の人が決めるということだと思います。
~街によって違うやり方が面白い~
・またイベントのつくりかたですが、元町などはイベント会社に丸投げするのですが、中華街は自分たちで開催し、自分たちで参加することで、コミュニティを感じる機会としています。イベントは人寄せだけではなく、地域の人たちがまとまりを感じる団結する機会であり、これを丸投げするのはもったいないという感覚ですね。イベントだけでもそのやり方が地域によって違う。
・伊勢崎町については、少し元気がない。お店がなくなり、ビル業ばかりになってしまったので、全国チェーン店などが入ってしまう。元町は、そういうことを少しでも避けようと、お店が空いたら、そこに新しいお店を斡旋してくるなど、街全体で運営している。エリアマネジメントという形で、街自体がディベロッパーとなって進め、街によってその頑張り方が違う、その違いが面白い。
⑤歴史資産の保存活用という事業
・これまで都市デザイン室は、行政内においてあくまでもまちと行政の調整役としての業務を行っており、まちへの営業努力等で信頼関係を構築しやっていたわけですが、これからは都市デザイン室も事業をもった方がよいのではということで、私の後輩であるキタザワくんという人が、歴史資産というところを事業化していき、進めていきました。新しい領域を事業にしていきました。
・実はこの歴史資産の関係は一度失敗しておりまして、1971年に旧中沢邸というのが取り壊されるということになり、その明治時代の西洋館をよこはま市にあげるから引き取ってくれということになった。当時私は、この施設を公園事務所として使おうと考え、起案しましたが、内部でお金がないからという話で却下されてしまいました。結果、民間の業者さんが引き取ってくれて移築し保存ができたという話があります。
~歴史的建造物のライトアップ~
・1986年くらいから横浜の夜景を演出するという事業がはじまりました。事業の狙いは京都などに比べれば歴史の浅い横浜の歴史的建造物に、照明デザイナーがデザインしていただいた光をあてることで、注目が得られるのではないか、保存に繋がっていくのではないかと考えたわけですね。持ち主にも、歴史的建造物を保存しますというと煙たがられますが、光をあてて夜景を演出する実験をさせてくださいといえば、心よくやらせていただけて、評判もよく、どんどんとその数も増えていきました。そのうち1年中ライトアップをしようという話になり、照明を常設しなければならないということで、商工会議所や市民からお金を募り、常設させ、1年中70以上の施設をライトアップしていきました。そのうち市民側から、夜にライトアップされている歴史的建造物を昼も見てみようとなるわけですね。市民が集まり、専門家がその建物を説明するという流れが生まれました。横浜に県外から移り住み、東京で仕事をしている“横浜都民”が、このように横浜の歴史を学ぶことで、横浜市民になっていくというプロセスになっていき、市民のアイデンティティをつくる意味でもよかった取り組みではないかと考えています。
~歴史を生かしたまちづくり要綱~
・このような流れから1988年に歴史を生かしたまちづくり要綱というのをつくります。これは文化庁などが言っているような歴史を保存するだけでなく、例えば側だけを残して、中は自由に使っていいよといった、歴史的建造物の活用というものを行い、登録認定助成ということを行い、保存した場合には容積率の緩和なども行いました。そのような流れの中で日本火災さんの建物について、市民から保存要望があり、是非保存しようということで、新しい建物の側とすることで保存をしていったわけです。しかし、こういう残し方について歴史家の一部からは邪道だと言われることもありました。でもこのような残し方でないと、民間の人に保存を続けていただくということはできなかったわけですね。市としてもこのようなものを民間に保存していただくのですから、その費用の一部を助成させていただきたいという話になり、この日本火災さんの建物を第1号として認定をし、市内部の財政担当や市議会なども助成を承認していきました。結局、市民も巻き込んだ運動が財政当局や議会なども動かしたということです。
・このように側だけを活用した事例が増えていくと、ある時市民から、また側だけ使って、上はマンションが建つのかなどの批判がありました。そのようなこともあって、富士銀行の建物の件の時は、市長にも掛け合い、市で買い取りをしたという事例もあります。
・このように試行錯誤をして、保存の方法を検討してきました。また時代が流れ、法人税なども入るようになってきていましたから、買い取りなどもやってみました。このようにいろいろやりながら、足元は歴史的建造物といった方法を確立していきました。さらにキャンペーンとして、キング・クイーン・ジャックといった3塔を見て回るというようなイベントを鉄道会社やったり、3塔がみる3地点を地図におとしたりなど、建物の保存と合わせてその活用を進めていきました。
