レポート

まちづくりセミナー2010

まちづくりセミナー第二回講演録 講師:延藤安弘氏

2011/05/15 

「まち育て幻燈会~住まう、遊ぶ、つながる、変わる、まち育て~」

講師:延藤安弘氏(愛知産業大学大学院教授)

1940年、レンゲ畑ひろがる大阪に生まれる。京都大学大学院建築学専攻(修士課程)修了。幼い頃から絵本好き。日々、絵本の発想―子ども・生きものを慈しみ遊び心を大切にする―を実現する住まい・まち育て研究・実践の、全国行脚を続けている。

幻燈師として2台のスライドプロジェクターをもってまち育て物語を熱く語る。合理的思考のいきすぎに対して、想像力思考の大切さを説きつづけている。現 在、愛知産業大学大学院教授、NPO法人まちの縁側育くみ隊代表理事。名古屋長者町地区では大学のサテライト研究室として「錦二丁目まちの会所」を設け、 地元・

大学・NPOでのまち育て拠点運営の世話人代表としてまちを支援している。

 

 
第2回 平成23年1月22日 富山国際会議場メインホール
「まち育て幻燈会~住まう、遊ぶ、つながる、変わる、まち育て~」



1.自己紹介

2.今日の話の内容

3.一冊の絵本から

4.高知県・赤岡町の話

4.名古屋・錦二丁目長者町通りの話

5.京都・Uコートの話


1.自己紹介


みなさんこんにちは。ご紹介いただきました延藤です。

大阪で生まれまして、札幌、京都、熊本と転々とし、15年ほど前に名古屋に行き、すぐ千葉大学に行きまして、定年3年ほど前に辞め、また名古屋に行き、まちの縁側育くみ隊というNPOをやり、市民の方々と共にまちを育くむ活動に関わっております。

 

まちづくりという言葉は学者によって生み出されたという説もありますが、一般の市民が使い始めたのは1961、2年。名古屋で戦災復興土地区画整理事業を やっていた頃、地域の住民が自分たちで自分たちのまちの輪を育む活動を「まちづくり」と言いまして、「まちづくり」「まちづくり」と言い続けたのが、今 日、広辞苑にもおなじみに載るような一般用語になったわけです。

10数年ほど前に行政用語にもなりまして、使いすぎて、駅前再開発、時には鉄道高架事業をまちづくりとか言うので、地域の住民は、「あれは行政のやるものでしょう」と思っている。

 

私は、まちに対する気づきと愛着の心をこめて、それを、「まち育て」と呼んでいます。市民主体のまちづくりは今日「まち育て」という言葉に代わってきているのではないかと考えています。

 

今日は頂いた時間を活かして幻燈会というやり方で事を運んでいこうと思います。幻灯という言葉は、「灯」に「幻」を見ると書きます。住民主体のまちづくり を、難しいややこしい話を、灯をみながら幻が見られるとする。これは意味のある言葉だなということで、わたしは幻燈という言葉を大事にしております。

 


2.今日の話の内容


今日のプログラムに一言二言触れておきたいと思います。

 

最初は一冊の絵本から始めます。

僕は、住民参加のまちづくりの現場に関わって30数年経ちますけども、最初は大学の教授らしく、定義や歴史から始めておりましたが、今は、こういう講演会のときも、住民の方々と共に活動を始めていく際にも、始まりは必ず絵本からということにしております。

 

二番目は、高知空港から10分ほどの、赤岡町という全国で一番小さな町の話をします。

私はこの小さな町に10年ほど前に呼ばれまして。人口は少ない、高齢者ばかり、大型店舗がやってきて中心商店街の横町はあかん、みんな絶望感にさいなまされるような状態でありました。

集まられた住民の方々に、住民参加の街づくりで大事なことは想像力である。うちのまちはあかんと思うのも、まだまだいけるというのも想像力。どっちの想像 力に賭けるんやと言いましたら、集まられた住民の方はそれならまだまだいけるっちゅう方向に賭けると言いました。それやったらまちの宝物探しに行こうよ と、私は住民とまちのたからもの探しの旅に出ました。今日はその話をします。

 

三番目は、私が今おります名古屋の都心、長者町であります。大阪船場や東京横山町と並ぶ日本三大繊維街として有名なところでございますけども、ご承知のように、繊維業は社会経済的に衰退の一途を余儀なくされていて、まちは極めて危機的な状況です。

そこに、私の愛知産業大学大学院の研究室ができ、大学院生が毎日、まちの方々と交流をしながら、まちを学び舎にしながら、衰退しているまちに如何に内側から元気を育んでいくかというものを、まちなか元気の仕掛けというものを、参考にしていただければと思います。

 

最後に、時間がありましたら、僕が京都におりました時に住民48所帯と共につくりましたコーポラティブ住宅Uコートを、子どもの視点からまちを育もうと、 そういう切り口からの小さなプロジェクトでございますけど、25年間にどのように子どもも自然も大人も育って行ったか、その軌跡をトレースしてみたいと思 います。

それでは、幻燈会を始めさせていただきます。


3.一冊の絵本から


イギリスの、ジェリーベイカーという女性は、belongingという何かに帰属するという難しいタイトルの絵本を作りました。早速この絵本の中に滑り込んでいきます。

 

この絵本は文字がありませんので僕が勝手に解釈を加えていくことになります。

家の中からまちの様相がうかがえるわけですが、複雑な様子です。コンクリートを流したような汚らしい庭先の家に、赤ちゃんが生まれたばかりの若い夫婦が引っ越してきました。

街角でおばあちゃんが転んでも、だれも助けようとしません。事故った車が空き地に捨てられている。灰色の凄惨な、都市の衰退現象を思わせる場面から始まるわけです。

まるで日本の大都市の片隅を思わせるような絶望感があらわれているわけですけど、この絵本はページをめくると、この赤ちゃんは2歳ずつ年を重ねていきます。

 

落書きをしているトレーシー(子ども)は、となりの男の子がトレーシー遊ぼうと、人は他者に話しかけ、コミュニケーションの始まりによって人が人として育ち始めていくと共に、まちへの関心を、内から外への気づきの促しが現れています。

 

陰鬱な都市の状況も、歳が過ぎ行きますと、6歳の春の日に、隣のお父さんがトレーシーに花をプレゼントし、トレーシーは水から庭で育て始めました。

不思議にもトレーシーの背中には羽根が生え始めているではございませんか。窓に座る人形にも羽。たどたどしい習いたての文字を読んでみますと、マリー(お 母さん)、私は空を飛んでいく。今まちは汚いけれども私は空を飛びながら町をきれいにしていきたい。私は想像力のつばさを持って生きる!

