レポート
まちづくりセミナー2013
まちづくりセミナー 第五回講演録 講師 アサダワタル氏
2014/02/24
■ タイトル
「表現すること 社会を触ること」
〜一人ではなく、同質的でもなく〜
皆さん、どうもよろしくお願いします。初めまして、アサダワタルと申します。
ご紹介にあったように、僕は何の専門家でもなく、その脱専門的なあり方そのものをテーマに活動しています。まちづくりで例えると、都市計画や地域政策という「分野」専門にすることを自分のテーマにしているわけではないということです。音楽や表現活動は自分にとって一番長く続けていることなので、表現活動がひとつの専門分野、テーマではありますが、それも"音楽なら音楽"、"美術なら美術"というような領域の中に閉じるというよりは、それ自体が社会にどう開かれていくのかということに、ある時期から関心を持つようになりました。それが結果的に、まちづくりや福祉の分野、教育に関わらせていただくことになっています。ここ数年の間に、色々な領域の方々と一緒にお仕事をさせていただいたり、こういった場でお話をさせていただくようになっています。
今日のテーマは、「表現すること 社会を触ること 〜一人ではなく、同質的でもなく〜」です。僕自身は関西を活動のベースにしながら、色々なまちで滞在制作をしたり、プロジェクトをしたり、そのことを文章に書いたりということを繰り返しながら生活をしているのですが、やりたいことへの妄想を膨らませたり、あるいは何かしらの形で表現活動をしています。表現というのは、音楽や絵を描くことだけでなく、日記を書く、料理を作るなど、形に表すということだったら何でもいいのですが、ただ考えているだけのことを形に表すことで初めて他の人たちが、それについて「面白いね」「美味しいね」「きれいやね」と喋ってもらえる、そういったコミュニケーションが生まれてくると思うんです。そして、それについてさらなる対話が起きてくる。だから、その人が「表現というよりも、日々やってるだけのことやしな……」と思っていても、「それって実は表現活動なんじゃないの?」というようなことを色々言っていくということをやっています。その人が作ったものを通して、その人の才能や価値観、背景など色々なことを知って、人付き合いや関係性が新たに更新されていったり、そういうことが起きていったらコミュニティとして風通しがいいのになということをよく思っています。
■「住み開き」のきっかけは、シェアハウス
僕のやっていることで皆さんが比較的関心を持たれているのは、「住み開き」というプロジェクトじゃないかなと思います。2年前に本を出したことで、まちづくりに関わられている方々により関心を持っていただけるようになったので、この話を最初にしながら、自分の活動のお話をさせていただきたいなと思います。
「住み開き」という言葉は、2008年の秋口に僕が作った、それまでにはなかった言葉です。この言葉の意味を簡単に説明すると、"個人の家"の一部、あるいは全室を、友人だけではなく、全く知らない他人も含めて集まれるようなパブリックな場所へと自分の好きなことをきっかけに無理なく変えていくということなんです。
なぜ、こんなことを考えたかというと、2006年から2010年まで大阪の南森まちという比較的都市部のまちの住居用マンションの一室(208号室)を使って、6人ぐらいでシェアをしていた時期があったんですね。その6人は、表現活動をしている人や百貨店勤めのバイヤー、webデザイナー、広告映像を制作する会社勤めの人など、比較的クリエイティブなことに携わっている仲間ではありましが、職種は色々でした。厳密に言うと、みんなが住民票を移して住んでいる場所ではなく、それぞれに家が別のところにありました。でも、家が京都や宝塚など大阪から離れたところだったので、週に3日間だけ生活するセカンドハウスでもあり、事務所として使うセカンドオフィスでもありました。誰かと誰かが名刺交換をしている時に、別の誰がお風呂から出てくるということが混じるスペースだったんですよ。そんなおかしな状況が生まれるような場所だったんですね。それが意図的にやっていたことでもあります。今はシェアハウスが増えてきて随分状況が変わってきたと思いますが、これをやり始めた10年前(プロジェクトは2004年に開始)は普通の家を使って何かをするということがあんまりなかったんですね。でも、たまたま縁があって、208号室のメンバーになって色々なイベントをしていました。
■住み開きアートプロジェクト2009
僕自身は、行政の方と仕事をすることが比較的多いんです。今は滋賀に住んでいるので、滋賀県の方と仕事をすることが多いのですが、当時は大阪に住んでいましたので、大阪市の方と仕事をしていました。文化振興のところや都市政策、あるいは市民恊働に関わるところなど、色々な部局の方と仕事をしました。数年前は文化系の担当の方と仕事をしましたが、事業委託などを継続しながら公共性の高い事業をしていくわけですね。僕自身が講座やワークショップなどで講師する時もあれば、コーディネートする時もありました。今日、僕はゲストですが、日が変わればホスト側にいる可能性も大いにあるわけです。そして様々な公共的なスペースでたくさんの人を呼んでイベントをするわけです。
一方、15人ぐらいしか入れないような狭い自宅スペースでイベントをする。これは僕らが月1回やっていたホームパーティのことで、誰が来てもいいように15人限定でwebだけで情報を公開して、予約してくださった方だけにこっそり住所を教えるという方法でやっていました。誰がゲストで誰がホストなのか分からないような状況の中、1時間みんなでパスタを食べるんですよ。その1時間後に「そろそろやりましょか」という感じで喋る。こういうゆるやかな形、それぞれの立場の敷居がなくて、15人しか入れないというようなことは行政で仕事をさせてもらった時には逆にできなかったことなんです。それをデメリットととることもできるんです。全然予算なんてかけられないし、ゲストに対しても謝礼をj払ってあげられれない。プライベートな空間でやるということに意義を感じてくださったゲストに来ていただく。有名な方にも結構来ていただきましたが、他の講演会では絶対喋らないことも喋って帰るということが、そういうプライベートな空気感のある場所だからこそ起きたり。その時に、家というところを使って、“小さい公共”というものを作っていける可能性があるなと思いました。これが1つ目に気付いたことですね。
