レポート

まちづくりセミナー2013

まちづくりセミナー 第四回講演録 講師 中田宏氏

2014/02/27 

タイトル

「まちづくりは、人づくり」

 

 皆さん、こんにちは。中田です。今日はまちづくりセミナーにお呼びいただいて有り難うございます。皆さんは5,000円払って来ているんですよね。6回で5,000円って高いですか?そういう意味ではこの2時間は無駄な時間にしてはいけないとプレッシャーを感じながら来ましたし、来た以上は中身のある話しをしますから、どうぞよろしくお願いします。

 

 今日は、前理事長の五艘さんからのご紹介で、僕はこの場に立たせていただきました。去年の1221日に亡くなられたので、ここに来る直前にご自宅をお伺いしてご焼香をしてから、この場に立たせていただきました。これまでに僕はいろいろなところで講演をしてきましたが、故人からの依頼で講演をするのは初めての経験です。その意味では、今日は自分の中に残る1日になるなと思います。富山とのご縁があったから五艘さんとも知り合えました。そして、五艘さんと知り合えたから皆さんとも知り合えました。このような中で人の繋がりは発生していくと思いますから、先ほど申し上げましたように充実した時間にしたく思います。

 

 実は今朝メキシコから帰ってきたばかりです。朝4時半に羽田に着いて、一度横浜にある自宅に帰って富山に行く準備をして、羽田空港に戻って富山に来ました。メキシコからはロス経由で帰ってきましたが、羽田まで11時間のうち、最初の2時間半ぐらいは映画を見ました。小津安二郎の『秋刀魚の味』という1961年の映画で、僕が生まれる3年前の映画です。小津安二郎の遺作だそうで、小津生誕100年でデジタル化されましたけど、これを見ながら食事をとって、3時間ぐらい寝て起こされて、羽田に着きましたので、かなりナチュラルハイの状態です。

 

 

■五艘さんの話しを綴ったくだり「ある紳士の生き様」〜「失敗の整理術」」より〜

 

 明日119日にPHPビジネス新書から僕の書いた新書が書店に並びます。この本の依頼を受けたのは去年の5月ぐらいでした。タイトルは『失敗の整理術』。PHPの担当者から「最近の若い人に向けて本を書いてください」と言われました。「最近の若い人」という言葉はいつの時代も使われますが、今の時代、失敗したり挫折したりするとすぐへこんでしまって、会社を辞めたりとか、この世の終わりのような落ち込み方をする人たちがいっぱいいるというのです。だから、20代から40代ぐらいの若者に対して、「失敗に対してどう立ち向かうのか」というような内容の本を書いてくれと言われました。「なぜ僕なの?」と聞いたら、「中田さんはいっぱい挫折しているから」と言われて(笑)。確かにそう。国会もあるので書いている時間がないと思いましたが、依頼されているうちが有り難いことだと思って引き受けました。そうしたら案の定、時間がかかってしまって、最後に書き上げたのが昨年末になってしまいました。結果としては、これまで自分が書いた本の中でも自分なりに納得できる本になりました。

 最後、ここはどうしようかと思ったのが、47ページの「ある紳士の生き様」というくだりなんです。書き換えようかと思ったけれど、書き換えずにそのままにしました。「ある紳士の生き様」というのは、五艘さんの話しです。

 このくだりを、五艘さんの紹介方々、僕の自己紹介方々、自分で書いた本の朗読を自分でさせていただきたます。

「ある紳士の生き様。非常に親しくさせてもらっているある紳士がいる。全国的に名前が知られているというわけではないが、僕が尊敬している方だ。その方が癌で余命1年と宣告された。それから約1年の間、度々お目に掛かる機会があった。『とにかくできる治療は全てやりましょう』僕は会う度に彼を励ましつつ、何が最善なのかと懸命に考えていた。当然のこととして医者の見立ても根拠があるわけで、少しずつ病魔が進行していることは認めないわけにはいかなかった。10ヶ月後、体力が弱っているのだろうか、呼吸が浅くなり、覇気がなくなっているかのようにも見えた。『自分の好きなことをどんどんやりましょう。今までやりたかったことをやって、楽しく悩みもない毎日を送れば、免疫力が高まるらしいです。免疫力を高めて癌をやつけちゃいましょう』僕の言葉に彼はにっこりと笑った。私は父を癌で亡くしている。最後の最後まで、治療法の新情報を入手してすがったものだった。しかし、その甲斐はなかった。父も余命1年と宣告されたが、それ以降、ただただ治療に走り回って人生を終えた。一方で、免疫力を高めて癌の進行が鈍り、医者の宣告を大幅に超えて長生きしている人が実在していることも知っている。だから、その紳士を誘って大阪難波にある吉本興業の劇場に一緒に大笑いしに出かけたりもした。やるべきことはやりながらも、これまで以上に充実した毎日を送ることを語り合った。紳士は言い渡された1年の間に何をやるかを考え、会社務めをしていた息子を呼び戻して家業を営む会社に迎え入れた。癌という事実を知らなければ、息子さんは会社員のままだっただろう。教えられることを今、教えておこうということになっていなかったに違いない。その方がある会議で閉会の挨拶に立った。『あなた方の不幸なことは、自分がいつ死ぬのか知らないことだ』私ははっとして彼の顔を見た。会議の出席者の中には、彼が余命を宣告された人だと知らない人もいた。彼は続けて言った。『自分の死期を知らないというのは、日本という国も同じなのです。いつ日本が財政的に破綻するのか、駄目になってしまうのか、明確なリミットがないから、みんなぼうっとしていられるのです』その通りだった。私だって明日死ぬかもしれない。事故、あるいは突然死の可能性もある。その場合、何の準備もできないまま、やり残したことを置き去りにしてこの世からいなくなってしまうのだ。彼のずっしりと重みのある言葉を日記に記した。日記には尊敬している方々とのやりとり、会話しをできるだけ詳細に書くようにしている。そして落ち込むことがあった時など、その日記を読み返すのだ。人は人と同じ経験をするわけではない。その意味で、人の経験に自分の悩みに対する直接の答えがあるわけではない。だが、間接的な答えを得ることもあるし、ケースは違えども悩みを乗り越える自分のやり方を発見することができる。私の日記は私の相談相手である。」と。

