レポート

まちづくりセミナー2010

まちづくりセミナー第六回講演録  講師:宮口としみち氏

2011/06/14 

「都市の本質的価値はどこにあったか」~コンパクトなまちづくりに寄せて~
講師:宮口侗廸氏 早稲田大学教育・総合科学学術院教授、文学博士

1946 年富山県細入村生まれ。東京大学地理学科、
同大学院博士課程にて社会地理学を専攻。
1975 年より早稲田大学に勤務、85 年より教授。
その後早稲田大学で教育学研究科長、教育・総合科学学術院長を歴任。
総務省過疎問題懇談会座長として過疎法の拡充に尽力。
自治大学校講師、富山県景観審議会会長、富山市都市計画審議会会長等を務め、
地方社会の発展のあり方について発言を続ける。

(※事務局注:本講演は東日本大震災直後の3月12日に行われました。)

 

◆はじめに

まちづくりセミナーはかつては行政のお金でやっていたのが、
予算が削られたときに、『グランドプラザネットワーク(=市民の集まり)』が
これを主催して続けようという試みに大変感動しております。
今まで富山ではあまりそういうことはなかったと思います。

 

◆配布資料「都市と過疎地域」について

去年の3月に過疎地域を支援する法律が拡充延長をされる。
富山市の中では、旧細入村と山田村が過疎地域の扱いを受けている。
それなりの施策が必要だが、そういった都市の真ん中と過疎地域という正反対の場所と
両方付き合わせていただき、ここ数年、それぞれに対極の価値がある。
正反対だけれども両方に価値がある。

過疎地域というのは大変だから
面倒を見てやろうというという時代は終わったのだというのが、私の現在の主張である。

過疎地域では都市郊外の市場原理に基づく、
そういう暮らしとは別の手仕事がなんとか残っている。

そこには人の技がある。
どんどん社会というものは人間の技がいらないように、
誰かの金儲けの仕組みを見つけるわけです。

よくいうのは「バーコード」。昔のレジではあのようなものができない。
バーコードは誰でもできる。つまり、それは安い労働。
そうやってその分誰かが儲けていくわけである。
便利ということは常にそういうこともつきまとう。

そういう中で、人が減り高齢化が進んでいる過疎地域には、
まだおいしい野菜を作るおばあちゃんの技とか蕎麦をうつ名人とか、
そういった人がいる。そういうのは逆に都市の真ん中には少ない。

私は専門が「地理学」という世界である。
地理学というのは、「世の中いろいろ違っている、
どうして違っているのだろう」ということを整理して説明する学問である。

地球上の自然はいろいろ違うが、人間はさらにその上にいろいろな違いをつくってきた。
東京のような大都市もあれば、過疎の村もある。
しかし、それぞれにそれぞれの価値があるはず。
それを見つけ育てるのが地域づくり、だということをずっと言ってきた。

私が、過疎地域と富山市という両方に関わらせていただいているということは、
とても幸せなことである。
世の中には、必ずそれとは対極の地域がある。
ある地域の性格を説明するのに、その地域だけいくら詳しく調べても駄目。
そうでないところがどうなっているか、それを考えながら住む地域を考えなくてはならない。

 

◆配布資料「新地域をいかす」の記事について

下側部分に「若者と地域をつくる」という短い紹介があるが、
これは去年の夏出した本。

私は大都市の学生を田舎にしばらく滞在させるような仕事もやってきて、
学生を受け入れ、地域がいろいろなお手伝いをさせる。
これは「地域づくりインターン」として
20年前から自分のゼミの学生を青森の農村農家に泊めてもらったり、
沖縄の久米島でサトウキビの刈り取りをさせるなど、
そういうような、遠くの人と付き合うことによって、
地域の人には今までなかった発想とか
力が芽生えてくるということをずっとやって、世話をしてきた。

これも実は国交省から予算が切られ、授業としてなくなった。
まちや村は直接学生を募集することはやっているがその顛末を書いた本。

富山市は今、コンパクトなまちづくりを非常に強力に進めている。
やっていることは、私の従来の考えに一致する点があるということで、
それの人間論的な意味合いということを特に強調したい。


1.都市のはじまり


都市というものはどうやってはじまったか。

都市=食べ物をつくらなくても、
住む人間が集まって暮しているところ(宮口先生の簡単な定義)。

人間は食べ物を自分で手に入れなくてはいけない時代があったが、
誰かがつくった食べ物をかすめ取ってきて、かき集めて生きる人間が現れる。
それはギリギリで暮らしている人間からかすめ取っては死んでしまう。