そんな難しいことをこんな幼い子が言っているはずがありませんけども、まるでこの文字の無い絵本の、先行きの流れを予感させる、象徴的な羽根がここに描き撮られているわけでございます。

 

さらにページを飛ばしていくと、10歳の誕生日の日、隣の男の子が妹と共にバースデーケーキを持ってやってきました。トレーシーのまなざしの先は、歩行者 天国になり、車はここで止まっていて、道は私たちの生活空間。道路は車によって我が物顔にされていた時代から、人々の生活空間として道が活かされる。お年 寄りたちが屈託の無く笑いながら、まちを縁側のようにしはじめたのであります。空き地も、子どもたちの遊び場に変わってまいりました。

 

さらに、年月が変わってまいります。14歳の春のある日、トレーシーが自ら鍬を持って表に赴こうとしているではございませんか。対面の空き地には、かつて この地域に住んでいた生き物と暮らしましょう。環境共生型のまちづくりをしましょう。行政にまかせるのはやめて住民自ら汗を流しながら土を持ち込み、生き 物の多いまちに変えようとしているのであります。

 

さらに、18歳の満月の夜であります。トレーシーは人生を共に生きるパートナーと出会いました。

 

22歳。なんと路上でウエディングパーティを開くときがやってまいりました。ありきたりの結婚式場に行ったわけではありません。住み仲間、まちづくり仲間に祝福されながら、人生の晴れの門出が祝われているわけでございます。

 

この絵本は24歳で終わります。

トレーシーがつぶやきに耳を傾けています。お父さんお母さん、私たちも新しい命を授かりました。もっともっとこのまちを緑濃いまちにして、緑濃いまちのなかでこの子を育て続けたい。このまちに住み続けたい。つぶやきはこのように語られ、絵本は閉じられるわけであります。

 

冒頭の場面に目を移してみましょう。

なんとけばけばしい野外広告。もうもうと排ガスを垂れ流していく車たち。無機的な建造物。しかし、24年後の同じ画面を、定点観測によって比較してみると とても同じ場所とは思えない。川間からきもちのいい風が吹き抜けていくではありませんか。灰色の世界は、なんと命色にひたされたような景観に変わったので ございましょうか。

 

現代日本の都市は、地域は、日々やりきれない出来事が多発するわけでございますが、絶望感にさいなまされることが多い時代でございますが、絶望も希望の始 まりと思えるような、まるで子どもが産まれることとまちが育まれることとが機を一にする様な、まち育ての物語が見事にこのトレーシーの絵本の中に結実して いるではありませんか。

 

トレーシーは夢を見ています。

まちはこのように様変わりしましたけども、この場所だけは中古車売り場として変わりませんでした。でも未来は、この場所をトレーシーズフォレストという名 前の、緑をコミュニティビジネスにするようなお店に変えたい。まちは森だ!というようなことをこの名前はかたっているようにも思えるわけです。

 

森のようなまちにしようという呼びかけ、自分たちが自分たちのまちを育み、子どもからお年寄りまで、日々を機嫌よく生きていける地域社会を育んでいく、これがこれからの市民主体の創造すべきまちづくりの姿なのです。

この絵本は同時代のまち育ての意味を、見事に読みといているようにも思えます。

私は絵本の世界は決して夢ではなく、現実の困難を絵本のような発想で想像力を持って変えようとしている地域の人々を、時間の許す限り行脚をみなさんと共にしてまいります。


4.高知県・赤岡町の話


次は、高知赤岡。高知空港から東に車で10分、太平洋側に面する、江戸時代に物資の集散地として栄えました、今日も町家の景観のきれいなまちです。

 

かつて沖から漁師が帰ってきたとき、まちの岡が赤い土で、それで赤岡と呼ぶ。

今日も赤い土で作られた赤いレンガ、赤い壁の色合い、このようなまちの風景のなかで、先ほど申し上げた動機付けで、「まちの探検発見」が行われたわけでございます。

 

僕は外からやってきたものとして、この地域独特の激しい横殴りの風雨から白い漆喰の壁を守るための、水切り瓦という建築的細部の美しさに心を奪われました。

地域の人々は、世界の建物は屋根も水切り瓦があるもんやと思っていました。僕はそうやない。この地域にしかない宝物やと言いますと、途端に、なんや、なんやそんな宝物がこのまちにあるんかいと、宝物探しに赴いたわけであります。

宝物といえばかつてこの地域には江戸時代、「絵敷金蔵」略して絵金といわれる歌舞伎を描く画家が住んでいたわけでございます。

調べてみるとある住民が20数枚、内瓦に隠し持っている原画が発見されたわけでございますけども、ある年から夏のある日の街灯も家の中の灯も消し、おどろおどろしい歌舞伎絵をろうそくの火で見る絵金まつりが始まったわけであります。

 

オールジャパン級の宝物を活かす、まちの育みの活動が始まったわけでありますが、時の流れのなかで、あさひ湯という銭湯が営業廃止されたわけです。しかし すぐさまこのあさひ湯が解体されたわけではございません。地域の住民たちはこのまちの未来を考えようと、まちビジョンを考えようとする会合の場に使うこと になったわけでございます。

 

女湯と男湯の境目を解かれた脱衣所の中で、先進事例を調査に行ってきた米屋の主が発表しています。私は生きる夢が一杯ございます。ひとつの夢は一度でいいから銭湯の番台に座るということです。今日始めて生きる夢がかないました。笑わせながら幻燈会に赴こうとする米屋の主。

しかしこの地域の住民たちは、まちの未来を考えるときに大人の目線から考えるだけではありません。子どもの目線から考えてみよう。特に赤岡親子探偵団なる プログラム、色々と考えているところでございます。高知からやってきたファシリテーターの誘導によって議論は進行していくわけです。

 

この「赤岡親子探偵団」なるプログラムはその日によってプログラムが異なりますけども、ある日のものに寄り添って見ますと、小ブロックに分かれながら9つのポイントを見定めて、クイズオリエンテーリングを行っております。