この本のサブタイトルは『耳の痛い話しはすべて日記につけよ』となっておりまして、今日富山に来る飛行機の中ではさきほど話しした『秋刀魚の味』という映画の鑑賞録を日記につけていました。そんなタイトルの本だったので、五艘さんの言葉をここに掲載したのです。

 五艘さんに会って僕は2年半ぐらいです。そういう意味では富山の森市長(高校の同級生)ほど長い付き合いの人とは全然違いますけれど、本当に温かい人でした。フットワークが良くて、何でも自分でササッとやっちゃう器用な方で、しかも僕よりも人生の先輩なのに偉ぶるわけでもなく、僕が衆議院議員だからといって恭しくするわけでもなく、温かく楽しい接し方を誰にでもしてくれるような方だったので、付き合いの期間以上の思い出が残った存在になってしまいました。さっきのくだりで出てきましたが、うちの父は、癌で余命1年と宣告されてからはあの手この手を尽くしました。それまでは医者の言うことも全然聞かなかったし、これが効くと言っても笑い飛ばして全然相手にしていなかったのにです。それが余命1年といわれてからの父は、効くと言われたものには何にでも手を出しました。アガリクスとか、プロポリスとか、何とかワクチンとか、あっちの病院とか。それで1年が終わってしまいました。だから僕はこの本の中で紹介したように「やることはやって、あとは楽しいことやった方がいいのではないか」と五艘さんに話ししました。そしたら、「マチュピチュに行くかな」なんて言っていました。「そうですよ。行ってきた方がいいですよ」という話しをしたり、「とにかく免疫力を高めましょう。免疫力を高めるには笑いが大事だ」ということでなんばグランド花月に一緒に「お笑い」を観に行ったり。このようなことをこの1年間やってきました。先ほど紹介した五艘さんの言葉はいつなのかというと去年の10月です。ある会というのは、僕が富山で声をかけて12月から勉強会を始めた会です。

 

 

 

不幸なことは、いつ死ぬのか知らないこと

 

  日本はこのまま行ったら本当に滅びてしまいます。その話しだけで、国づくりセミナーに呼んでもらいたいです。僕は市長だったから、皆さんとは別の角度から実務的な意味でいくらでも話しができます。もう、どうしようもない現状です。だから、なんとかしようと思って政治の舞台にいますが、政治が好きだからやっているわけではありません。ハッキリ言って政治は大嫌いです。できればやりたくない。だけど、放っておいてもどうにもならないから政治家をやっています。この国は財政破綻が目の前です。今日かもしれない、5年後かもしれない。今はマグマをためている状態であって、地震がいつ来るか分からない。

 このような中で、富山で勉強会を始めました。僕の父親は富山出身です。一族郎党、いまも皆、富山に住んでいます。父親は8人兄弟の4男坊。本家は長男、分家は次男が継いで、4男になるとわりと自由になっていたから、戦争が終わって東京に出てきて大学に入って、横浜に家を買ったので僕は横浜で育ちました。だから田舎に帰るというと富山だったのです。富山とこのような縁があったので、五艘さんとも知り合ったわけです。せっかく縁があるのだったらと思って、日本の国を真面目に考えようという会を始めたんです。政党は抜きにして、政治家も民間人もウエルカム、民間人の方がむしろ多いです。その準備会を昨年10月に行いました。勉強会を12月から始めることを決めて、その会議の締めの挨拶の時に五艘さんがこう言ったんです。「あなた方の不幸なことは、自分がいつ死ぬのか知らないことだ」と。ドキューンと胸を射貫かれた感じがしました。その通りだと改めて思いました。五艘さんが余命を宣告されている人だと知らない人も中にはいたけれど、僕は知っていましたから尚更です。しかも、余命1年と宣告されたのが去年の1月なんです。1月に宣告されて10月です。さっき読んだように呼吸が浅くなってきて、やはり医者の言うことは間違っていないと認めざるを得なかった。僕は葬儀・通夜に行けなかったので、さきほどお焼香に行ってきましたが、初めて遺影を見てビックリしました。普通は白黒写真ですが、ジャケットもネクタイもカフスボタンも真っ赤。見事な遺影です。奥さんにお話しを聞いたら、「今年の2月にこっそり写真館で撮っていた」と。ということは、宣告の1ヶ月後にスタジオで撮っていた。「奥さんは、いつ知ったんですか」と聞いたら、亡くなってから知ったといいます。余命1年と宣告されてから、密かにノートをつけていて、死んだら読んでくれと言われていたそのノートに書かれていたということなんですね。しめっぽくならないで明るくやってくれよということなんでしょう。この中で遺影を撮っている人います?いないですよね。僕だって撮っていないです。すなわち、死ぬことを前提に生きていないわけですよ、僕達は。でも、五艘さんは死ぬことを前提に生きていたわけです。それはそうです。最初に聞いた時には、僕も信じられなかったし、本人も全然実感がないんだと言っていましたから。だけどやがて本人は誰よりも早く気づき始めるわけでしょうから、スタジオで写真を撮り、息子を呼び寄せ、僕にも分からない色々な準備をして1年弱でお亡くなりになった。1月に言われて1221日です。