そこには、農業生産の発展、
かき集めてかすめ取っても農村は生きていけるという状態が必要であった。

農業生産の発展という一人で何人分、何十人分もの食糧をつくれるようになったから、
それを横取りし再分配して生きる輩が出てきた。それが都市の始まり。

その再分配の仕組みが確立していけば、都市には多様な職業が生まれる。
そういうことがいつ始まったか、
あるいはそういうことができる力というのは腕力の強い親分であったり、
宗教的に人から崇められている者であったり、
そこに政治的権力か宗教的権力がある。

そうやってシステムが確立されていけば、いわゆる都市の成熟になる。
基本的にはそういった成熟した都市が生まれたのは四大文明の時代である。

文明という言葉はシビライゼーションという英語でいうが、
これはもともと「都市になる」という意味。

日本人は「文明」と書く。文明というものは中国から来た言葉。
中国文明はやたらと文字をつくった、偉大な文字の文化。
中国では人間が画期的に進んだ状態をつくったことを「文明」という言葉で表現した。

ヨーロッパ人は、都市ができたことをもって、画期的な状態をつくった。
そういうふうに考えたから、そこでシミライゼーションという言葉ができた。
都市というものが生まれた、これがまさに文明だという理解。

ヨーロッパ全土に網の目のように広げていったのが、古代ローマ帝国。
紀元前~紀元後数百年続いた、偉大な国。
ローマ帝国というのは軍隊である地域を平定、支配するような、
その真ん中にまちをつくり、その周りを支配し、ほとんどのまちとまっすぐの道で繋がっている。

「すべての道はローマに通ず」、この道がローマが交易的支配を長く続けた秘密。
いつでも軍団が駆けつけられる、いつでも物資を運ぶことができる。
石畳の道で鉄のわっぱをまいた馬車で、
当時のローマの連中というのは丈夫な奴しか役立たなかっただろうが、
こういうまっすぐの道を駆けつけるというシステムの中で、
北アフリカ(カルタモというまち)、イギリスまでヨーロッパ全土を支配した。

今のロンドンはローマの時代には
「ロンドニウム」という人口5万ほどの都市であったといわれている。

すべての道はローマに通ず、と言われるが、
それはたまたま通じているわけではなく通じるようにしたからこそ。

ローマはそこで都市の周りの農村を支配して納めさせる。
そして城壁をつくり、都市の中の人間は「市民」。
日本では「市民」という言葉が単に富山市の住民であれば「市民」というかもしれないが、
ここで言う「市民権」は城壁の中で市民としての権利を与えられた人間のことである。

だから、城壁の中で住み、一歩そこから出るとそこは都市ではなかった。
そして都市には、周りからかき集められた穀物、食糧、財産が貯められていた。
それを守るために城壁というものが必要であった。

都市はそういう意味では偉大なコンテナである。
都市は守りやすいため、丘の上につくられることが多い。
こういった形で都市というものはどんどんつくられていった。
土木工学という学問は、シビルエンジニアリングといって、
これは本来「都市工学」と訳すべきことだが、
日本では土木というのは川の治水、堤防をつくる、
あるいは田んぼに農業用水を上流から引いてくるのが一番の仕事であった。

そういった意味では、日本はまさに「農」の国。
ヨーロッパは都市というものを育ててきた世界。

そういった意味で「土木工学」はヨーロッパでは「都市建設学」として理解しておいた方がいい。
城壁をつくり、建物をつくる。
ローマの時代では、すでに道路は都市の中で格子状につくられていた。
真ん中に大通りが交差し、そこ交差点が「フォルム」。
今のフォーラムの語源となった言葉。

小高い所にまちをつくるため、飲み水がない。
そのため水を高いところから高さを保ったまま引いてこないといけない。
日本では田んぼの水をひくために、
とんでもないものが頑張ってつくられている(熊本:潤通橋の写真)。
川のない大地をなんとか田んぼにするために、こういったものがつくられた。

日本の土木というものは、農、川、水といったものと深く関わっている。
ヨーロッパでは、都市をつくるために様々な技術が育っている。
ヨーロッパでは水道橋などの遺産を活用して今の暮らしがある(コインブラ:水道橋の写真)。

 

2. 都市の中身と形


ヨーロッパでは中心に広場というものを必ずつくってきた。
これはギリシャのアテネの時代からあり、
アテネではアクロポリスという丘の上の神殿が有名だが、
低いところには中心広場(アゴーラ)というものがあった。