子どもたちは日ごろ熟知していると思いきや、それぞれの場所や時間を競うクイズオリエンテーリングですから風となってまちを走り抜けていくのであります。

伊能忠敬がかつて滞在したことのあるいわれのある静謐なまちの歴史的景観。そして未来の鼓動というべき風となって走り抜けていく姿。こうして未来と歴史が 融合するような瞬間が見えてくると共に、表通りだけではありません。裏通りも路地にもくばりながら、子どもたちは日ごろよく知っていると思っているまち に、次から次へと思いがけない宝物があることに感動の高まりがあるわけでございます。

 

子ども参加のまちづくりにおいて大事なことはいくつかございますけども、一つは子どもをわくわくどきどきさせる小さなしかけをしていくことでございます。この日は、親子探偵団の諸君に、やっとたどり着いた先のラムネで喉を潤す、感動のひとときであります。

感動は瞬間に抜けていくものであります。感動を逃がさすにそれを定着表現させることは、子ども共にまちづくりを楽しんでいくまちづくりの極意の一つでありますけども、私たちはこの日、子どもの感動を逃がさずカルタにして、カルタ表現にしたわけであります。

 

ある場所で、赤岡の赤をめぐって思案の親子たちでございますが、このときのある子どもは、赤やけど青、青やけど赤という、シャーロックホームズのようなユニークな柔らかい表現の世界を定義してくれたわけであります。

しかし、一過性のイベントとして楽しかったねと終わるのは、子どもを巻き込んだまちづくり活動においては許せないことであります。必ず子どもを巻き込んだ ときには、表現されたものをきちんと製作する。このとき大人たちは、子どもたちが作った表現を活かして48文字「あかおカルタ」を作った。更にそれを編集 してポスターも仕立てた。

 

子どもが作らんかったところには大人が言葉を埋めてあげて、子どもの感動を表現し製作物にまとめる。参加した子どもにはもちろん、参加できなかった家庭に も配りながら、まちに対する愛情や愛着を深まることを、時を越えて内側から育み、人を育む大事なしかけであるということが、自ら人々の心に浸透していった わけであります。

 

それにしても赤岡の、横町という商店街のおっちゃんおばちゃんたちも、人は減っていくし、大型店舗が高知に行く途中に出来た。だからうちの商店街には人が 来ない。あかんのや。と。いやあかんと言わんとまだまだいけるで、いこうやと。茶のみ話をしているなかで、まだまだいけるで、どないするんやと、誰かがぽ ろっと冗談半分に、冬の夏祭りをやろうと定義したわけです。

 

なんやなんや冬の夏祭りときくだけで、常識を超える発想にみなぎっているじゃないですか。冬の服を着ている高校生たち、冬にも関わらず大漁旗を背景にカキ氷屋が繁盛しているわけですが、冬の夏祭りの定番的風景はなんといっても道の上のこたつでございます。

 

現代社会の、日本の地域社会の発展の印は効率性やスピードにおかれがちでございますけども、効率性とは無縁な不便さそのものでございますが、新しい価値観 が芽生え始めているじゃございませんか。スピードではなくその地域独特の暮らしのリズムを大事にしようよと。新しい価値観や遊び心を持って、祭りをとおし て人々の心の中に溶け始めていくわけであります。

 

米屋のおっちゃん、こんにゃく屋のおばあちゃん、ミシン屋のおっちゃんたちに、今日は子どもたちが思い切りおいしいすいとんを作ったると。おばあちゃんは すいとんの作り方を指南するだけでなく、食べるときは戦争っぽくなあと、三日前に徹夜をして作った防空頭巾を頭にかけて、胸には大日本国婦人会なるたすき をつけてはる。

 

僕はおばあちゃんにいいました。ばあちゃんこれは子どもたちに軍国主義を風潮するのであかんのちゃうかと。おばあちゃんは80歳を超えているとは思えない、外面的内面的張りをりんとさせながら、こんなものはパロディーやと笑い飛ばしはったわけであります。

 

おばあちゃんがこんなものはパロディーやパロディーやと笑い飛ばした次の瞬間、メロディーが流れたはじめたわけであります。なんやなんやこのまちにはメロディーとパロディーが同居するのかと驚きの声を上げざるを得なかったわけです。

 

我々、頭の固い専門家と行政がイベントを仕込むとプログラム通りに粛々と進行するだけでございますけども、住民主体のことの運びのなかで、何が起こるかわ からないという偶発性の恵みが次から次へとやってきて、偶発性の恵みを味方にすることが住民主体のまち育ての大事なポイントではなかろうかと語られている ように思います。

 

なつかしのメロディーを奏でるおじいさん。ビートルズを奏でる若者たち。こうして古い音楽と新しい音楽が融合すると共に、お金を使わず軒先美術館はこしらえられていきます。

 

ちょうどこの頃、先ほどから触れています絵敷金蔵の原画を収蔵する絵金館も、行政と議会が結託して東京から有名建築家を連れてきてコンクリートの箱物を作ろうとしました。

おばあちゃんや若者たちはこれに反対しました。反対するだけでなく提案しました。

このまちには空き家がいっぱいある。町家も空いている。農協が捨ててしまっている米蔵もあいている。古いものを使って、お金を使わんとまちの宝を使っていこう。

行政は提案を飲み、コンクリート箱物をつくることをやめたのです。

 

日本の地域社会における祭は美しい伝統的様式が整いますと、その美しい伝統を酷使する傾向にあります。赤岡では毎年、冬の夏祭りのテーマが変わります。ある年は、昔は未来。ここにある赤岡ブランド。なんとメッセージ性の強いテーマでございましょう。

今年で15年目を迎えておりますけど、毎年、新機軸の工夫が重ねられており、道の上のこたつという定番が一つ二つあるだけ。

 

ある年の現場を垣間見て見ますと、また路上で「嫁配り」がなされているではありませんか。かつてこの地域では、お嫁さんがやってきたときには「嫁配り」と 証して紹介をしてあげるという慣習があります。この古い慣習を冬の夏祭りのために路上お披露目嫁配りをやってあげようという、世界で一つの結婚式が行われ ているのであります。

 

ずいぶんお金がかかったろうと思いきや、着付けやさんもこんなユニークな結婚式に出会ってのは初めてですとただになり、まつりを、若者たちを励ましていくすばらしいイベントになったわけであります。