もう1つ気付いたことがあります。それが継続性。幾つかのプロジェクトをしている時に、耐震構造の問題で追い出されたり、あるいは経済的な事情で10年の計画が5年で終わったりして、「年度の限られた事業をやる時に、その地域に何を残していくか」についてとても悩んだんですよね。当然、住み開きのスペースはお金になんかならないです。ただ、住人が自分たちで面白いと思えるからやっているだけなんですよね。そして行政とともにやる仕事でも同じようにゲストを呼んでいて、同じようなことをやっているんですよ。でも、その場の雰囲気は、喩えが古いですがカセットテープのA面とB面みたいにすごく違うということが分かった。これはひょっとしたら、自分が文化政策としてやっていく部分と全然違うチャンネルで、形を変えながらでも継続してやっていけることなのではないかと。自分の足もとにある小さい家みたいなところから始めていったらいいんじゃないかと妄想が働いて、大阪市内にある自宅を幾つか使ったスペースをネットワークして、全部をまわっていくイベントをやろうと思い、そのイベントを大阪市の文化事業の最終年度でやることができました。「この考え方だけをばらまきたいからやらせてくれ」ということで、始まったプロジェクトなんです。「自分だけの場所をみんなのためにちょっとだけ開く。そんな楽しい一手間についてちょっとだけ考えてみませんか」って。「ちょっとだけ、ちょっとだけ」ってチラシに書きすぎていてしつこいですけどね(笑)。こういうプロジェクトを文化事業としてやるために、「住み開きアートプロジェクト2009」と名付けました。当時の大阪市の担当の方には、一緒に恊働させていただいて、色々ご理解いただきましたね。
住み開きアートプロジェクトでは、家で絵本図書館みたいなことをやっている人や、自宅の屋上の家庭農園でとれた野菜を人を招いてみんなで食べている人、家が洞窟博物館になっている「さわ洞くつハウス」のおじいちゃん、川沿いの倉庫に住んで1階をライブハウスにしているミュージシャンなど、色々な方の自宅に10人ずつぐらいゲストを連れて行って、その家の家主さんに話を聞いていくということをしました。大家さんの活動ジャンルはバラバラです。一緒にプロジェクトをやっていたスタッフとともに企画をし、メディアにも取り上げていただいて、「住み開き」という考え方がちょっとずつ広がりました。自分だけが住み開きアートプロジェクトをやると世代が偏りがちになるので、色々な方をネットワークできるよう、できるだけ偏らないことを意識しました。また、このプロジェクトのことが掲載された新聞を見て一番電話をかけてくださった方は、アート関係者ではなくて、60代の女性の方だったんです。「私の家も地域に開放したい」という方の相談に乗ったりしながら、ちょっとずつまちづくり関係の方の拠点として家を使うという発想を持たれた方ともつながっていきました。こういった諸々は『住み開き 家から始めるコミュニティ』(筑摩書房)という本に書いてありますので、ぜひ買っていただけたら有り難いのですが、これ以上は何も言いません(笑)。図書館にもあると思いますので、読んでください。
住み開きアートプロジェクトは、僕にとっては表現活動の一環として場作りをしてきた中で生まれた発想であり、それがたまたま「まち」というところにつながっているということなのです。まず最初にこの話をさせていただいたうえで、全体の話をさせていただきます。
■1から10を生み出す、日常編集家
今日、テーマが1個ありまして、僕は日常編集家という肩書きを名乗っているんですね。この肩書きは完全にオリジナルなもので、誰もいません。恐らく僕だけだと思います。まず「日常再編集」というコンセプトを勝手に作ったんですよね。まず、読み上げてみます。
日常再編集(にちじょうさいへんしゅう)とは、あなたの目の前にある日常風景・状況を整理し、そこから自らの関心を引き出し、その関心を表現(他者に伝えるための創造的な媒体—文章、映像、音楽、写真、ウェブ、イベント、企画、スペース etc…)へと編集しなおすこと。
結果的に分野、組織、地域、公私、様々な関係性を編み直す可能性を秘めているらしい。
一定の方針に従って、素材を整理し、取捨選択し、構成し、最終的な媒体に纏め上げること。
素材をイチから作るのではなく、色々な素材を組み合わせる。スーパーの野菜やお肉などを組み合わせて、今日はこういうふうなテーマで何を作ろうといって調理していく。編集はよく料理に例えられるのですが、ゼロからイチを生み出すのではなく、イチをいっぱいかき合わせていって10を生み出すような作業が編集です。この考え方だけは僕の中にずっとあるんですね。12年前ぐらいに音楽だけをやっていた頃も、編集というテーマで音楽をやっていました。
■悶々とした時代
僕自身が1番長くやっていることは、ドラムの演奏や歌唱などの音楽活動でして、大学在学中からCDを出したり、色々なバンドとお付き合いをさせていただいたりして、活動をしていました。ただ、音楽だけで生活をしていくのは、なかなか大変なんですよね。12年前に大学を卒業した時、就職活動は一切せず、そのままフリーターになったので、「音楽活動をしている自分というものを、どうやって社会の中で生かしていったらええんやろ」ということを漠然と思いながら、一方で生計を立てるために日々バイトをするという生活を送っていました。
しかも、僕がやっていた音楽というのは、到底売れるような音楽ではなかったわけです。元々バンドをやっていて、そのバンドはそこそこいい線までいったんですけど、バンドっていろいろなことが勃発して解散するんですよね(笑)。それから、ソロでやっていた時に、演奏してくれているギターが写っているテレビを持って歌ったり、自分の歌や色々な歌が入った約200本のカセットテープをがちゃがちゃ動かして、それをその場でつぎはぎにするようなDJ的なパフォーマンスをしたり、背中にテレビモニターを背負ったり、何かよく分からないことをやってました。とにかく、音楽の言葉で言うところの“リミックス”するということを愚直にやっていたんですね。最近、自分の中では、表現は音楽表現から日常全体で表現するというふうに変わっていったので、ソロ活動の内容は随分変わりましたが、その延長線上でドラマーとして現在までずっとやり続けているSjQというユニットでは、日本各地、海外も含めて色々なところで活動をさせていただいています。音楽は、自分の中でとても重要な妄想を膨らます源泉なので、ひたすらやり続けていますが、ある時期からそれが音楽だけじゃなくなる時期がありました。
ソロの時は色々なメディアを使って歌いながら、フリーターで働いていました。色々なアーティストとの出会いがあって、映像や美術の方と組んだり、スペースやイベントをオーガナイズしている一方で、「もうちょっとちゃんと働いた方がいいかな」と思って契約社員になったりして、自分の中で思っていることと現実にやっていることが乖離していったんですよね。社会的な立場は音楽をやっているとは言え、それで食えていないと「君、フリーターでしょ」といわれるし、「どこどこの会社で働いているのね」といわれるし、大学の時は「学生さんなのね」といわれるわけですよね。そういう社会的な立場と自分が目指す表現との接点がまるで見えなかった。ミュージシャンとしてものすごく分かりやすいのは、CDを出して売れる、ライブをがんがんやる、いい曲を書くなど、色々な道があるんですよね、でも、矛盾しているようなのですが、「そういうもんでもないよな」と思い始めたんですよ。というのは、僕はコブクロとかがよく路上で演奏していた堺出身なんですけど、でもそういう人たちがやるような場所でそもそもライブをやってないんですよ。実験的なところやギャラリーでやったりしている。