ギリシャは直接民主主義と言われるが、
広場での議論などの中から議員というものが生まれていった。
ローマ帝国の時代には中心の交差する大通りの真ん中に「フォルム」があった。

フォーラムによく似た「シンポジウム」という言葉は一緒に飲み食いするという意味。
シン=一緒に、ポジウム=飲み食いする(ラテン語)。

そこをラテン系では、その後「プラザ」と呼ばれるようになる。
要するに、広場というのは人が集まるところで、
その周りにはぎっしりとお店が生まれはりついた。

そこで人がいつも顔を合わせ、刺激し合う。
時には議論があり、会話がある。
そういう人と人の接触の中で、新しいものが生まれてきたのが都市というもの。

都市は出会いの場であって、人が人を眺めるところ。
パリの街角のカフェで1時間ぐらいぼんやり外を眺めている人は結構いる。
それは時代の空気をそこで感じ取ったり、
そこから自分の発想を得たり、人が人を眺め感じる。
そして場合によっては、人と人同士の間に縁ができる。
一緒にビジネスをやったりするようなこともありえる。
人と人が接触し、縁ができる。
これが都市の真ん中の価値である。

都市というものは本来、商業が支えてきた。
工業が都市を支えるようになるのは産業革命以降。
いわゆる機械で能率的にものが作られるようになると、
それが大きな富を生み出す。

ただ、そういう工業というものがいくら盛んになっても、
人と人との接触は生まれない。
実はイギリスの産業革命が始まってしばらくの時代は、
工場労働者の平均寿命は20何歳だと言われていた。
そこでこき使われ、ろくな宿舎も与えられずいう状況があった。

ということで、都市を支える基本はまず「商人」。プラス「職人」。
職人というのは、手仕事の技をもった人たち。
そういう人たちが都市を支える。

広場の周りには商業が集積した。
小さなお店が集まり凝縮された市街地というものが生まれ、
ヨーロッパではこれがかなり維持、受け継がれている。

アメリカはまったく別の世界。合理化、能率化をひたすら求める。
アメリカは異質な人間が集まってつくった移民の国。
簡単に分かり合わない人たちがつくってきた国。
アメリカでは今でも分かり合わないことが基本の国。
そのため弁護士がやたらにいるわけである。

日本は弁護士をあまり必要でない国であったが、
最近はアメリカ化が進み、弁護士が足りない、
その中でぼろ儲けするという状況が生まれている。

パリの裏通りを行くと、今でも小さいパン屋やチーズ屋があり、
そこで会話をしながら買い物をする。
都心にいっぱいの人が住んでいることもあるが、
シャンゼリゼの大通りでも、上の方はマンションである。
そういった小さなお店が今も結構頑張っている。

小さくて強いものがある、これがヨーロッパ。
そこでは人がいつも行き合い、社交性が育つ、会話がある。
そこから、至る所に「カフェ」が出来る。

これが、イタリア、スペインになると
「バール」という朝7時から人がビールを飲むお店がたくさん生まれる。
日本人は少し苦手であるが。

イタリア、スペインでよく言われるのが、
タクシーに乗っていて、走っている最中に絶対に運転手に話しかけてはいけないということ。
彼らは人の目を見ないとしゃべらない。

日本人というのは人の目を見ないで話す天才。
これは徹底的に社交性としては落ちる。
それはひたすら下を向いて田んぼを作ってきたせいだ(とよく私は言う)。

中世の町並みを残すローテンブルクは、観光が最大の産業。
ガス爆発を起こすと壊れるため、ガスは禁止。調理はすべて電気。
今はいい道具が出てきたが、一昔前は電気でご馳走をつくってもおいしくなかった。

また、光るもの(ネオンのような)は禁止で、
鍛冶屋がトントン叩いた看板しか付けてはいけない。
なので、ここで鍛冶屋が150人ぐらい飯が食えていた(10数年前の話)。

・フランス:ディジョン
広場というのはもともとは大通りの交差点。
日本で大通りの交差点というと車が突っ切るイメージがあるが、
ヨーロッパでは普通は突っ切れないようになっている。

ここへ人が集まってくるというイメージで捉えるべき。
真ん中にモニュメントであったり花壇だったりが置いてあり、
多くはロータリーになっている。

パリの凱旋門も大きな12本の道が集まっているロータリーである。
こういう真ん中でぼんやり時を過ごす。
周りにはカフェがある。こういったものがヨーロッパの古い都市の共通の姿である。