 

さて、さきほどふれました絵金蔵は、行政はコンクリート箱物を作ろうとしましたけども、住民提案によって捨てられていたJAの米蔵が活用されることになり ました。行政はすぐさま農協から米蔵を買い取り、しかしながらすぐさま設計者に改装設計を命じたわけではございませんで。住民たちは、お試しコンサートを やってみようと、絵金蔵をこのようにある年のクリスマスの前に、東京からやってきたジャズボーカリスト4人の、古い歌から新しい歌に聞きほれたわけでござ います。

 

そのとき住民たちは、全体としてこの米蔵の空間の魅力と、あわせて構造的強度を高めるための縄目の所在を、創造的緊張感を高める細部に神が宿るような美しさに惚れ惚れし、改修するときこのしくみを活かそうと、こうなったわけであります。



こうして住民たちは地域の宝物探しから、宝物を活かし、お金を使わずにすばらしい空間作りに赴いたわけであります。

新しいみんなの公共施設としての絵金蔵を設計することが、この場所で行われていくことになりました。いろんな立場の人が知恵を出し合って事が運ばれていったわけであります。

 

住民の中には、富山から東京からこの絵金蔵を見に来たときに、レプリカを飾っているだけでは不満に思うだろう。本物を飾っている収蔵館、前室、覗き穴を作ろう。と。

遠くからこられた方のために本物を1枚見れるようにしようとしました。

覗き穴方式というのはこのような中から生まれていったわけであります。行政専門家だけに任せていては、コンクリート箱物がちょっぴりお化粧をしたものにな りがちなのに対し、住民たちが熟知しているまちの宝物、このような古い米蔵を、酒屋さんは精巧な紙粘土の模型を作ってきました。専門家ではありませんので 何分の一という寸法は分かりません。子どもが寝静まった後、真夜中あの屋根の細部はどないなってるんやと、街灯を頼りにして作りましたと。自分たちのまち のたからものに対する、尊敬の念をこめた、そしてそれを表現する術がなんと堂にいっているので御座いましょう。

 

やがて古びた米蔵が、外装が整い、やがて内装が整い、住民参加で作られた小さな公共施設のお披露目の会が行われていき、そのオープニングセレモニーの開催 を知らせるポスターは、ハードポスターではございません。ふるった言葉の表現が躍動するとともに、やがてここで絵金の原画レプリカが発表されていき、子ど もたちのまちづくり学習が発表会が行われていき、住民たち提案の蔵の穴方式が具体化する。

 

このような公共施設の設計が整いやがて管理運営の段階になりますと、館長さんは役場から、頭の白くなった長老が選ばれがちですけども、なんと横田恵さんと いう大学院で絵師金蔵を研究していた若い女性が選ばれ、副館長さんも民俗芸能を研究していた若い女性が選ばれ、毎日この絵金蔵に若い館長副館長を求めて地 域の長老男性たちがどっとやってくるという、公共施設の新しい管理運営の知恵でないかと・・・。

 

全国で一番小さなまちで、疲弊していたこのまちで、しかし宝物探しというみんなが楽しい振る舞いのなかで、絵金蔵が生まれると共に、絵金蔵だけではございません。次いで弁天座という歌舞伎座を作ったわけで御座います。

 

絵師金蔵の歌舞伎、絵金歌舞伎というものを、地方田舎歌舞伎としてかつては野菜選果場の鉄骨むき出しのところで年に一回演じていましたけども。絵金蔵の成 果のなかで、住民たちは更に役場と一緒になって、このような歌舞伎座を本格的な住民参加によってつくってしまったわけです。

 

この過程に分け入る時間的ゆとりはございませんのでこのあたりで赤岡を後にせざるをえませんが、しかしながら、このような非日常的な冬の夏祭りや絵金まつ りや歌舞伎の世界だけでまちが元気になったのかと疑問が投げかけられるのかも分かりませんが、なんと日常的にも、閉じられていた町屋が開け放たれ、ここに 地域の人々が古い生活物資を持ち寄り、いわゆるリサイクルショップに変わっていくのであります。こうして地域の経済がちょっぴり循環し、日常的な元気作り にも繋がっていくのであります。

 

10年前はばらばらであった地域の人々が、楽しい地域のまつりを始めとする多様な非日常日常の活動の中で、まるで舞台の上の主人公に一人ひとりなっていくような、街づくり物語を地で行くすすめ方をすることによって、なんと元気が内側からとぎすまされていく。

地域の住民だけではございません。高知からやってくるファシリテーター、札幌からやってくる冬の夏祭りのボランティア、京都からも東京からも、いわば地域 の住民が主人公になりながら、おもろいユニークな、かけがいのない知恵のこもった活動により、よそからの助っ人がどんどん集まってくる。

 

そのように、物語が次から次へと展開を起こしていくまちに育っていったのであります。

まちのたからもの探しからまちの育みへ。という、小さなまちの物語です。


5.名古屋・錦二丁目長者町通りの話


次は大都市、220万名古屋のど真ん中。ちょうど名古屋城とテレビ塔、新美術館がクロスするあたりに、私が今います、錦二丁目長者町通りの地区で御座います。

ここにおける、まちとアートがどのように出会ったかという物語です。

 

さて、長者町繊維街というのは、都心の谷間で、人が一人もおりません。ねずみ一匹もおらん、ゴーストタウンやないかという、寂しいまちです。にもかかわらずひったくりが名古屋駅に次いで第二位というなんと不思議な現象が起こっている町です。

今から10年前、シャッターペイントから、このまちの、地域の人たちが主導するまちづくりの活動が始まったのでございます。

 

3年前に、私たちの研究室が呼ばれた。この空いている繊維問屋のビルの2階の部屋に、毎日来てくださいと。下はパン屋、上は広報機関、4階はファッショ ン。繊維に変わる多様な機能を混ぜ合わせるおでんのような混ざり合いのコミュニティにしようという方針の下、それを引っ張っていく、そしてご一緒していた だくための場所に、私たちはまちの会所と名づけました。会所というのは、かつてこの地域を作った徳川家康が400年前に各街区の中央に神社仏閣火の見やぐ らを会所となづけた。その歴史的伝統を活かしてオープニングにいたったわけであります。

 