世の中の定年は60歳。僕は今は49歳だから、あと11年間に日本を変えるための仕事をしなければいけないと思っています。でも、それではダメだと気付かされました。明日死ぬかもしれないと思って今を生きるというのは、学校の先生やら映画やらタレントのトークやら色々なところで聞いた気がします。だが、実際にそんな思考回路なんかないですよね。そういう意味では、五艘さんには大きく教えられましたね。

 

 

■自立者を増やすことが、日本の命題

 

 今日は、その五艘さんの追悼も兼ねて、まちづくりの話しをしなければならないのですが、最終的にはまちづくりという話しと、今の五艘さんの話しが見事に繋がります。なぜ繋がるかというと、要は「誰がやる」ということです。結局、願望を言っていてもしかたがないわけです。日本の残り時間を本気で考えた方がいいです。僕は、アベノミクスを応援しています。時間が少ない中で、安倍さんにしっかり働いてもらうことは大事です。平成5年、安倍さんは自民党、僕は日本新党から立候補してともに初当選しました。僕は、安倍さんを知らないわけではないし、安倍さんをよいしょする立場もない。安倍さんに対して客観的な存在です。日本を代表する総理大臣は彼1人ですから、何とかしてほしいと思っています。その何か、というのは、願望を適当に言うのではなく、日本はやるべきことが決まっている、簡単に言えば、経済を立て直して、無駄を省いて、借金に対して真剣に向き合って、そして騙し騙し数年、もしくは中期的に、日本が少しずつ国力を高めていかなければ、先はありません。経済を良くするためにはどうすればいいのか。それもまた色々あるけど、安倍さんが放った第一の矢といわれる金融緩和は完全に栄養ドリンクです。あれで経済を動かせるはずはありません。1月、何もやっていないのに政府への期待感から、結構株価が上がりました。それから金融緩和で、ますます株価が上がっていきました。業績は上がらないのに、株価が上がっているのは実はおかしいということに世の中の人は気付かない。物が売れたわけでも、サービスが増えたわけでもないのに。でも、株価は上がった。それは、日銀が「金融緩和をします。インフレは2%にします」と明言して、円安になったからです。円安=株高、このイコール図が今の日本は成り立っているからなのです。その後は、借金をしてでも、公共事業を増やしてでも、とにかく世の中に金を流すと、桁違いの補正予算を組みました。通常、日本が橋や道路を造る公共事業は、1年間で5兆円ほどですが、今年は「補正」予算の公共事業だけで5兆円です。補正予算は、年間の予算とは別に組むのです。ですが、それは一時的な金融緩和で一時的な財政出動ですので、ここまでやれば気が狂ったように株価が上がるというところまで来ているのです。不自然なことですから、こういうものはあまり長続きしません。社会は人間の体と全く同じだから、一時、点滴をしてハイにはなっても、基礎的な体力をつけたり、悪い部分をそぎ落としたりしない限りは中長期的には続いていかないわけです。

 ほかにも、子育て支援、介護、インフラ整備、経済、教育など、個々に力を入れるべき分野がありますす。ただし、財政が崩壊したらアウトです。毎年、税収が下がっているのに、なぜ増やせるのか?しかも、高齢社会です。65歳、70歳になったら自動的に受給できるものが多くあります。あるいは、不慮の事故で体に障害がある状態になったら障害者として受けられる福祉が自動的に発生します。高齢者福祉だったら年齢、障害者福祉だったら障害の程度と、自動的に発生するものがうなぎ登りです。一般の人は「あれしろこれしろ」と政治に言う。政治家がこれまた適当に「分かった、やる、努力する」といって陳情を繰り返し受けている。これが日本の財政破綻の道なのです。安倍さんの第一の矢、第二の矢は結構です。だけど、これを今後にどうやってつなげていくかという時に、我が国の財政だって同じだと五艘さんは言ったのです。「自分が死ぬ時期を知らないのと同じように、いつ日本がダメになるのか知らないから、みんなボーッとしていられるんだ」。これ、僕が政治家として笛を吹いた言葉ではなく、五艘さんが言った言葉です。