・パリ:リオン駅構内
パリやロンドンは長距離の鉄道の駅が真ん中までいかず、
東京の山の手線のあたりで終点があり、
それを繋ぎ、後から地下鉄のようなものができる。
一般にヨーロッパ、特に長距離の駅は改札がなく、
車内検札だけであり、中には必ずカフェがあり、
出発1時間前ぐらいに来てコーヒーを飲み食事をする。
一般にヨーロッパの電車は遅れる。

それは、人がゆっくり乗り降りするのを絶対せかさないで待つというのが当たり前だから。
大きい荷物を持った人がぞろぞろと乗り込めば、10分くらいはすぐ遅れる。
別にそれでいいわけである。

自分だけ先に乗ったから先に出せと言って怒る人はいない。
スペインが特に遅れるのは顕著であったので、
一部新幹線で20分遅れると払い戻すなどの画期的なサービスを始めた。
駅中でも人と人が語る、人を眺める場所として機能している。

・ロンドン:コペンドガーデン(パントマイム)
露天商や旅芸人が集まる広場。
1週間ぐらいそこにいて、また他にいく。
ヨーロッパはまだ旅芸人が顕在。
大分県の湯布院温泉の観光新聞に原稿を書いた際に、湯布院の夜が寂しすぎる、
品の良いエンターテインメントをつくるべきだと書いた。

例えば、今週は落語、今週はマジシャン、
そういった小さい小屋でもあると温泉街、
日本の旅芸人も復活できるのではないか。
こういったことも都市の広場で行われてきたことである。

・おまけ
都市というのは街路の集まり。通りの集まり。

八尾にいくと、通りの両側に家が並んで、それがまちの単位になる。
非常に正当なまちの姿(八尾はかなり細長い)。

京都の祇園祭というのは、向い合った一つの短い通りが仲間である。

日本は都市が拡大するときに、周りの農地を適当に囲み込んで、
ブロック状に都市を増やしていったのでわけが分からなくなっている。
通りがまちの境界になるということはヨーロッパでは絶対にない。

ロンドンでは向い合った家があり、これがまちである。
片方の家が1,3,5,7,9という奇数の番号。
もう片方の家が偶数の番号で住所が決まっている。
都市が拡大するときは通りができ、家が並ぶ。
そうやって拡大していく。京都は平安京という枠組みの中でそういったように整理・発展していく。
これはローマ帝国の時代からの習慣。
ヨーロッパの世界遺産のほとんどは都市。
非常に都市というものが大切に守られ、受け継がれてきた。

 

3. 日本はどういう国か


ひたすら水田を開いてきた国。

◆京都:旧美山町(かやぶき屋根)
日本の農村の姿の原型。
山の下に家があり、家の前に田んぼがある。
水は近くの山から流れてきて、
必要に応じて山から落ち葉を拾ってくれば堆肥ができ、薪もある。
「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に」というのがこういうのが形。

谷川が無数にあり、頑張れば水をどこにでも引くことができる。
ひたすら努力すれば、それに報いてくれる風土。
日本の田んぼの価値はヨーロッパの小麦の価値の8倍。
それは、蒔いた種の何倍採れるかで比較する。
ローマ帝国が威張っていた時代の小麦畑は2倍採れたか採れなかったか。
当時の日本の田んぼは15倍ぐらい採れている。
そこから今は、日本は200倍ぐらい、ヨーロッパの小麦畑は30倍くらい、
両方とも一生懸命努力しているが、その差、違いというものはそのまま。

ということで、日本は田んぼを作れば人安心、末代まで大丈夫だと考える国。
夏に、暑い時期に水があるから命が育つ。雑草も育つ。
日本の農業は雑草との戦いとよく言われてきたが、だからこまめに働く。
そうやって米の収穫をきっちりやってきた。

そういう点では、富山は特にいい所。夏になっても水が枯れることはない。
雪と梅雨の時期、水のもとは違うけれども、必要なときに水がある。
大変これは素晴らしい風土。
ヨーロッパの8倍ほどの価値がある。
だから米一本槍でやってきた。

雪が4m以上降る場所に人が普通に住んでいるのは日本の雪国だけ。
それは、短い夏にひたすら頑張ればそれで食えたということ。
冬は雪に埋もれて寝ていてもよかった。それで可能だった(もちろんいろんな準備作業はするが)。
それが雪国の価値であった。