そういうことをやっている時に1番思うことがあって、そこには同じ客が来るんです。同じ客じゃなくても、同じ匂いのする人たちが集まってくる。同質的になってくるのが、お互いに分かるんですよね。で、そこにはコミュニティができるんです。居心地もいいんです。自分のことを分かってくれて面白いねって言ってくれて。でも、何か物足りないというか、外に開かれていないという感じがすごくしました。もちろん、この考え方自体も賛否両論あると思うんですね。そういうような中でも色々な開き方があって、僕の場合は銭湯や病院、お寺など色々な場所に表現活動ができる可能性もあるといいのになと漠然と思っていましたが、いかんせん音楽しかやったことがないので、音楽や美術などアート関係のネットワークしかないのでどうすればいいのか分からないわけなんです。今でこそ、越後妻有トリエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭など、各地でまちづくりとアートをテーマにしたようなものが増えていますよね。そういうふうにまちの環境を生かして何かをするみたいなことは、かつてよりは随分増えているけれど、12年前は数も多くないし、僕自身が知り得なかったというのもあって漠然としていましたが、ある出会いがきっかけで、そこがつながる瞬間があったんですね。
■転機のきっかけは、NPOとの出会い。
その出会いは、芸術活動をしているNPOだったんですね。当時の僕は、NPOについて浅い知識と曖昧な固定観念しか持っていませんでしたが、大阪市の交通局と信託銀行が建てた「新世界フェスティバルゲート」という都市型遊園地で出会ってしまいました。その遊園地、今はないです。1997年にオープンしましたが、2007年に完全にテナントが撤退しました。その遊園地があった場所は、大阪の浪速区の新今宮という、難波と阿倍野の間ぐらいのところで結構南のエリアなんですね。大阪のこてこての串カツや通天閣があるエリアで、観光客は多い。当時、話題になりました。「こんな都会の真ん中で、なんで遊園地なん?」って。最初は物珍しいから、みんな行くんですよね。でも、3年後ぐらいに経営がめちゃくちゃやばくなるんです。テナントがどんどん出て行って、空き店舗続出。ゴーストタウンみたいになりました。
そこで、2002年から大阪市の文化政策の部局が、ここを現代アートの拠点としてアーティストに使ってもらって、大阪の文化創造の拠点にしていくというプロジェクトを始めました。非常に面白くてクレバーな行政職員の方がおられて、その方が構想を練り、色々な方々が入ってここが文化政策としてスタートして、大阪市と大阪市内で活動する芸術系のNPOが契約をして、ここのテナントに入る。ここの家賃と光熱費は税金で支払われて、運営や活動費は自分たちで稼ぐという公設置民営という方法で、プロジェクトが始まりました。「新世界アーツパーク」ということで、4つのNPOと2つの任意団体と1つの事務局が入ったのですが、最初僕はここにライブで呼んでもらったんですよ。ただ、何か気になりますよね。元遊園地だったところが、実験的なライブハウスになるわけがないと。一応、法学部で政治行政の勉強はしていたので、この背景が何かがとても気になって色々な人に聞いて回ったら、この場所の家賃などが税金で担われているということが分かった。その時、芸術家が入ることの意味など色々考えて、僕は「自分が考えている表現活動と社会で生きていくということを、ここだとつなげられるんじゃないか」と思ったんですよ。
■ココルーム
最初にお世話になったのが、新世界アーツパークの4階にあった、「こえとこころとことばの部屋」という名前のNPO(2003年5月開館当時は任意団体、2004年10月にNPO法人格取得)が運営するココルームというスペースでした。このスペースは元中華料理屋さんを立ち上げ期のスタッフで改装したもので、NPOの代表理事が詩人なんです。音楽家の副代表理事がいて、その他演劇関係の人など色々いて、その中に2003年10月に一ボランティアスタッフとして入りました。ここでは、自分たちの運営資金を稼ぐためにカフェをやっていました。開かれたカフェなので色々な人たちが来るんです。最初は人脈が近い芸術関係の人たちとそういった話をするのですが、ある段階からすごく多様な層が混じってくるんです。
大阪市の隣まちに西成区というエリアがありまして、そこにあいりん地区という場所があります。この地区については、皆さんそれぞれ色々なイメージをお持ちだと思いますが、このまちで働いているおじさんたちは自分たちのまちのことを釜ヶ﨑といいます。ただ、それは地図上にはない地名で、行政用語ではあいりん地区といいます。西成区の動物前商店まちという、天王寺動物園の前に広がっているエリアは、日本一日雇い労働者多いまち、日本一生活保護受給者が多いまち、日本一ホームレスが多いまちとして全国的に有名で、グローバル経済のひずみというか、あらゆる社会問題、つまり就労や社会保障、障害者福祉などのしわ寄せがそこに来ていて、マスメディアではネガティブなイメージでまち放送されることが多いです。「西成のまちを一人で歩いたらあかん」、「特に女性の方は夜一人で行ったらあかんよ」というふうに、親や学校の先生からいわれるようなまちなんですね。僕自身も子どもの頃大阪の堺に住んでいたので、このまちのイメージは大人たちからそのように植え付けられてきた経緯があります。でも、このカフェに来ておじさん一人ひとりがと話をするわけです。最初は酒を飲んでくだを巻いていかれることも度々ありましたが、色々話していくうちに、どうしてこのまちに辿り着いたかというライフストーリーをし始めるんですね。企業に勤めていてリストラにあって来られた方など、一人ひとり喋ると全く背景が違う。阪神淡路大震災の後に自分の家財をなくしてしまって西成のまちに辿り着いた元ピアニストの方や、東京の山野というまちから西成に移り住んでずっと詩集を作り続けている方など、表現活動を行う人達との出会いもあったんです。
■むすびプロジェクト
ココルームでは、ホームレス(といってもブルーシートで小屋を張っている人もいれば、安い宿に毎日泊まっている、今でいうネットカフェ難民みたいな人もいれば、道ばたで段ボール一枚で寝ている人もいる。とにかく一言でホームレスと言っても実に多様で、目に見えてホームレスと分かる人もいれば、分からない人の方がむしろ多いかもしれません。)の経験をして、福祉マンションで生活保護を受けながら住んでいるおじいちゃんたちが紙芝居をやっている「むすび」というチームと出会い、そのチームを支援している福祉団体やまちづくりに関わっている方との出会いも生まれていきます。ココルームでトークイベントや上映会、ワークショップなどを色々しましたが、2004年10月に日本でイギリス発祥の"ビックイシュー"という雑誌が発刊されます。これはホームレスの方と日雇い労働の方だけが売ることのできる雑誌なんですね。社会起業の一環で、300円売り上げのうち、ある収入がその方に入り、ある収入が有限会社ビックイシューの運営にまわるというコミュニティビジネスの仕組みです。