オープニングイベントにはまちづくり連絡協議会や若手、いろんな世代が集まってくると共に、やがて名古屋大学村山研究室の院生たちが16街区の現況模型を 作ってきてくれました。地域の人々は毎日現実をみやりながら、未来をどのように描きとめていくか、発想のトレーニングを始めていったわけで御座います。

 

私たちは地域の住民と共に、まちの未来像の20年先を目指して、八福神のしあわせタウン作りという、20年後には宝船に乗って八福神がやってくるであろう というような、まちのビジョンを共に描こうとしているのでありますが、今日は詳細をお伝えする時間的ゆとりがございませんが、とはいっても全体像をただ描 くだけではございません。

 

むしろこの現実を見やりますならば、16街区16ヘクタール、空色に塗られているところは繊維業が倒産し、コインパーキングになっている。土地全体の面積 に対して12,3%もコインパーキングになっている。世界の都市計画によれば、9%以上コインパーキングが広がればそのまちは死滅していくという説がござ います。その危機感を乗り越えていき、小さなコインパーキングを一つでも緑化しようと。コンクリート、アスファルトの世界ではなく、このように平面緑化、 垂直緑化を少しでもやろうと。

 

つい先だって、ある駐車場はオーナー、ディーラー、デザイナーの共同によって、このような緑化パーキングが生み出されていく。ささやかな試みを同時にやれることから始めてみよう。まちの育みの多面的活動を進めているわけであります。

 

そんななかで、愛知トリエンナーレという国際芸術展がまちにやってきたわけであります。まちの会所スタッフは、すぐさままちなかにポスターを貼る活動にいそしみました。

 

いろんなアーティストが、世界から日本各地からやってきたわけでありますけども、東京からやってきたKOSUGE1-16(コスゲイチノジュウロク)とい うアーティストが、このまちの伝統の象徴は山車であるということで、地域の人々と共に、5mの高さをもつ本格的な山車を製作し、9月5日にまずお試しに曳 いてみたわけであります。

 

10月23日の、えびす祭りというこのまちの最大のお祭りの日に、この長者町を通すという、それが本当に出来るかどうかという、お試しのために9月5日に設定しました。

青長会の青年経営者たちも、必死に90度曲げるというしんどさに、辟易する苦労を味わったわけであります。わずか200mの間を引っ張り、曲げるだけで、なんと3時間もかかって収納庫に戻ってきたわけであります。

 

これは大変や、こんなにわずかな距離を3時間もかかって男性たちが汗水たらしてやってもうまくいかへんと。うまいこと、この山車がお祭りの日に曳けるんであろうかと。

町内会長はこれを見ていて、10月23日本番はやめようと、伝馬町通りを100m移動するだけで、長者町通りを90度曲げるのはやめようと。

2日に渡って10万人が集まる大きな祭りのなかに、これだけ図体の大きいものを安全に移動するのは難しい。町内会長はノーだと言う。

ノーというトラブルが起きたとき、東京からやってきたKOSUGE1-16というアーティストは心の中にむらむらとファイティングスピリットが生まれたわ けであります。長者町の若い経営者たちは長老にノーと言われたとき、なんとか必死のたちで、この90度を曲げるにはどうすればいいかと、京都の山矛を曲げ る技術を学び、練習を重ね、当日はなんと成果があがり、長者町をすいすいと曳くことができるようになったのです。

まっすぐ曳くのはたやすい。曲げるのが大変なんです。

 

まるで現代のまちづくり。これまで繊維だけのまちだった。繊維だけのまっすぐな曳き方は易しい。繊維のまちから次なる多様な機能がまざりあう、そんなまちにするためにはみんなの発想を変えなければならない。発想の転換はどんなに大変か。

 

祭りで山車を曳きながら、人々の心の中に、まちづくりってなんやねんという、発想の問いかけがなされていったわけでございます。

 

(山車の)平行移動のことを、彼らは何と言ったか。がちゃまんと言った。

がちゃまんで行こうと合言葉が交わされますと、平行移動がすーっと出来たわけでございます。がちゃまんとは、昭和30年代、繊維を織る機械ががちゃっというと一万円札がどっと落ちてくる。それほど栄えたことをがちゃまんと称した。

この地域独特の産業文化、地域の人々の心の中に、記憶として残されているがちゃまんの言葉。現代の深刻なる不況の風を超えていくための、新しいまちの方向 感を共有するとき、がちゃまんという言葉を使いながらこのように若者たち、各世代が、心をひとつにしてこの困難を越えていく。トラブルをエネルギーに変え ようという発想が現場から立ち上がってきたわけであります。

 

その夜町内会長は、一ヶ月前ノーのサインを出しましたが、なんと見事に当日スムーズにやってのけた。人間は不可能を可能にするんや。現代アートはそのような人間の力を、潜在しているたからを、見事にあらわにしてくれる力がある。アーティストにそのように伝えました。

 

アーティストは、山車が収納庫におさまるときに、はらはらと涙を流し、私の創作活動でこんなに感動したことは無い。アートは今までオブジェとしての美を競 うというふうに観念していたことが、アートとまちの出会いにより、プロセスとしてのアート。過程こそまちづくりとして大事。トラブルをエネルギーにしてい くというこの発想が新しい時代のアートなんだ。トラブルを力に変えていくのが現在の住民参加型のまち育てなんだ。

 

なんと、キュレーター、アシスタント、町内会長、アーティストが、夜のジャズ演奏会を前に、満月の下で語り合っており、人々の共感を呼ぶ世界がプロセスの総和として生み出されたエピソードです。

 

私たちまちの会所は、アーティストのやることに支援をし、媒介をする、おつなぎするだけではございません。子どもたちとともにまちの探検発見ほっとけんに赴いたわけであります。

 

まちのたからもの探しを子どもたちとやる。しかしながら子どもは、このまちには16街区16ヘクタールのなかに2万人が昼間は働いていますけども、夜は434人しか住んでいない。子どもは一人もいない。そんなに激しい過疎地でございます。

 

しかし私たちは、よその地域の子どもたちに期待と希望を持ってご招待し、その子どもたちが初めて見るまちのたからもの探しの旅に出かけたわけです。

 

400年前のまちの会所の名残が、今日の福生院という寺でございます。その福生院で、戦災で全部このまちは焼け爛れましたけども、この水盤の竜のみが400年間このまちをずっと見続けてきたんだということを、子どもたちはまちタンケンの中で知りました。