◆富山市:船倉大地
日本の低くて湿った平野は水が引きやすい。
田んぼをつくるのが簡単。しかし、洪水にも合いやすい。
ここは江戸時代に船倉用水というものを引いて、頑張って田んぼにした。
ここより高い所の水をとってこないと水は流れない。
そうやって全国で努力をして、田んぼを増やしてきた。

日本と農業中心の国。都市中心の国ではない。
都市文化というのは意識して育てないと呆けがえりをする。

◆山口県:すり鉢棚田
曲線が非常にそのまま残された美しい棚田の風景。

◆山越村
ニシキゴイ発祥の地。山がやわらかく、
横穴を掘ると水がしみ出てきて頑張れば山の中腹まで田んぼを増やすことができる。
そこで鯉を飼っていたところ、突然変異でニシキゴイが。
8割は趣味とのこと。写真は棚池の様子。

田んぼがどうしても出来ないところはやっぱりある。
富山は日本一の田んぼの県。水田率(農地の中の水田の割合)が95%を超えるのは富山だけ。
それほどひたすら同じ方向に頑張ってきた。
それは船倉用水や黒部の山奥から引いたものもある。
それは努力したからできたものである。

農村というものは人口が触れたら困るわけで、
それは採れる食糧が限られており、余分な人は出ていく。
そういった人たちが富山では想像のつかないような所にまで住み、
田んぼができないためとんでもないところに作物を植えている。

そこには、すごい風景がある。

◆スペイン
実はヨーロッパは食べるための家畜をひたすら飼ってきた。
山の木を切って、牧草地にし、食べるために1頭でも多い家畜を増やす。
日本の田んぼほど小麦畑は能率が良くないため、畑で頑張ってもしれている。
努力に報いてはくれない。

何に努力したかというと家畜を増やす。
それでもって増える人口を養う。ヨーロッパはそういう方向に向いてきた。

◆オリーブ畑
日本の山には木が生えている。
それは山を使わなくてもよかったということ。
日本だけ。それが田んぼの力。

ヨーロッパでは山を明いっぱい使わないと食べるものが足りない。
オリーブの果樹園でさえ、羊を飼っている。いかに家畜を飼ってきたかということ。

◆スイス
国の食糧自給率が6割近い。自己責任の徹底した国。
国際的な煩わしいことには絶対に巻き込まれない。それだけ農業は大変なこと。

日本は土地との対話がすべて。他人との縁作りというのがどうにも苦手。
同じ集落の中で分かり合って、言葉もきっちり話さないで省略形ですむ。
最後までしゃべらなくても通じてしまう。そういう関係を育ててきた。
話せば分かる程度では駄目。話さなくても分かるという関係が尊ばれてきた。
それはなかなか国際社会では通用しないし、都市の多様な職業の中では通用しない。
土木も治水と農業用水の建設が主体。

 

4. 日本の都市の歩み


大きな都市はほとんどが城下町を起源。
城下町というのは藩主が税を取り立て集めるところ。
しかし、日本には城壁がない。

武士と町人の違いはあったが、町人、農民と市民との間にそうでないという区別はあまり育たなかった。
士農工商などと言って、農民をおだて搾り取るだけ搾り取るという運用がなされてきた。
というわけで日本には市民概念はない。
住民票があるかないかという発想しかない。

ヨーロッパでは城壁の中でちゃんと住める(市民)は区別されていた。
ただし、江戸時代には田んぼが5割増しになり畑の開発も進むため農業生産の飛躍的発展があり、
まちが生まれた。多くの小さな商業都市が誕生した。

富山市の八尾は典型的で、寛永13年に出来た。
大洪水で農村が完全にやられた時に知恵者がいて、
陰陽師というお寺にお参りに来る人を対象に商売をやっていけばやっていけるということを狙い、
門前町としてスタートした。

しかし、八尾が栄えたのはその後。和紙を買い集め、
越中売薬の包装紙として大量に利用された。また、蚕の種を商った。

 

5. 都市のお祭の意義


江戸時代というのは、日本に都市文化が育った時代。
そういうわけで、日本にいろんなお祭りなどが生まれてくる。
農村とは違う凝縮した家が並ぶ。
街道の宿場町に農村と違う仕組みが育っていった。

明治になり、市町村制度が育つときに、まちと村ははっきり分けられる。
最初は家並みがぎっしりある所がまち。それ以外は村。
昭和の合併以前はまちと村ははっきり違っていた。
そのまちでは小さな凝縮された市街地しか「まち」という扱いを受けなかった。