 このような状態の日本において、どうやって一人ひとりが自立をしていくかが、日本社会全体に問われています。できうる限りの自立です。もちろん自立できない人もいます。体を患っていて動けませんとか、経済状態が悪いから職が見つけられませんとか、そのような人もいる。そこは当然、福祉で支え合う。それは人間社会のすごいところです。動物社会ではあり得ない話しですから。人間も動物だけど、人間が他の動物と違うところは、他者を思いやれるところであって、他の動物は親が子を庇うことはあっても、他を庇って自分が先に死ぬということはないですから。必ず、弱いものが先に食われます。その部分においては人間だって同じです。ですが、人間は知恵があり、社会というものを営み、システムというものを作り、という中で、他者を思いやって、福祉を作り、社会システムとして運営をしているところが動物と違うところです。しかし、人間が他の動物と同じところはどこかといったら、生きる以上働かなければならないということです。動物だって、自分で獲物を捕れない限りは生きていけないわけです。馬だって生まれた瞬間に必死になって立ち上がるのは、逃げる準備です。やがて、エサを求めて歩けるようになっていく。そのために必死になって立ち上がります。あらゆる動物がそうである中において、人間もそこから外れないです。親の蓄財だけで食っていこう、働けるのに生活保護をもらって食っていこうというのは、自然の摂理に反するわけです。全ての人間が、前提として動物と同じように自らが働いて自らが食う。一人でも多くの人が自立をすることが大事です。自立できない人たちを救うには、一人でも多くの自立者がいないといけません。システムに乗り、システムにぶら下がって生きていく人が増えれば増えるほど、システムは機能しないわけです。自立する人が増える社会を作らない限りは社会が崩壊してしまいます。自立をする人を増やすことが、ある意味では社会の命題なわけです。福祉は当然ですが、あらゆる分野で言えることです。教育には読み書きそろばんや歴史、英語などがありますが、その根本は大人になって自立して生きていけるようにするためにあるわけです。すなわち、学校で教育を受けて、大人になる。でも、自分では判断できません、選択肢の中でしか選べませんとなったら、これでは教育は失敗です。年金にせよ、健康保険にせよ、教育にせよ、医療にせよ何にせよ、全ての社会の営みは、自立できる人を増やしていくということを価値観に据えたうえで仕組みを作っていく必要があります。社会にぶら下がって受け取りを増やす社会ではダメです。

 賢明なる皆さんの中にはお分かりの方もいらっしゃるかもしれませんが、さきほどの五艘さんの話しと今の話しをしたのは、まちづくりも同じだという話しなんですよね。これが結論なんです。

 

 

■市長になって最初の仕事は、補正予算

 

 今から12年前、横浜市長になった時、僕は37歳でした。市長になったら、やることが山ほどあります。本当に忙しいから、真剣にやり始めたら、24時間では足りない。しかも、財政立て直しであれば、金を一方で削りながら、チャンスが増える社会を作ろうと思って各論をやっていきますから、これはもう至難でした。「中田さんの話しは暗い。何か明るくないよ」と当時だいぶ言われましたが、それはそうです。とにかく借金を返して、どうやって横浜の財政を建て直すか、四六時中そのことばかり考えていましたから。だけど、目を背けて明るい話しばかりしているから、日本はいつまでも危機感がないのです。

 平成14年に市長になって1番最初の仕事が補正予算編成でした。その時、まちづくりに関わるものの中で興味を持ったものが1つありました。

 

 

■まちのDNAが、まちのイメージになる

 

 横浜の歴史は150年しかありません。日本の歴史は3000年ぐらいあります。富山も1000年以上あるのではないでしょうか?横浜はほとんど誰も住んでいない「寒村」だったのです。当時、ひたすら横に長い浜辺が続いているから、横浜という名前が付いた。家も100戸ほどしかありませんでした。今は370万人です。生粋の横浜っ子なんていません。「3代続けて江戸っ子」という言い方がありますが、横浜は「3日住めば浜っ子」。横浜は外から来た人ばかりの集まりのところなんです。

 では、なぜ、外から集まるのか。横浜と聞くと、かっこよくて国際的で、お洒落で新しいものがある街というイメージでしょうか?例えば、富山の人が東京勤務を命じられた時、「千葉と埼玉と横浜、どの社宅にする?」といわれたら、横浜は人気でしょうね。社宅の造りも通勤時間もほぼ同じだったら、横浜にするのではありませんか? 車のナンバーも、横浜が長年にわたって1番人気です。 