 

古い歴史の魅力を呼吸しながら、やがてビルの屋上に子どもたちは上がっていきます。外からやってきた若い経営者が、なんとこのまちで蜂を飼おうと一人で立ち上がり、最初は蜂に襲われながら、最後には裸で蜂と戯れることが出来るようになった。

 

当日は子どものまちタンケンの日、子どもがはちみつを味わうことが出来る。蜂を間近にすることが出来る。そんな場所をこしらえたわけであります。

 

こうして、常識を乗り越えていくような活動が次から次へと起こると共に、よそからやってきた子どもではあるけども、先ほどの赤岡と同じであります。探検発 見ほっとけんは子どもの心の中に感動を呼び覚まし、感動は瞬間に逃げていくもので御座いますけども、この日私たちは、繊維街のまちらしく、感動を布絵にし てね、と子どもたちに製作を呼びかけました。

 

出来上がった布絵は如何なるものだったでしょう。路上で発表会を致しました。なんとはちみつに感動した子どもたちは、蜂のハニカムを多様に描きとめてくれたのであります。別のグループの子どもたちは竜の飛ぶ五目御飯のようなまちを布絵にしてくれたのであります。

 

初めてこのまちにやってきて、初めてこんな布絵作りをやった子どもたちは、ちょっと大人の支援はあったというものの、なんと瑞々しいこの発想と、まちの未 来に対するコンセプトは何を目指すんやという基本的考え方が、常識に凝り固まっている頭の固い発想を見事に超える、テーマを展開してくれたのであります。

 

路上発表会のとき、沢山の人々がやってまいりました。とりわけ長老経営者たちは、なんやかんや子どもの発想はこんなにすごいのかと。繊維業として衰退をしていく繊維業の納め方を検討していた。

このまちに子どもの声が聞こえるような、人が住めるまち。お年寄りと子どもが一緒に飯を食べあえるような、そんなまちづくりをしていきたい。

子どもの発想と表現は、大人の心を開き始めたわけであります。

 

こうして、多様なるアートとまちの出会いの表現の場は、民間ビルの公開空地のところに、イタリアからやってきたイベルタンが、こんな二頭立ての馬を置いてくれました。向こうを見やっているのは錦三丁目という繁華街。

 

このまちには馬だけではございません。天神様の境内には牛も馬もウサギもいるわけでございます。ドイツからやってきたナタリアと、日本人のフジタのアー ティストユニットは、路上で紙芝居を致しました。世界中が産業技術によって人間の手によって自然がむざむざと破壊されているけれど、レックアフリカにいく  という創作紙芝居を演じました。

 

アーティストがこのようにパフォーマンスによって、社会の深い悩みを笑いを誘うような遊び心を持って表現するところに現代アートの人々の心をふっと自由感 覚に引きずっていく瞬間が立ち上がるとともに、演じる側はアーティストだけではない。市民たちは見る側で終わったわけではない。

 

なんと70mの白いシーツの上に参加した子どもも大人も寝転んで、ナタリアがシルエットを書き込んでいき、立ち上がったところで参加者の人たちはシーツの上に自由に、こんな生き方をしたい、こんなまちがいいと、イラストや言葉を書き添えていったのであります。

 

背後には発展を示している名古屋駅の超高層ビルが見守っているではございませんか。

赤信号をともしていた街角から、よそからやってきた若者や子どもたちが、未来のこのまちではどんな出来事が起こってほしいか、思いを夢を、自由にらくがきし始めたのであります。

 

子どもも大人も思いを自由に表現する。アートが自由に想像力の翼を広げてくれる。

自由に書かれた落書きの、そのなかからキーワードを探り合ってみますと、笑いとLOVE。笑いと愛が世界を変えるんやと。

 

住民参加のまちづくり。現実がどんなに激しい経済社会の嵐が吹こうとも。地域は内側からよみがえっていく可能性がある。そのことを願い、絶望感も希望の始まりと。

果たしてどのように実現するのであろうか。予断を許さない危機的状況はまだまだまちにある。それを乗り越えていけるんであろうか。

 

何を目指すんやと。人ありき暮らしありき命ありきの発想は、子どもの表現によって見事に示された。人、気持ち、命が、どのように新しいまちの舞台の姿に変わっていくのでありましょうか。


6.京都・Uコートの話


さて、京都は桂離宮のあるところから西に5条入ったところにニュータウンの片隅に、Uコートという現場を訪ねてみたいと思います。

 

3300平米1000坪の敷地に、アルファベットUの字を描くようにコート中庭を囲むので、Uコートといわれているわけでございます。

車の置き方が問われるやんかという問いが聞こえてきますけど、この足元に48台分100パーセント駐車で、車は中庭に入ってこない。お年寄りや子どもにとって、車の通行から解き放たれた安心の場所が出来たのでございます。

 

住民参加によって、子どもの視点から住まうまちを作ろうという成果が、普通は集合住宅日照基準を金科玉条にするために、建物を平行にかまぼこ板を並ぶよう な配置が世間には多いので御座いますけど、こちらでは向かいの階段を下りてきた子どもがあちらの階段を下りてきたこどもと池の端であって遊べるという、人 間関係を育むことが大事やと。そういう思いが形に表れていったので御座います。四六時中、こどもやお年寄りの目を休ませるような生活風景が、この中庭に生 まれてまいりました。

 

先ほども言いましたようにこちらでは向かいの階段を下りてきた子どもがあちらの階段を下りてきたこどもと池の端であって今日は何して遊ぼうかと。偶発的な遊びの世界にいくにつれて、やがてその小さな子どもの面倒をみるという年齢集団がこしらえられていくわけで御座います。

 

現在日本の地域社会における子育て環境の悩ましい社会的要因はいくつも挙げることができるわけでございますけども、最大の問題点はかつてあった年齢集団が わけあって失せたことでございます。しかしここの住民たちは、子どもの目線から子どもの出会えるような広場を作り、その広場を舞台に自ずから子どもたちが 年齢集団をこしらえていったわけで御座います。

 

人の出会いのあるところには車椅子に乗るお母さん。そこをお父さんがそっと押してあげる。いわばノーマライゼーションがこのように小さな住宅地の内側から始まっているのでございます。

 