その雑誌が創刊した時期に、「むすび」というチームや、僕が一緒にパフォーマンスをしていた橘安純さんという動物園の橋の上に小屋を建てて住んでいた詩人の方など、色々な方々と一緒にここで舞台をするんですね。僕らができることは、詩を読む、ライブをする、演劇をする、絵を描くことなんですよ。カフェをやりながら出会った人たちがいて、「このことと自分たちが表現者として生きていることを、どうつなぎ合わせたらいいんだろう」ということを考えて、「リーディング・ザ・ビックイシュー」というイベントでパフォーマンスとトークを2004年にやるんですね。ちょうどその頃、「常駐スタッフにならないか」と声をかけていただいたので仕事を辞めて、ここで表現活動を1本化しようと思って正職員になりました。給料は半分以下に減りますが、そんなことよりもそのときは自分の地盤を作ることを優先したんです。
その後、、ココルームが「むすび」のマネジメントに入り、コミュニティビジネスの助成金を取ってきて、彼らの社会貢献や生き甲斐作りもできるようなソーシャルワーカーであり芸術のコーディネーターでもあるようなマネージャーを派遣するという事業をやりました。石橋友美さんという方が現在も実に細やかに、むすびのお世話をされてます。なおかつ、紙芝居自体を色々なアーティストとコラボレーションしていけるよう、コンテンポラリーダンサーやミュージシャンを送り込んで、紙芝居の作品自体を面白くしていきました。同時に公演の仕事を取ってくるなど、彼らの日常的なケアをする福祉と、表現活動を世話するアート、そしてそれらの総体をまちまちと繋いでいくような活動が複合的に混じったプロジェクト、それが「むすびプロジェクト」でした。僕は記録担当だったので、市民メディアの団体から制作助成をうけてそれでドキュメンタリー映画を1本()作ったので、機会があったらお見せしたいなと思います。(http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/126にてご覧いただけます)そういうことをしていくと、自分が気持ちよく表現活動をし続ける延長線上に「こういう今までになかった出会いがあるんや」ということが分かっていき、そしてまた支援している団体さんとも出会っていく中で、今度は障害のある方と「舞台活動をしましょう!」ということで始める。新たに助成金を取ってくるなど、表現活動というものがだんだん社会化していき、まちにつながっていく。こういったことを「表現を軸に分野・コミュニティを編み直す」という言い方を僕自身はしています。
■お寺や港まちのビルで、色々な事業を仕掛ける
2006年以降ココルームの現場を離れ、いくつかのアートプロジェクト、拠点の企画運営に携わります。次に関わった現場は、浄土宗の應典院というお寺なんですね。なぜ、いきなりお寺かというと、ここの住職 秋田光彦さんとう方でお寺を拠点にかなり熱心に文化・まちづくり活動をされている方で、元々ココルームとお付き合いがあったんです。僕が色々な事情で「ココルームを離れようかな」と思い、しばらく別の仕事をしていた時に「一緒に働かんか」とお声をかけていただいたので、このお寺を舞台に活動をするようになりました。その住職は、元々映画プロデューサーでもありました。東京で映画の活動や演劇の勉強をされていましたが、大阪に帰られてお寺を継ぎましたが、お寺を文化活動や福祉の拠点としてまちにもっと開いていけるんじゃないかとお考えになって、お寺の本堂を文化ホールのような設えに改装したんですね。本堂なので当然御本尊様がおられます。このホールで演劇公演やトークイベント、ワークショップやエンディングセミナー、現代アートの展示など色々な活動をしていきます。應典院の階段からはお墓が見えるのですが、窓から見えるお墓の間に大阪の都市の写真をはめ込んでいくと、都市がお墓にも見え、お墓が都市まちにも見える、こういった現代アートの展示を僕が関わる前から先進的に企画していた場所なんですね。あるいは美術家の方と組んで、阪神淡路大震災の14年目の1月に「減災のブリコラージュ展」を開催したりました。その展示では、災害を減らすために普段からどういう知恵を働かせるかということで、日常品を天井からぶら下げて、それらが災害の時にどう役立つかということを参加者に問いかけるような展示とワークショップをしました。このように、お寺の中に色々な事業を仕掛けていくということをやらせていただくようになりました。
同時期に、大阪市の文化事業を4年間受託して活動していました。これは應典院が運営する應典院寺まち倶楽部というNPOが受託したもので、事業を展開した地名にちなんで「築港ARC(ちっこうアーク)」(ARCはアートリソースセンターの略)というプロジェクトです。大阪の築港という港まちの、もともと港湾局だった建物で、まちづくりや社会活動を行う方々が集まる集合ビルの一室を借りて、アートスペースを運営したました。僕はここのチーフディレクタ―に就任しました。関西の芸術文化系NPO活動のネットワークを通じて、市民が様々な地域や分野で、アートをコミュニケーションの潤滑油として活用していく、そういった情報発信と機会創出を目的とsする事業でした。僕らは、関西の色々な団体を訪問してその知恵を蓄積していく勉強会を開いたり、勉強会を開く中で教育機関に芸術家を送り込むようなコーディネートを行ったり、地元の銭湯と組んでライブイベントの企画をお手伝いしたりと、色々なことをやりました。
■日常をアートの視点で捉える、30回のトークイベント
築港ARCの時に、30回やり続けたトークイベントがあったんですね。そのイベントは「ARCトークコンピレーション」という名で、企画リード文には「アートの視点から様々な分野の社会への見つめ方を紹介するトークサロン」と書かれていました。
自分は、日常を「どんな面白い種が落ちているか」というふうに見ていることがすごく多いんですね。例えば美術館やライブハウスというよりは、歯医者さんやお米屋さんの活動がめっちゃクリエイティブなことに見えたりすることがあったんです。そうしたアート的な感覚を、もっと社会に転用することができたら面白いなと思って、トークイベントを開催することにしました。
30回色々なゲストを呼ぶのですが、呼ばれた方はほとんどアートと関係のない方ばかりなんです。例えば、歯医者さん、お米屋さん、地理学者、図書館の職員さん、銭湯の経営者、商店まちの方、料理人など色々な人を呼びました。お米屋さんは、ネットラジオをやり続けている人で、iTunesのポッドキャストで高順位を記録したのですが、その人になぜそういうことをしているのか話をしてもらったりしました。