 それは、いいイメージがあるから。そのイメージというのは、マスメディアが作ったものではなく、それぞれのDNAとも言えるようなものは歴史から産み出される。横浜の歴史は、たかだか150年と言っていますが、その150年が何だったのかと言ったら、開港だったんです。日本が鎖国をしていて、東京以外はどこもあまり変わらないような暮らしぶりでした。そんな時に、いきなり横浜がアメリカ、フランス、イギリス、オランダ、ロシアの5カ国に対して開かれたんです。当時の江戸幕府は開港したくなかったけれど、脅されて仕方なく、港を献上せざるを得なかった。江戸幕府の近くに外国船が入ってきては困るものだから、横浜を開いたのです。横浜なら遠いし、東海道五十三次の宿場町としては、江戸から数えて34つ目ぐらい。だから、「横浜なら使いやすいですよ」とアメリカ人に嘘をついて開いたのが横浜。横浜は誰もいなくてどうでもいい街だったから、港を開いた。ところが、それまで日本は鎖国をしていたから、横浜を開いた途端に外国人も文化もどっと入ってきました。だから、何でも国内では横浜が発祥となるのです。横浜初めて物語みたいな本が何冊もある。ガス灯、スーツ、ネクタイ、ビール、パン、美容院、歯医者、新聞、マンガ、めがね、これらはすべて横浜が日本初なんです。それまで日本になかったから。横浜スタジアムの目の前にある通りは「日本大通り」というんです。なぜこの名前が付いたかというと、日本で初めてできた近代道路なのです。街路樹が植えられて車が通る、人が歩くところを分けている、これが近代道路。今はもう当たり前ですが、1番最初が横浜なのです。というのは、今まで日本にそういうものがなかったというだけの話しなのです。外国人がやってきて、馬車が通るところと人が歩くところを分けようという状態になったから、日本で最初の近代道路が造られて、日本大通りという名前が付いたわけです。何でもかんでも横浜が日本最初。それはそうなりますよ。僕が子どもの時は外人を珍しがって見ていましたが、今やどこにでもいます。富山にもいます。だけど、150年以上前の日本には、外国人はいないのです。だから、横浜に行ったら面白い、何かがある。やがて、あそこで一旗あげよう、ビジネスをやろう。今でいうベンチャー起業家たちが横浜に来て、浅野宗一郎は富山から出て行って横浜でビジネスをはじめたわけではありませんか。そういう人がどんどん出てくるわけです。それがまちのDNAなのであって、それがひとつのイメージになる、そういう循環なんだと思います。 

 

 

旧富士銀行を、NPO共同オフィスに

 

 外国との貿易のために横浜だけが窓口だった時代がありました。横浜には馬車道という、馬車が乗り降りする場所があった道もあります。そして外国と取引をするために、馬車道に富士銀行横浜支店ができました。今は、イギリス系資本のHSBCという香港・上海バンクも東京や横浜に支店がありますが、当時は横浜にしかなかったんです。

 僕は市長になった今から12年前、着任してすぐに予算を組んで市長査定というのをやりました。その中に、旧富士銀行の再活用というのがあったんです。それを見てみると、調査費というのが300万ほど付いていた。富士銀行も銀行の統廃合をしていましたが、100年以上前の建物だから使い勝手が悪かったのでしょう、銀行として使わなくなり、横浜市がその活用を考えることになりました。その使い方を考えるための費用が、行政でいう調査費なんです。実は調査費というものの半分以上は、「エクスキューズ、逃げ、言い訳」のための予算です。さきほど言ったように、みんな、好き勝手なことを言います。業界団体や有力者にいろいろ言われても、すぐに実行できないし、お金もないという時に「前に進めます」とポーズするのが調査費です。年間100万で何をするかといえば、調査をする。「調査って何なの?」と聞いたら、市役所の職員が調査するわけではなく、コンサル会社などに頼んで土地の利用についての調査報告書などを出させるのに使うのです。こんなバカみたいなお金が山ほどあります、行政の中には。

 その富士銀行跡地利用、調査費300万。僕は当時、関心持ったので聞いてみたら、「歴史的な建造物として横浜市はこれを認定したいと思っているし、認定後にどう利活用していくのか、それについての調査費をつけております」というような説明でした。それを聞いた時、利活用されているイメージとは逆のものが膨らみました。鉄条網が張られて、入り口に「土地は横浜市が管理しております」「遊んではいけません」「立ち入りはダメです」と看板が掛けられて、本格活用が決まるまで吹きさらしの建物になるというイメージがすぐに浮かびました。要するに、調査費をつけて活用方法を考えても、1年調査して建物の重要性をコンサルが出して、その後で歴史的建造物にふさわしい保存と活用が求められているというようなレポートが出て、審議会を設けて先生たちを集めて、建物をどのように活用していくか1年で報告書をまとめて、その翌年に実施計画を立てる横浜市役所の中のセクションで話し合って、市民のアンケートをして、アンケートがまとまった段階で、4年目に予算をつけて整備に入って、5年目にようやくオープンなんだろうな、というイメージが膨らんだんです。これはダメだ、もったいないと。

 そこで、僕は、「今すぐ使えないんですか?」と聞いたら、ついこの間まで銀行として使っていたというじゃないですか。「じゃあ、調査費をやめて、今年から使いましょうよ」と言ったのです。役人はぶったまげました。僕が市長になったのは4月だから、下半期の10月から使いましょう、と。そしてどうしたかというと、そこにNPOの共同オフィスを入れることにしたのです。

 

 

NPOは、公共の担い手として重要

 