お気づきのように、コモンスペースの中庭には池が作られました。

設計段階では賛否両論が渦巻きました。反対派は子どもが死ぬかも分からん。日ごろの管理がわずらわしいからやめようと。否定的意見が提起されました。

 

単純に多数決で事が決まったわけではありません。子どもの生活環境に水を持ち込むというのはなんでやねん。何で大事なんやと、気が遠くなるような議論を重ねながら、共感を呼ぶ合意形成となり、水環境がおかれました。

 

水環境が生まれますと子どもたちは水と多様に関わるようになっていったわけであります。

水は子どもにとって危険だから取り去るというのは私たち大人の勝手な発想ではないかと思わせてくれると共に、安全性ということでおっちゃんがいつも子どもたちの遊び行く姿を後ろからそっと見守る。

地域における人間関係を復権することによって、子どもの生活環境に水を持ち込む必要性と可能性を会話させてみようという発想です。

 

さてここで時計を逆戻しに致しまして、Uコートはこの世に生まれました1985年11月の写真を一枚見ましょう。背後の高層公営住宅、公団中層賃貸住宅、いずれもコンクリートジャングル、堅苦しいのです。

 

しかし同じアングルから数年後を眺めて見ますならば、在来的集合住宅がなんら表情を変えないのに対しまして、手前のUコートは前後緑のつたを這わせることによって何か小さな有機的記号が、今にも動き出しそうな気配を感じ取れるようになっているので御座います。

 

入居直後の中庭は、無理矢理砂漠に緑を置いた感は否めなかったのでありますが、20年後同じ場所の定点観測によって比較しますならば、とても同じ場所とは思えない小さな森のような環境に様変わりしていったのであります。

 

設計段階では住民間に御所のように対称のきれいな庭にしようとする意見もありましたけど、子ども目線から花や緑が一杯。それを求めて虫がやってくる。それを求めて鳥がやってくる。ちょっぴりワイルドな小さな森のような環境にしようと方向で合意形成を打つ。

 

現代の地域は建築という不純物が持ち込まれている時代でありますけども、建物という人工物と、自然が寄り添いあうように環境共生型の都市づくりの可能性の一端が見え始めたわけであります。

 

ここではつたによる垂直緑化壁面緑化が見事になされたわけであります。何故かならびによっては緑の色と濃さが違います。最も緑の色濃いところを下から眺めていると、まるでここはジャックと豆の木の、豆の木が空に向かって立ち上っていくように見えるのでございます。

 

今日は時間の都合上説明を省略していますけども、この水平方向には隣のバルコニーが続いている。大人たちは隣の領域を侵さないというプライバシーを守って いますけども、子どもたちはよその領域を自由に移行できる。水平方向に人間関係コミュニティを育むと共に、縦の方向に緑によってエコロジーを育もうとした のであります。

 

これからの創造的まちづくりは、地域が変わることと、テーマが変わることと、コミュニティとエコロジーが交差するという状況作りが大事なんやということが、この写真から私たちに訴えられているように思えます。

 

しかしこのような美しい生活シーンは一朝一夕に成ったわけではございません。間に沢山沢山のトラブルが挟まっていたのであります。そこで一つの小さなトラブルを思い出します。

 

小さなこどもたちは、花が咲きますと、蜜を吸うためにおもちゃにするためにちぎりまわすわけであります。小学校一年生にあがるころにこんなことをすると叱 るわけですけども、もっと小さなときにはしかれません。一生のうちに花をちぎって遊べるのはこの年齢のときだけではないか。子どもには花をちぎる授業を与 える。子どもが花をちぎるのが早いか大人が花を咲かせるのが早いのか、子どもと大人が競争だと。

そんなおおらかな言葉が、Uコートの中庭に立っておりますと耳に響いてくるのであります。

 

おとなたちは春先に子どもたちが帰ってきたときにほっとする気分を与えてやりたいとここに草花を植えるわけでありますけども、こどもたちは親の願いを知ら ずして小さな掲示板の上から落ちる遊びを繰り返し、草花を踏んづけて赤土に還る。こちらが赤土になるとこちらも草花を踏んづける遊びを繰り返していたので あります。

 

ただ大人は子どもがそういう遊びをしても特に叱りませんでした。むしろ時がくるのを待っていました。翌年の春、大人たちは子どもたちに呼びかけました。今年は皆で花を植えてみようか。ちいさな子どもたちがいっぱい集まってきました。

 

この年ぼくは、通年この場所を観察し続けました。この場所には一回も花も緑も生えることがありませんでした。子どもたちになになにしたらあかんと禁止の世界においやるのではなく、子ども自ら命ある自然を守り育む担い手になる。そんなときが来るのを待っていたのであります。

 

僕は現場で、ここには正しい時代のまち育てというキーワードが生まれ始めているということに気づきました。まるでそれを裏書しているかのごとき、翌年子どもたちの提案によってチューリップの花文字Uコートが描かれたのであります。

 

子どもはほうっておいても成長する存在と、言われる方もおられるかもしれませんけど、まわりの人間関係や自然からたっぷり力をもらうとともに、大人も専門 家も思いも付かないような環境デザインが出来るようになったのであります。子どもたちは周りの人間関係、自然、まちと共に育っていく。子どもが育ち、まち が育まれていく。これからの時代の創造的まちづくり、まさに子どもの育ち、人の育み、まちの育ちを一体化することでなかろうかと。この一連の映像から私た ちに呼びかけられているように思うわけでございます。

 

Uコートを企画設計、お世話しておりました私たち専門家グループは、入居20年を記念して、若者たちが夏休みに帰ってきたのを見計らって、Uコートを子どもたちの時代から振り返ってもらって、Uコート評価のワークショップをしました。

 

いろんな若者たちに根掘り葉掘り聞いてみました。高校三年生に聞いてみましたら、僕はUコートが大好きなんやと。就職も結婚も京都で行い、結婚したら僕は ここに住み続けるんでお母さんは出て行ってねといわれました笑 お母さんはどうするんですかと聞いたら何故かコスタリカに行くんですとわけのわからない言 葉が返ってきました。

 