僕が面白いなと思ったのは、大阪の歯科医院の歯医者さんでした。歯医者の診察室の横の部屋を活用して地域交流スペースとして開放して、釣りなどの趣味の座談会や、カレーについて語り合う日や映画上映会をしているんです。なぜ、こういうことをしているのか院長に聞くと、ひとつは、予防医療のためだと。歯医者には歯が痛くなってから来るけど、本当は生活習慣そのものからお付き合いしていく必要があると。地域の方々が普段どう暮らしているかは診療時間内でも聞けるけど、それ以外のお付き合いの場を設けることによって、もっと予防ということが分かるんじゃないかという、予防の本質的なところを掴んだ上で地域交流スペースを設けているんですね。一見、「なんでそういうことをやっているの?」ということが、その人たちが専門分野の本質を突き詰めていった時、その専門分野では出てこなさそうなものが出てくる。そして、その知恵は全然別の分野に活かせる可能性があるんですよね。僕は、それを“表現”、あるいは広義の“アート”だと思ったので、そういった活動に「アート」という冠をあえてつけて紹介していくことにしたんです。
30組のゲストを毎回呼び続けることは、自分にとっても肥やしになりました。やっぱり、ジャンルは超えないといけない。超えていくことで、表現を日常生活に、あるいは地域まちに漏れ出していくことができるから。トークイベントをやり続けた結果、小学校の先生で総合学習で面白い活動をされている人をゲストに呼んだ時、そのトークを聞きに来た方から「うちの小学校でもワークショップができないですかね」という相談を受けてコーディネートが生まれたりしました。柱としては、色々な知恵を持っていて自分たちの分野の中で表現活動的なことをやっている人たちを、また別の分野の色々な人と会わせていく、友達にしていく。そうしたら、何かが生まれていき、それぞれの専門分野に通気口が開いて風が吹いていく。このトークイベントでも色々な実験をやらせてもらっていました。
■福祉と人とまちを、アートでつなぐ。
日常生活を仕事と関わらせるという意味ですごく興味を持ったのが、福祉という分野だったんですね。自分自身、「俺は表現者という立ち位置から外れません」というのはちょっとせこいなというか、なんか違うなと思っていて、表現者としてまちやコミュニティと関わる前に表現者とは違う経験を積むことも必要だと思い、ヘルパー2級の資格を取得しました。そして、ヘルパーの仕事をボランティアでしながら、福祉の方々と関係性を作っていったほぼ同時期に、障害のある方の表現活動の紹介やマネジメントに先駆的に取り組んでいる滋賀県社会福祉事業団から、「施設利用者の表現活動を社会に伝えていく必要があるんじゃないか」という相談を受けて、全国の障害者施設で行われているパフォーマンスの記録誌を作り、「アーツというツールで支援のいらない場をつくってみよう」というちょっと挑戦的なタイトルのワークショップ&ライブ&シンポジウムを開催しました。いわゆる支援ではなく、表現活動をする上で、障害のある人もヘルパーなどの支援者も同等の関係性を、そう、日常とは別レイヤーの関係性をもう一つ用意することで、福祉の中の日常も変わるのではないかとということで、福祉関係者やコンテポラリーダンサーたちと一緒に場作りに関わらせていただきました。今現在は、同じく滋賀県社会福祉事業団が運営知る美術館 ボーダレス・アートミュージアムNO-MAにも関わっています。この美術館は、障害のある方の作品や現代美術作家の作品など、各企画展ごとにボーダレスに展示することを10年続けているのですが、そこの運営委員を3年前から務めています。そこでは、編者として『アール・ブリュット アート 日本』(平凡社)を作りました。福祉と芸術はどう絡むか。それが場合によってはまちとも絡むということも含めて様々に書いている本です。
■やりたいことをやるために社会と関わる
僕が編集していく素材は、最初は音や音楽から始まりましたが、まちで起きている日常そのものをどうやって変えていくかというふうになっていきました。僕はまちづくりをやろうと思ってやったわけじゃなくて、一人の人間として気持ちよく自分のやりたいことをやって生きていきたいということを突き詰めている延長に今の活動はあります。。極論を言えば、ずっとそうです。自分のやりたいことをやって生きていく結果が、社会と関わるようにしないといけないと思っているんですよ。そうなれば、自分のやりたいことが、日常の中に埋め込んでいけると思ったんですね。今まで色んなタイプの表現という地雷を日常の中に埋め込んできました。時には、「住み開き」のように比較的広範な人々に影響を与える、そういう爆発の仕方をするケースもありますが、日常にまず自分が面白いと思える表現を提示して、そこに「面白いね!」と人が集まってきて、その時にその表現がある程度開かれていたら、色々な領域で色々な仕事をしている人たちが何かしら興味を持ってくれるという確信があるんです。そこさえ忘れなければ、結果的にまちづくりにつながるだろうという考えで、まちにも関わらせてもらっています。
■「釜ヶ﨑まち頭テレビ カマン!TV」
先ほどお話ししたココルームというスペースは、新世界アーツパークから5年、2007年に出て行かざるを得なくなり、その移転先がお付き合いの深い西成地区でした。その頃は僕は理事という立場に変わっていましたが、その移転後にココルームとともに立ち上げたスペース「カマン!メディアセンター」の初期に、地域の人々が集まるきっかけを作るためにやったのが、釜ヶ﨑街頭テレビ「カマン!TV」というプロジェクトです。これは、まさに「編集」なのですが、まずオレンジ色の板製の箱の口の中がテレビになっています。その上にパソコンがあって、僕がここで日々映像を流し続けていました。僕は、おっちゃんたちが立ち止まるような映像を考えて、リストを組んでいました。どんなリストかというと、1970年の大阪万博や1964年の東京オリンピックの映像、あるいは70〜80年代の歌謡曲・事件・スポーツなどの映像です。それらを全部YouTubeから引っ張ってきて独自のプレイリストを作って、それを上映しているだけなのです。なにせ道ばたに向けてやっているので、行き交う人々が結構立ち止まってくださるんですね。大阪万博の映像が流れている時に、立ち止まっているおじさんに話しかけると、「大阪万博を思い出すも何も、わしらここで働いていたからな」と話し出すわけですよね。まちで労働をしているおっちゃんたちが一瞬自分の記憶が想起されるような映像を見ることによって、何か語り出すということが生まれるんですね。若いスタッフもおっちゃんと喋ると、おっちゃんが自分のことをその子たちに教えるかのようにどんどん喋っていく。まちの中で会っていきなり会話はできないけど、1個こういったメディアを挟むことで会話を生んでいくというプロジェクトをやりました。
今、ココルームはすっかり西成のまちに溶け込んで、福祉マンション・支援ハウスの運営をしたり、アートの枠組みを超えた色々な活動をしています。僕がこのカマン!TVをやっていたのは2009〜2011年の3年間でした。
■青森・八戸でのプロジェクト
2010年6月〜7月、青森県の八戸市に2ヶ月間滞在して、市民恊働や文化、観光に関わる部局の方々と市民の方々と一緒にプロジェクトをやりました。八戸市の中心市街地の空き店舗を活用したコミュニティプロジェクトです。僕にはもともと服屋で2階にキッチンがあるスペースを用意してくれましたが、ここを使って八戸のまちの方々が交流するスペースを期間限定で作りました。「八戸の棚Remix!!!!!!!!」というプロジェクトです。