 NPOというのは、まちづくりや青少年の育成、お年寄りのケアなどいろいろなものがあります。胡散臭いNPOもありますが、NPOという公共の担い手を今の社会で増やしていかなければいけないのは間違いないのです。当時、僕は横浜市民に「公共と名の付くものを行政がやるというのは大間違いです。公共=行政と思わないでください」と散々言い続けたのです。だいたい、公共料金にも、水道料、ガス代、電気代、NHKなどいろいろあって、それを全部公共料金とひとまとめにして言っているではないですか。でも、ガスや電気はれっきとした民間会社です。公共交通のJRも民間です。公共というのは誰が作るのか。その作り手、担い手には、色々なセクターがいるのです。行政もそのひとつで、直接的にやることもあるでしょう。だけど、民間がやる場合もありますよと。民間といっても、株式会社、NPO、財団、個人といろいろあるでしょう。公共にはいろいろなセクターがあって、公共を高める、公共を守る。このことに対して責任を持つのが行政。例えば、計画を作るとか、規制を強めたり緩めたりするなどです。ここは放棄するつもりはないと。ただし、直接的に行政がやるのかどうかは別問題。公共サービス=行政サービスではない。その1つがNPO。公共の担い手としてNPOができたのは、ここ15年ぐらい。日本では、公共といえば行政がやるもの、もしくは行政に準ずる公益法人がやるものと思われてきた。公益法人とは、社団法人や財団法人のことです。だけど、それらは大体役人が差配しています。許可は役人が出します。国の国土交通省所管財団法人や、厚生労働省所管社団法人、もしくは富山県や富山市など、役所が許可します。だから、社団法人・財団法人にはそこに役所の人間を受け入れた方がメリットがある。それが、いわゆる天下りになってくるわけです。これが当時までの広い意味での公共の担い手なのです。そこにNPOが出てきたのです。今はNPO法人は社会を混乱させるような目的を書かなければ認められます。だから、胡散臭いのもありますが、NPOという公共の担い手となる組織は大事なのです。なぜならば、公共と名が付くものを全部行政が行っていたら、税金がいくらあっても足りないからです。公共の担い手を増やしていくことを考えていった時にNPOは重要です。ただ、NPOの悩みは、やはり金がないこと。事務所を置くにも家賃がかかるし、電話を引くにもお金がかかりますから、活動拠点を見つけていくのは大変なんです。

 だから僕は、旧富士銀行跡地をNPOの共同オフィスにしようと言ったのです。「中をパーテーションで区切って、いくつものNPOが入られる状態にして、1階も2階も使えばいい。あんなに大きい金庫を見る機会はなかなかないから、自由に見学させられるようにすればいい。金庫は開けっ放しにしておこう」というようにして話しを進めていったのです。ところが、馬車道商店街から大反対されました。商店街からすれば、自分たちの商店街振興のために、横浜市が補助金を出し、旧富士銀行の立派な建物を集客施設として使い、馬車道に人が来る状態にしてほしいということを期待していたし、陳情してきたのです。なので、嘆願書や陳情書を次々に持ってきました。だけど、僕は言いました。「暫定的にまず使いましょうよ。使わないことがマイナスでしょ。本格利用をどうするかは後で考えればいいじゃないですか。調査費をつけたら、使い始めるのは5年目ぐらいからです。色々な禁止事項を書いた看板をつけます。そんなことをしていたら建物が死ぬじゃないですか。建物は人間が使うから、メンテナンスされるんですよ」と。それで、NPOを募集し、確か20ほどのNPOが入りました。電話代は払ってもらいますが、家賃は低額ということでしたから、応募は100以上あったと思います。そして、NPO共同オフィスがスタートしたのです。

 

 

■クリエイティブシティ・ヨコハマ構想

 

 NPO共同オフィスは、跡地を5年も放っておくことはなく、まずは使おうという単純な思考回路でしかありませんでしたが、実はこういうことをクリエイティブシティということを、やってから初めて知りました。学者が「こういうクリエイティブシティ・ヨコハマという構想をどんどんやっていきましょうよ」と言うわけです。古い建物を新しい形で使うことや、街の中に芸術を埋め込んでいくこと、ソフト事業を町と一体化させた形で展開させていくことなどを総称した「クリエイティブシティ」という考え方は欧米ではすでにあるものなんですと。

 「では、クリエイティブシティ・ヨコハマを目指そう」ということで、市長になって2年目の2003年からクリエイティブシティ・ヨコハマをまとめるために専門家に集まってもらい、クリエイティブシティ・ヨコハマ構想を作りました。そして、市長になって3年目から、クリエイティブシティ・ヨコハマ構想を実際にスタートさせました。結果としては、2008年、文化庁長官から文化芸術創造都市部門で表彰を受けました。 

 クリエイティブシティ・ヨコハマ構想では何をやったのか。横浜ならではの建物は何かを考えましたが、横浜には城がない。日本の名だたる都市で城がないのは、横浜ぐらいですが、歴史がないので城がないのです。では、何があるか。港だから倉庫があります。そこで、倉庫をアートに使おうと発想するわけです。アーティストは、キレイな場所や高層タワーマンション、煌びやかな外装と冷暖房完備で清潔な空間でなくていい。勝手に自由にやらせてほしいのです。音楽をやる人も、絵を描く人も、彫刻を作る人も、演劇をやる人も、アーティストは「好きにやっていいよ」と言われるのが有り難いのです。だから、倉庫を好きに使っていいですということで、「BankART横浜」というものをやりました。BankArtをかけて、BankART。今や、BankART横浜というのは、芸術アーティスト系の日本最大NPOになっています。いまだにクリエイティブシティ・ヨコハマの中でそのような活動をしています。そこから発展して自由に制作活動をしてもらい、やがてそこを横浜トリエンナーレのメイン会場にしていったのです。