なんでこんなにUコートがすきなんだと聞いてみたら、5歳のとき、彼のお父さんが分け合って家出をし、お母さんと離婚をし、自分の親父がおらんかったけど 中庭に行けばお兄さんお姉さんと遊ぶことが出来た。中庭を歩いていたらよそのお父さんが「このごろええかおつきになってきたな。元気でがんばれよ」と励ま してくれる。そういうのがものすごい好きだった。一番好きだったのは毎月一回池の掃除のときに鯉を抱きしめるときに僕の腕の中に命がどーんと入ってきよっ た。あの感動を子どもにあたえてやりたい。と。

 

他の若者たちも異口同音に語っていたと。ニュータウンというもっとも匿名性の高い地域社会に、毎年おみこしを手作りで作り、無言の形で地域に根ざした暮ら しの文化を残しませんかと呼びかけてみる。一番楽しかったのは夏祭りのハイライト。地域の住民を呼びながら和太鼓の演奏会が開かれる。日ごろは周辺騒音を 気にしてポリバケツにガムテープを張ってたたいていたけれど、この日は本物の和太鼓をたたける喜びの日。

子どもも高校生もお母さんも和太鼓をたたき、和太鼓の音が空高く響きあっていくとき、心のなかに集まって住むって楽しいなというイメージがどんどんひろがっていった。

 

和太鼓だけではない。Uコートでは毎月一回クラシックの演奏家が招かれ、集会所や中庭でコンサートが開かれるようになった。5月のアイリッシュハープを聴 く会。6月はカルテットを聴く会。7月はジャズ、8月はロックコンサート。そうして中の音楽会に触れているうちに9月には僕が歌いたいと住み手のお父さ ん。シューベルトの美しき水車小屋の娘を堂々と歌い上げた。

 

僕らは子どもの頃からずっと音楽という内なる感性を呼び覚ますような機会にめぐまれていた。とてもすばらしい思い出となっている。

それにゆきのおっちゃんは僕らに紙芝居をして相談相手になってくれる。

いまどきの子どもはテレビゲーム漬けになりがちやけど、土や水や緑や仲間と取っ組み合うのが大事なんやと。困ったことがあったら俺に聞けと。そういうゆき のおっちゃんやった。今大学で教育社会学を学んでいる若者が、ゆきのおっちゃんみたいなのは、教育社会学ではソーシャルアンクル、地域のおっちゃん地域の おばちゃんというんやと。

子どもは親や先生だけではなくて、地域のおっちゃんおばちゃんに育てられていくんやと。

 

いまどきそれがなくなっていったことが子どもの育み環境の危機に成ってきているけども、Uコートでは子どものとき、おばあちゃんがあるときの夏祭りの前に 呼びかけてくれて、今年はみんなでわらじを作ろうかと。農家に行ってわらをもらってきて、とーんとーんとたたいて、わらじをこしらえた。日本の地域社会で 残されている意味ある生活文化が世代から世代へ受け渡されていったんや。

これが僕らがUコートで子ども時代を過ごして、僕の子どもたちにもそういう経験が出来るようなコミュニティを育もうと思う。と。

このように若者たちは語っていたわけであります。

 

しかし20数年経ちますと若者は巣立っていき、夏祭りとなりましてもこのようなにぎにぎしい姿はありませんでした。2,3年前に行ったときは、高齢者予備 軍となった親たちが寂しくやっていました。もうUコートもあのような活気が戻ってこないのかと思いきや、目覚しい出来事が起こりました。

なんと、子どもの頃よその子どもの面倒をみたガキ大将のようなおねえちゃんが、子どもをつれて、Uコートにたまたま生まれた空き家に戻ってきたのであります。お父さんお母さんがただで子どもを保育所に送り迎えしたるで、という言葉に惹かれて。

中庭をはさんでスープの冷めない距離で、毎晩この親子は中庭を挟んで親の家に行くと、そういう関係になります。

 

これだけではありません。なんと他に4所帯の空き家が生まれたので、その中に全てUコートの若者たちが帰ってきました。みんな子連れの夫婦でした。

Uコートに戻りたいけれど一杯、そこで隣の公団賃貸住宅には2所帯かえって来ました。

生きとし生けるものが繋がりあって生きるという田舎の暮らしを都市の中で再現することをここでは目指しあっていたわけですけども、けしてべたべたした人間関係や人のプライバシーを侵すということは一切しない。それぞれ個性的な暮らし方を大事にする。

こうして、公団賃貸住宅には5軒もの子連れ所帯が帰ってきました。

Uコート内5軒。Uコート近隣5軒。48分の10所帯もこのような若者が子連れでふるさとに帰ってきたのであります。

 

都市にあって都市の時代にふるさとはもう存在しないという時代で御座いますけども、しかしこの住民たちは、作るときから、都市にふるさとを作ろうと。でも かつての田舎のプライバシーは一軒一軒間取り自由、一軒一軒価値観自由。しかし、内側にこもるのではなく共同の豊かさというものを生活の中に実現しよう と。

スマートな個人主義と豊かな共同性、コミュニティを育もう。これが新しい時代のふるさとではないかと、実践していく過程で、25年目にしてここで育った子どもたちがぞくぞくと帰ってくると、そんな現象が立ち上がっているのであります。

 

外に出て行った若者たちも先ほどの調査の中で語っておりました。

全国どこに行ってもコンクリートジャングルが広がっているけども、コンクリートジャングルに命の緑のネットをかぶせたような、私たちはよその地域にも、緑 と水と人間が寄り添うような環境共生型の暮らしを育んでいきたいと。身近なところに自然があるのはわずらわしいという人が多いけれども、子どもの遊びに変 える。子どもの遊びにしてしまうと、実はトラブルをエネルギーに変えることになるんやと。

 

こうしてわずらわしいことを遊びに変えてしまうというしなやかな発想を持って、現代日本のどの地域にあっても深刻で悩ましいいろんな問題が多発しているけ ども、その乗り越えは、子どもの視点、住民が主人公の、自分たちがどんな生き方を目指すのかという方向感を分かち合いながら、人も生き物もそして木々も、 皆繋がりあって生きる。

 

そこにはわずらわしさやトラブルがいっぱい起こるけども、それをエネルギーにしていくことで新しい時代の希望というものを手に入れることが出来るのではないかと。

それは地域が変わろうとも必ず出来るのではなかろうかと。

一連の映像を通して私たちにそんなことが語られているのではないかと思うのですがいかがでしょうか。



幻燈会はおしまい。

皆様の談論風発、富山の創造的まちづくりは、はじまりはじまりでございます。

ありがとうございます。

 

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