八戸ポータルミュージアムhacchiという建物は、市民の方々が自由なことを提案して使っていけるスペースになっています。僕が呼ばれた時、まだhacchiはできていませんでしたが、その建物ができる前に、市民の交流を促すような「小さなhacchi」を造ろうということで、僕のレジデンスが開催されたわけです。そしてhacchiはその後の2011年2月11日にできました。震災のちょうど1ヶ月前です。まずぼくはhacchiができる前のレジデンススペースにてで地元の料理人の方や商店まちの方や大学教員や学生など様々な方々と一緒に語り合う座談会を開いたり、食を通じて色々なワークショップをしたり、その部屋自体を日々作り替えたり、色んな遊びをやっていたわけなんです。料理のワークショップに関しては子供たちと一緒に買い物に行って、子供たちが自由に選んでいる様子を映像に記録しながら、後でその映像を見ながら親御さんとご飯を食べる会を開いたり、座談会に関しては地元の方々に八戸のまちで生まれてどういうふうな生活を送ってきて、なぜいまこのまちで仕事・活動をしているのかを僕が取材をしていきながら、そのことに関連する映像や資料や音声が、モニターやスクリーンから漏れ出して来る、そういったパフォーマンス仕掛けの座談会をしたりと、色々なことをやりました。
また、自分的に気に入っているプログラムが「尾行ご飯サークル」ですね。これは、地元の野菜ソムリエの方と女子大生たちと一緒にしたのですが、八戸のスーパーに協力してもらって、買い物客からターゲットを決めて、その人を参加者が尾行します。ターゲットがカゴに入れたものと同じものを、参加者もカゴに入れていく、ということを延々とやり続けます。「ばれないようにする」ことが重要なのですが、1尾行につき上限8品目とルールを決めていました。そして、ターゲットを4回ほど変えながら買い物をして、レジデンススペースに帰ります。それをカゴから出して、ターゲットの人がどういう料理を作ろうと思っていたのかを妄想するんです。でも、カゴの中にはターゲット4人分ぐらいの食品がごちゃごちゃ交じった状態であるから、妄想だけでなく、そこから実際に創作料理が始まるわけです。まち遊び×料理という表現ですね。だから、これがまちづくりかといわれたら何とも言えませんが、少なくともまちの日常の見方は変わります。こういうくだらないことで、ちょっとずつまちを面白く見る視点を獲得することができます。物事の見方に新しいレイヤーをつけていくという実験を色々と行う一方で、真面目にトークイベントなどもしながら、八戸のまちを遊ぶということをやりました。
こういう活動を各地で行っていますが、特によく関わらせていただいているのが東北地方です。東鳴子温泉の旅館に観光客やかつての湯治目的の方の往来が少なくなっている状況を鑑みて、東京や仙台のクリエイターやプログラマーに旅館をセカンドオフィスとして開放していくプロジェクトの立ち上げと演出に関わりました。それから、東鳴子温泉の大沼旅館を中心に「シェア温泉」というプロジェクトを始まり、クラウドファンディングで資金調達にも成功して、いまもプロジェクトを継続されてます。、八戸や東鳴子の例を考えると、物事が動く一番最初のきっかけづくりをやりに行くことが多いですね。被災地の現場にも行っていますが、そこでのプロジェクトは大変難しいことがいっぱいあって、僕自身も課題を抱えながら関わらせていただいています。自分の中の表現活動とそこから結果的に出くわす新たな社会の問題への気づき。これからもそういった活動をやり続けたいですね。
■音楽
最後に音楽の話をさせてもらいます。人が集まって何かをやっていくという時には、音楽も使えるわけです。ミュージシャンによるロックフェスもあれはあれでいいと思いますが、お祭り的に音楽で盛り上がるだけでなく、もっと日常的な些細な行為で音楽を使って、あるコミュニティやある世代をつないでいくことができるんじゃないかと思い、幾つかコミュニティプロジェクトをさせていただいています。
2012年に「子どもとアーティストの出会い」というトヨタ自動車のCSR事業の一環でお声がけいただいて、高知県の四万十市にある西土佐小学校でワークショップをしました。家族へのインタビューを元に、子供たちが地域のバンドマンや主婦の応援のもとコピーバンドを行うというもので、僕は演奏はあえて特にせず、地元のミュージシャンに多大なる協力をいただきながら、ワークショップ全体の構想と演出をしました。
まず、ワークショップをするうえで、「子供たちの放課後児童クラブの時間にワークショップをしてください」というお題がありました。西土佐というエリアはとても過疎化が進んでいて、西土佐小学校は2012年4月に周辺地域の6校の小学校がが廃統合され、再編された小学校です。広いエリアから1校に集まっているので、学校が終わったら子供たちはすぐバスで帰っちゃうんですね。また、統廃合なので、子供たち同士も微妙にグルーピングがあるんですよね。僕は高学年の子たちにワークをしたので、余計に別の学校から来た子どもたち同士が今更仲良くなるのが少し難しい感じの状況も垣間みれました。でも放課後児童クラブなら通常のクラスの関係性とも違うし、4年から6年が60人くらい参加してたので、その微妙な関係性も改めて繫ぎあわせていけるんじゃないかと思いました。
そして地域の人が小学校に自由に入ることができなくなっている今、こういう場を使って学校とまちとが繋がったら面白いなと思ったんです。音楽を使って地域と子供たちが繋がっていく時は、へんてこで面白いことをやった方がいいだろうと思ったので、オリジナルの曲づくりや演奏の練習に特化することはしないことにしたんです。そこで、お父さんとお母さんが結果的に関わらざるを得ない状況を先に作ってしまおうと思い、子供たちにお父さんお母さんが子どもたちと同じくらいの年齢の頃に聞いていた曲を家庭内インタビューして全部書いてくるということをしてもらうことにしました。松田聖子のスイートメモリーズや、かぐや姫の神田川、プリンセスプリンセスのMなど、色々な曲が出てくるんです。お父さんとお母さんは子どもたちのインタビューを「一体なんの授業のインタビューなの?」と不思議に思いながらもテンションが上がってくるという状況をさきに日常生活から作ってもらいました。その一方で、47ニュースの記事で「西土佐バンドブーム」という見出しがあったんですよ。「けいおん」というアニメの影響でバンドをしている小学生たちがいるとニュースになっていて、その小学生たちがこの小学校にいたんですよね。バンドができる子たちと、それを教える地域の30代後半〜40代のバンドマンが何人かいたんですよ。これは絶対巻き込まなければと思い、その方々に楽曲・演奏の指導をお願いして関わっていただいて、僕は全体の演出をしながら関わっていきました。他にも楽器ができる主婦の方や色々な人に関わってもらってやったワークショップです。最後の発表コンサートの時には、先生や親御さんのみならず、子どもたちの友達やお姉ちゃんやおばあちゃん、会場の協力などをしてくださった教育委員会の方々など色々な人が来てくれました。照明や舞台美術は子供たちに任せたので、照明とかめちゃくちゃなんですよ(笑)。これまでと同じくこれがまちづくりかどうかは僕にははっきりとは言えません。少なくとも音楽というものを使って、ある世代や地域の人たちが交わる状況を作り出すことはできたと思っています。