~みなとみらいの歴史の保存活用~
・そしてこの関内地区の成功をみなとみらいに生かしていきました。
さらに、建物の保存だけでなく税収面もよくしていくために、会社の本社をみなとみらいに持ってきたら、優遇が受けられるというような措置をしたりして、日産の本社が横浜にきたということもありました。
(写真をみながら、日産の建物とまちの動線が一体化している事例などを紹介)
・1988年にまちづくり協定としてはじまり、試行していき、地区計画に移行していき、やわらかな協定と地区計画とを、整理しながらまちづくりを進めていきました。そんな中でみなとみらいも歴史を大切にしようという機運が生まれます。造船場あとの船のドッグは、そのような流れから2か所残りました。単に再開発をするのではなく地域の歴史をみせながらの再開発をみなとみらいでもやっていただいたのです。
・このようにみなとみらい新港地区での産業遺産を大切にしようということで赤レンガ倉庫やドッグを生かして、歴史と未来を融合する回遊空間を誕生させることができました。
・さらに馬車道の線路跡についても危ないと言われたのですが、残して、その先の建物も赤レンガが見えるようにして、まちづくりがサインになると、人は簡単に歩くことができるんですね。さらに赤レンガも国の施設を横浜市が引き取り、民間に生かしていただこうということでキリンビールサッポロビールニュートウキョーの連合体が横浜赤レンガという会社をつくり運営しています。このようにみなとみらい新港地区ガイドインが、景観法に基づき作成され、まちづくりが進みました。
(スライドをみせながら、色々な事例の紹介
歩道を広げて、カフェテラスをするなどの事例
花のイベントの事例
みなとみらいの駅のデザインの事例(馬車道的サイン)
~象の鼻地区と若いクリエイター~
・このような流れの中で若いクリエイターにもがんばってもらおうということで、象の鼻地区が最近できました。
・象の鼻という波止場を復元しながら広場をつくろうという企画だったのですが、50歳以下の若手設計者に限るという条件付きの設計コンペを開き進めました。横浜はこういう企画を通して、横浜に事務所を構えることを促し、クリエイターが集まる街として売り込み、活性化するんですね。
・さらに歴史の保存も進め、象の鼻地区にはこのような造船後のターンテーブルなども工事中に見つかったので保存活用しました。
・都市デザイン室の仕事は、ほかの部局の仕事に口を出す仕事なのでたまに恨まれることもありますが、少し工夫をしたり手間をかけていただくことで、まちのデザインができあがっていくのです。
~街を作ることから、街を使うことへ~
・(人々がピクニックに集まっている写真をみせながら)これはピクニックの市民コンテストなんてのもやっている様子ですね。街を作るだけでなく、まちで遊ぶことも重要だということで、最近はまちづくりからまちを活用していこうという動きが活発です。その際、地域の資産を歴史をうまくつかうということを意識しています。
⑥最後に
・富山市もハード部分では一定の評価を得ていて、今日もまちなかで新しいイベントなどをはじめている人もいらっしゃるかと思いますが、横浜にいるイベントをやっている人たちも紹介したりして、富山と横浜でディスカッションなんてのもできたらいいですね。
3)質疑
会場;横浜と神戸の違いはどういうところですか?
また違いが出た理由は?
国吉;神戸市は神戸まちづくり会社という大ディベロッパーとして動いたわけですが、横浜市はディベロッパーにはならず、やり方が遅い、民間にディベロッパーになっていただく形でやっていた。スピードは遅いですが、一気にできていないので、少しずつ変わっていく街に横浜はなっている。
会場;富山の人は自分たちの街のよさを認識していないのだが、先生からみて、富山のよさとは?
国吉;立山の景観も含めて街として整ってきていて、わかりやすい街になってきている。色々な新しいことをやっているので、それを大切にして発信していただくことがよいのでは?
会場;また横浜に勉強に行きたい。
国吉;まちあるきの講師もしているので、ぜひ横浜にもいらしてください。
会場;建築だけでなく、土木構造物で都市の歴史をいかしたような事例が横浜にあるか?
国吉;場所によるが、トンネルの横の石積みや港の護岸など産業遺産などを大切にしている、地域なりのキーワードを大切にしています。
会場;どうやってまちづくりなどをやるモチベーションを維持したらよいか?
国吉;私は横浜市に入ったけど、街のためにやって、その結果給料をもらっているという意識でいた。だから街の人たちに信頼を得て、連携ができて、仲間になって、それがモチベーションになっていきました。楽しくしないと続かない。
以上