 

 

■売春街を、アートで生き返らせる

 

 僕にとって返り血を浴びた凄まじい経験だったのは、売春街の撲滅でした。富山はそんなものがなくて、治安がいいですよね。横浜にはいろいろありましたし、今もあります。その一角で初黄・日ノ出町区域という、初音町・黄金町という2つの駅を結ぶ川沿いの京浜急行のガード下のエリアが一大売春街でした。これは僕が市長になった時の平成の話しです。どのような場所かは、黒澤明の映画「天国と地獄」を見れば分かります。この映画の中では、戦後間もない頃の格差社会の中で、御曹司が誘拐されます。その犯人が逃げ込むのがここです。当時の黄金町は、薬物中毒でラリっている男女や、逃げ隠れしている人間が日本から集まっている場所として映し出されていました。戦後の闇市から発展してきた怪しげなエリアが、昭和の経済成長期を経て、一大売春街になったのです。

 僕は横浜に住んでいましたが北部の方で、横浜中心地となる南部にある黄金町・初音町の売春エリアのことを全然知りませんでした。聞いてはいましたが、行ったことはなかったのです。市長になった時に「見たことあるか」と言われて行った時に、すごい世界があるなと仰天しました。たったひと駅の600mぐらいの川沿いに売春店舗が250店舗です。どれも間口の狭いプレハブ2階建て。それがタウンハウスのように同じものが並んでいる。本当に異様な世界。一応、バーという定義で営業許可が出ているのですが、タイムシェアしている女が座っていて、店の中、あるいは外まで出てきて客引きをする。客が入ったらそのまま2階に上がる。そういう状態。そこにいる女は、その頃は中国人、南米系が多かったです。

 この件については、もとより陳情は受けていました。地域住民から「あまりにも町が荒れ果てているので、市長として取り締まりをして欲しい」と。だけど、売春は神奈川県警・警察の仕事です。横浜市としては何ができるんだろうと思いながら2年が経った。市長への手紙は、毎日のように僕のところにきます。年間12万通ぐらい。全部見られませんから、市の広聴課が全部開封して、それをワープロで打ち直して、サマリーとして短いポイントだけが市長のところに週に1回来ます。そして、僕が関心を持ったところにチェックを入れると、現物が来るシステムです。その中に、小学校4年生の女の子からの手紙がありました。「市長さん、僕は朝、学校に行きたくありません。朝、学校に行く時、女の人が裸で歩いていたり、ミニスカートで男の人を誘ったりしています。何とかしてください」。こういう手紙を読んでしまったのです。読むと、もう観念します。おりしも当時、僕の娘は小学校4年生でした。自分の娘がこのエリアに住んでいて、こんな思いをしていたら切実だ。町の住民として大人として、声を上げて市長に陳情するよな、と思いました。それで僕は腰を上げたのです。神奈川県警に行き、警察庁長官のところに行き、国家公安委員長のところに行き、「何で取り締まらないのか、売春じゃないか。明らかに非合法じゃないか」と僕は公然と言いました。横浜市長から公然と言われたら、神奈川県警も動かざるを得ない。それで横浜市は、ありとあらゆる形で撲滅するために行政としてできることを行った。「本当にバーとしての体裁を整えていない場合は営業許可を出さない」ということを宣言したりしました。だけど、皆さんが考えるほど簡単なことではありません。許可を出さないということは、訴えられたらこちらが負ける可能性だって高いわけです。相手はやくざです。善良な女性が売春をやっていると思ったら間違いです。必ず裏にいくつもの組織がある。観念はしたけど、ぞっとする思いです。その頃から脅迫がしょっちゅう市役所にくるようになり、自宅に警察が見回りに来るというような状態が始まります。そして、僕に対する誹謗中傷が始まるわけです。その誹謗中傷はネットで検索すると今でも出てきます。愛人と称する女が出てきたり、わいせつ事件を起こしたとか、飲酒運転をしていたとか、この種の類の話しが週刊誌にどんどんねつ造されるわけです。週刊誌が何でこういうことを書くか、こういうことを売り込みにくる勢力がいるからです。誰か分かりますか。僕のことを面白くないと思っている連中にとっては格好の材料になるから、議会で騒ぎます。すると、「横浜市は市政大混乱」と週刊誌が扱う。こういうパターンです。全部、裁判をやらざるを得なかったですが、全部勝ちました。愛人と称する女の顔まで出して、慰謝料3000万円を要求してきました。裁判なんかやりたくない。馬鹿馬鹿しいです。弁護士費用を払うのはこちらですから。提訴も応訴も個人でするしかないのです。3000万円訴えてきた女をは応訴します。週刊誌を僕が提訴します。弁護士だって僕が雇うのです。女は慰謝料を払う気がないから、週刊誌から取りました。週刊現代、絶対読んではいけません。買わない、読まない、信じない。そうしないと頭がおかしくなります。2005年から神奈川県警の売買(バイバイ)作戦というのがスタートしました。売春街、買春と売春にバイバイということで撲滅キャンペーンに入って、初黄・日ノ出町区域はその後売春ができなくなりました。売春街の残骸だけがあります。プレハブは今でもあります。なぜかといったら、やくざが絡んで土地の権利関係が複雑だから、簡単に再開発ができないからです。