僕はドラマーなので小学校の授業の時間を作ってで楽器をみっちり教えることはやろうと思えばできます。でも、それでは表現として面白くなくて、このワークショップのように色々な人が交わってこそできる場というものがあります。それを実際に色々な人たちが面白いと思ってくれたり、新たに人が繋がっていくのなら、そういう方向に向かっていった方がいいんじゃないかな。これは、いつも僕自身が思っていることなんです。
【質疑応答】
今日の話を皆さんがどういうふうに受け取ってくださっているのかが気になるところではありますが…
残りの30分、このまま続けていいのかどうかという話ですね。今日の話の率直な感想を聞かせてもらえたらと。
■宇津さん
GPネットワークの宇津です。ありがとうございました。僕はGPネットワークで大手市場というイベントをやっていまして、ただイベントやるだけではもったいないなと思いながらやっているのですが、生活や生き方が活動に繋がっているというのが、すごく共感できて聞いておりました。そういう活動が街の文化力を上げることに繋がっていったり、街のコミュニティのつながりを大きくしていくという、そういう本質的なところに繋がるというのがすごく面白いなと思って聞かせていただきました。そういうことが富山でも広がるといいなと思って聞かせていただきました。
●アサダ氏
連続講座をされているとお聞きしていたので、大きな都市政策的な話やアートとまちづくりというテーマなどで色々お話をされていると思いますが、今日僕自身思っていることは自分の生活の問題意識やモチベーションと地続きのまちづくりができたら、1番いいんやろなと思っていて。僕ができているかどうかは分からないですが、そこはとても意識していて、皆さんの中でお仕事でまちづくりに関わられている方ももちろんおられると思いますが、その方々で自分の生活と仕事でやっていることが繋がっていったり、最初から繋がっている方など、色々おられると思いますけど、自分の生活とお仕事はどういうふうに繋がっているのかなということでいうと、大久保さんはどうなんですか?
■大久保さん
私は、仕事は直接は関係なくて、GPネットワークぐらいですかね。基本、自分が楽しいことをやりたくて、街にいることも好きなので街の中にいたいっていう、その2つが一緒になることが、気がついたらイベントみたいなことだったりするんです。3月30日にグランドプラザでパンのイベントをやるのですが、去年は完全に手弁当でパンを売りたいというパン屋さんのお声がけを受けて、GPのメンバーと美味しいパンが食べたいという思いだけでやり始めたんです。去年はWebと雑誌に少し掲載されたぐらいでしたが、1時間ちょっとで売り切れちゃうぐらいお客さんが集まってくれて。結果的に、それ自体が楽しみになりました。結局、パンは1個も買えなかったんですけど。自分が楽しいと思えることがまちの盛り上がりに繋がっていけばなと思って、そういうネタが欲しいです。さっきの30回連続の話をもうちょっと聞きたいかな。
●アサダ氏
アートスペースのトークイベントという体で見てほしいのですが、1回目のテーマが「カフェの領域」。異分野から実践するカフェプロジェクトということで、日本スローワーク協会の方で、大阪の高槻でされているカフェがニートの就労支援などをしているすごく面白いところで、そこのカフェの運営のあり方、社会とカフェをどう繋ぐかということがまず関心としてありつつ。その一方で劇団が運営しているカフェがあるんですよね。古い一軒家なのですが、そのカフェがそのまま演劇の舞台になるんですよ。その劇団は結構人気があって当時より随分有名になりましたが、そこの益山貴司くんという子にカフェと演劇がどう絡んでいるのかという話をしてもらったりしましたね。その二人の対談ですね。
2007年に「家」というテーマでやった頃は、当時「住み開き」という言葉は全く思いついていませんでしたが、居候をずっとし続けている出版社の編集者と、自分の家を美術館に出張させ続けている美術家の対談をやっていますね。あとは、レコード屋さんを呼んで音楽をテーマに大阪のレコード史について様々な角度で話をしてもらったり、主婦の方や一般市民の方がつくる映像を募集して上映会を開いたりしている市民メディア感関係の方のトークがあったり。あと、「日常の現象 発明家とアーティスト」は、自分の中では結構面白かったのですが、梅田哲也くんという、自作のオブジェや楽器などを作っている現代美術作家で、彼は発明家みたいなことをするんですけど、一方で本業が発明家のおじいちゃんがいて、遊園地の遊具を作っている方なんですよ。いわゆる発明家と現代美術の作品を作っている人が対談したら、どうなるかみたいなことをつなぎ合わせたりしました。
「コミュニケーションについて考えてみよう。アートの現場をからめて」というテーマでは、もともと精神病院の看護師さんで、精神障害を持っている方とどうコミュニケーションを持ったらいいかということをかなり考えて、今は大学の臨床哲学研究者になった方と、実際に精神病院の中で実験的なカフェをやっている当時25歳ぐらいぐらいの女の子との対談。年の差は親子ぐらいなのですが、精神医療という中でどういうふうなコミュニケーションがあるかという話をしてもらいましたね。他にも、小学校の中で色々ワークショップをコーディネートしている教員のトーク、京都で三条ラジオカフェという市民メディアをやっている方、野草を集めて食べるという活動をやっている方、建築家の方、図書館の方、歯科医院長、デザイナー、子どものワークショップデザイナーなどなど色々な方を呼びましたが、GPネットワークさんがされているようなまちづくりに関わっているということがハッキリしていない方の方がかえって多いですよね。
僕的には、"いかに離れてそうに見えるか"がポイントなんです。「そんな2人が対談して盛り上がるの?」と思うような人の接点を見い出すのが編集やと思ってます。そこの共通点を見い出して、テーマを作っていって、そのテーマのもとで、ゲストの方も含めてこっちで立ち位置を変えるんですね。だから、その人が1人だけで話すようなことだけでは生まれないようなことが、対談相手がいることで刺激されて、普段話していないことを会話してしまうということによって、自分の活動の新たな活用方法に気づいてもらうとかね。例えば、まちづくりの方とアートの方が出会うとしたら、お互いにそれぞれの見え方を言い合って、「こういうふうに使い合おうよ」と言い合えることが大事だと思っています。まちづくりの専門家やまちづくりに分かりやすく関わっている人だけがこういう講座に出なくても、全然意見の違う人とまちづくりを語ることで、お互いに刺激を受けて新しい発想がまちづくりにもたらされるということがあるんじゃないかなと思います。
■京田さん
私は市役所の職員で、仕事として都市計画やまちづくりをやっていました。わりと若い時から、そういう仕事をずっとやっていて、40歳を過ぎたぐらいに再開発事業の担当になって、それまでは一生懸命やってもそこに住んでいる人の顔が見えない。地図の上に色を塗ったり線を引いたり、数字を決めたりということをやっていますから。でも、再開発という仕事を始めると、一人ひとりの権利者の人の顔や生活が見えてきて、その中でその人がどうしていくのかということを知らないと事業にならないということがあって、その中でグランドプラザを作るというところにちょうど巡り合わせ、やっているうちに、通常の役所の中でやっていることだけでは物足りないというか、面白くないというか、そういう気がしてきて。色々なものを作ったら、やっぱりそこを使ってみたりということで、このNPOの発起人の一人になって、街中で色々なことがやりたい人がいるはずだから、その人たちを集めて緩やかなネットワークの中で色々なことができればいいなと思って始めているんです。そんなことから言うと、今日のアサダさんの話はぴったり合っている感じがして、うちのNPOの顧問をしていただいている早稲田大学の宮口先生が言われるには、「街の魅力は人が集まって、違った考えや文化等を持った人が出会うことによって、また次の違うことが生まれていく」ということなんですけど、今日のお話を聞いてもまさしくそういうことだと。それをアサダさんは早くから理解をされていて、そういうふうに活動をされているのはすごくいいなと思いました。今日、参加されている方の中にはうちのメンバーじゃない方もおられますし、さらにそういう方を増やして、みんなで楽しいことができればいいなと思いました。それと、もうひとつは、何かひとつものをやる時にそのことをやることによって得られる結果が複数あるんだろうなと思っていましたが、音楽をやるにしてもただ子供たちに音楽を教えるだけでなく、もっと別の意味がある。子供たちが楽器を上手に演奏するだけでない意味を見いだしていかなきゃいけないということが、色々なことでそうなんだろうなという感じがしました。
●アサダ氏
今日のサブテーマは「一人ではなく、同質的でもなく」なのですが、コミュニティという言葉に関しては丁寧に扱わないといけないなと思っていて、誤解も含めて評価なので仕方ないなと思いますが、みんなで仲良くひとつのコミュニティにいるという状態のものや地縁的なものなどがコミュニティとして語られやすいんですよね。僕は地縁的な共同体に憧れがないわけではなく、むしろ大阪のニュータウン育ちでいわゆる長屋的なコミュニティに育ったわけではないので、そういうものもいいなと思いますが原体験がないので、それを蘇らせようって意図はないんです。その一方で、コミュニティの中に新しい人が入ってくると、その人は当然これまでそのコミュニティにあった常識や固定観念とは違う価値観を持ってくるので、その人にとっても入ってこられた側にとっても居心地が悪くなり、どうしても居心地がいい人同士が集まってしまい、お互いに創造的な対話がないみたいなことはあると思うんですよね。ある状況の中でコミュニティ同士が対話をするにはどうしたらいいか。1個の場所の中に、異なる立場の人たちが入っていくという流動的な状況を一時的に作ることが必要かもしれない。その風通しの良さをそれなりに保ち続けるということは、まちづくりにとってとても大事やなと思っているところがあります。コミュニティは、一人で何かをしているだけではなく、その時々で共働することで出来上がっていきますが、一つのコミュニティだけじゃなくて次のコミュニティに行って、また帰ってくる、また行くみたいなことをお互いがやっていたら、コミュニティがネットワークされると思うんです。そういう状況になることが、まちづくりの意味においても理想的なのではと思い、今日のサブテーマにはそう名前を付けさせてもらいました。
そのための起爆剤として何ができるか考えた時に僕が大事だと思うのは、たった一人から生まれる強い妄想だと思うんです。それに引っ張られて、みんなが勝手に解釈したり喜んだりして、場合によっては誤解したり、いつしか誰がそのアイデアを言い出したのかということすら忘れられたりしますが、そういう一人の人が周りに四の五の言わせない強い意志を持ち、そこに人が集まってくるということは、もはやそれはもう“一人ではない”ということなんですよね。色々な人たちが一緒に誰かが持ってきた素材を調理していって、それでまた新たな素材や調味料、調理方法や食器類までが集まってくる。今度は別の人が「こういうことやりたい」ということを繰り返していくと、一人でもないし、同じタイプの人間ばかりが集まる場にはならない。そういう時の強い妄想というのは、アートや表現活動という言葉で言い表せるのではないかと思っています。自分にとって音楽とは何かを再度捉え直すと、表現というものが社会の中でそういう役割を果たせてるんやなということを実感してきているんですね。先ほどおっしゃっていただいたように、子供たちは楽器の演奏がうまくなりたいのかもしれないし、歌いたいというモチベーションはそれはそれでいい。けれども、音楽をかぶせることによって、普段家族と喋らなかった内容を喋るようになったり、地元で商売をしている人が実はドラムを叩けるということを知ったり、お互いにお互いの未だ知り得なかった側面を見合うみたいな環境が、表現でできるんじゃないかなと思っています。
住み開きの本にも書かせていただいていますが、「自宅を代表としたプライベートな空間を人が集えるようパブリックな空間に無理なく開放していく」のですが、そこには何もないし、ほんとにわざわざ何って言うほどのことは何もないんですよ。あくまで家なので、お店という役割を持たないし、公共施設でもない。また、昭和初期の地域コミュニティのような地域の人だけが集まるようなものとも違う。自分というものが条件の核になりますが、それはエゴではない、ということなんですね。"私"がしたいことを共有してくれる仲間がいて、結果的に"私"が薄まっていくんですね。そんなふうにできる場所として、家というのは使えるんじゃないかなと。個人宅をちょっとだけ開くことで、小さなコミュニティが生まれ、自分の趣味や活動、色々な側面をお互いに見合う。他者に自然と共有されていく。お店のようにお金という対価が生じるわけではないし、家族だけが集まっているわけでもないし、会社の縁だけでもない。地域だけでもなく所属だけでなく、それらすべてが混じり合うような第の縁というのは、自分たちで何かしら編集できる場なんです。
色々紹介しましたが、最も自分に近い場所からできる可能性はあるんじゃないかと思って実際にやっている人たちがいます。その状況自体を僕が「住み開き」という妄想で編集して考え方を広めることで、誰かが影響を受けてくれて、全国に小さな活動が広がっていってネットワークされていくと、また「まち」に対する見方も小さな動きからでも変えていくことができるんじゃないかなということを考えています。
どうも有り難うございました。