 ここをどう生き返らせるかも課題でした。売春街を撲滅するだけだったら、町は生き返らないです。現実、まだ完全に生き返ってはいませんが、僕はここもアートにしたいと思った。先ほども言いましたが、アーティストは自由に使えればいいのです。そこで、ここを人々の往来の場所にしようと、町の人や大学生に関わってもらって「黄金町バザール」という一大イベントを開催しました。関東学院大学がバーを作ったり、町の人たちがここで八百屋さんを始めたりして、空いているスペースを使いました。

 

 

デトロイトに見る、まちづくり

 

 今日の6時台にNHKニュースで、デトロイトからのレポートが流れていましたが、横浜のクリエイティブシティ構想と共通しているんです。デトロイトは、今やアメリカの財政破綻の1番の自治体です。日本円で1兆円以上の財政の借金を抱えてデトロイトは破産しました。かつては車の町だったデトロイトが、今やもぬけの殻。そこに町の再生を考えながら集まってきている一部の若者がいて、そこでやっているのは音楽だった。なぜなら、空き家がいっぱいあるから。そこを安く借りて音楽ができる。近所に誰もいないから、いくらでも音を出せる。だから、音楽の町には最高だと。町が音楽で再生されるかはともかくとして、彼らは音楽を自由にやりたいのです。廃墟の町を、そう使っていることが流れていたんです。

 まちづくりは往々にして、ハードだソフトだ、で論じられてしまいます。“ここに何かを造る、それを整備するのが市役所”という思考回路は、日本人がまちづくりという言葉に対して潜在的に持っているイメージです。だけど、そこにソフトという、建物をどう使うか。それは横浜のクリエイティブシティ構想もデトロイトの音楽もそう、倉庫や売春をしていたプレハブを好き勝手に使ってくださいという状態にして、そこに人が集まるようにした。そこから、新しいケミストリー(化学反応)が生まれて、何かの発信ができるような町になっていけばいいわけです。何らかの形でそこに人が集まって、五艘さんがこの1年何をやると考えておられたように、そこでそれぞれの自己目標、自分たちの満足度を高めるような生き方ができる空間として使われるようにしていけばよいのです。だけど、今、僕が言ったまちづくりも、ソフト、ハードという、この枠組みからはある意味では抜け出せていないわけでもあります。

 

 

■行き着く先は、主体性

 

 僕が最後に申し上げたいのは、結局まちづくりって、誰がやるんだという主体性、主体論に行き着きます。これが、冒頭に言った「五艘さんの話しと最後は一緒になりますよ」の結論になるわけです。一人ひとりがどれだけ自立をして生きるか、それが社会としての機能であるということを考えた時に、それは誰が主体になってやるのか。そして、行政というのはそれを全部引き受ける事業実行主体ではない。ただし、計画を作ったり、許可を与えたりする責任は行政が持っている。そこの担い手主体には、色々なセクターがあり、それぞれのセクターにはそれぞれの自己目的が必ずある。自己目的の自己実現のために活かせる、活かしていく、ということが結果として、まちづくりの活力になっていく。だから、使い方の方向性は行政が考えていく。声を集めて計画を作ればいい。ただし、それを賄うのが行政だと思ってはいけません。そこから先は違うというふうに僕は思っています。

 先ほど言いましたが、僕は帰国前にメキシコのプエルトパジャルタというところにいました。APPF「アジア・太平洋議員フォーラム」があり、25カ国の国会議員が集まって、朝から晩まで真面目な議論ばかりをしていました。目的は会議ですが、町のことが全然分からないということで、最終日の午前中だけ町を見に行きました。そこで僕が何をしていたかは動画でアップしましたのでぜひ見てください。このリゾート地を見に行った時も、まちづくりついて考えました。アメリカ人、カナダ人が結構来ていて、海沿いの砂浜にパラソルが立ち、たくさんのカフェが並んでいるんです。そのカフェもお茶を飲む程度ではなくて、イタリアンからメキシカンから色々な料理のお店がビーチに出ています。しかも、砂浜から少し上がった道路は、車のための道路ではなくて、人が歩く道路。人が歩くだけのところでした。これひとつとってみても、日本では覆せない。「湘南の国道134号の1番いい海岸線の道路を車が入れないようにしましょうよ」と言っても、国土交通省がそんなの許しません。こういう馬鹿馬鹿しさはありますが、富山でも何ができるか考えてみていただきたいなと思います。僕は、自分たちのDNAや歴史、資産を無理矢理壊して何かを造ることは、全然まちづくりではないと思います。それをどう活用していくか、あるいは全く関係ない新しい要素を見つけるか。そういった中に、まちづくりの面白さがあるのではないかなと思っています。

 長々とお話しをしましたが、この『失敗の整理術』、800円です。別に無理して買わなくていいです。まだ発売前日です。価値があるかは分かりませんが、47ページからは4ページほど五艘さんのことを書いておりますので、関心のある方には後ほどサインを一筆書かせていただきたいと思っております。ありがとうございました。

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