今は、まちと村を人口の大きさを違いと思っているが本来はそういうものではない。
そこではいつも人が行き交い、接触をしていた。

八尾に曳山祭りがあり、おわら風の盆というものがある。
それは、商業というものが栄え、あぶく銭をちゃんと良いこと(習い事)に使う。
農村ではそういったものは生まれない。
農村は豊作になると年貢をたくさん取っていかれるだけ。
いつもは嘘をつく。隠す習慣が日本では、農村では育っていく。
だから、そういった場所では手仕事の技は凄いが、
みんなでお金を出し合ってきれいなものを作ろうという美学は生まれない。

富山県は特に山の多い県。富山の人はいいことに見習うという気性があった。
古い町並みが生まれ、富山市も相当なまちであったと思われるが、富山市はお祭りがなかった。
これが不思議である。

ただ、戦後になってチンドンコンクールを始めた。
金沢の周りには美術工芸文化、輪島塗、加賀友禅、
高岡の銅器も井波の木彫も加賀藩のもとで育ったもので、
これはいいものにきちんとお金を払う人がいなければ育たないということも貴重な都市文化である。

例えば八尾の曳山に井波の彫刻が用いられたり、
輪島塗はいろんな役割分担、塗る専門家や支え合う仕組みが作られてきた。

富山でよくいう「鱒寿し」というものは、私は都市文化だと思う。
神通川が曲がりくねって今の松川の所を流れていたわけで、
あそこで上がった鱒を洗練された形にしたものが鱒寿し。
だから鱒寿し屋は今も松川に沿っていっぱいある。あれが農村部を流れていただけだったら、
ああいうものになったかどうか。
そういうようにいいものに目をとめてお金を払う人というのが都市人。

 

6. 高度成長期以降の日本の都市 特に富山


成長期以降の日本の都市はどうなったかというと、
大きいことは良いことだということで経済成長、拡大成長。
で、だいたい県庁所在地の独り勝ちだというのが全国で進む。
小都市の衰退がある。

一方でモータリゼーションが進行し、車で移動するようになる。
郊外住宅地が作られ、さらにそこにショッピングセンターが建てられる。
一方でシャッター商店街と言われるものもできる。

要するに、市場原理による利便性のみがもてはやされる時代がきた。
それに対して、今は反省の時代。富山県で10年前に行った調査では、
72%で7割を超えたというのは日本で初めての数字。
富山の人がいかに車に乗っている時間が長いか。
200m先にたばこを買いに行くのも車で行かないとこれだけの数字にならないという分析。
それだけ経済的にも恵まれている。

それは早くから工場があるということ。
一人で車に乗っているとそれは会話のない、面倒のことがない時代。
それが一番気楽でいいとすると、
それは、もとから社交性のない日本人の呆けがえりではないかというふうに考えてもいい。
一方で過疎地域というのは出現する。
もう一つ、最近進んでいることに系列化というものがある。
お店、中央資本の系列、チェーン店のみが田舎で威張っているという方向にも動いている。
これらは多くは中央資本の利益。
それに対して下働きだけさせられる単価の低い仕事をしていていいのか、
それに対するがまちづくりでなくてはならないと考えている。
市民と商業活動というものが、協働しなくてはならない。

 

7. あらためて富山を考える


富山は、高度成長期までの日本の優等生。
95%以上の水田率が江戸時代より前に達成されている。

また、売薬というものを発明した。
その売薬で儲けた人が発電所を作っている(大久保発電所)。富山県最初の発電所。
それから富山では水力発電が盛んになった。

次に、電気料を思いっきり下げて、東京の大企業の工場を誘致した。
これが大正の終わりで当時の日本では画期的なことであった。
昔は西富山に製鉄所があった(今は団地になっている)。
北陸線でも駅前ごとに大企業の工場が結構あるはず。これは富山県だけ。
工業団地、工場団地というものを最初に作ったのも富山。

これは行政が土地を用意して企業を呼ぶ。これが全国に普及していく。
こういった富山の歩みは全国をリードしてきた。素晴らしい工業県になった。
しかし、工業というのは人と人の会話を育てない。もくもくと働く。

黙々と米を作るのと、黙々と製品をつくるのはどこか似ているのではないかというふうに思う。
工業が盛んであればあるほど、商業文化というものが逆にあまり育たなかったのではないか。

もちろんお金はまわる。所得は大きく、女性も働くため、
世帯単位の所得は全国でも有数である。
そういうことで、車も買える、家も立派なものを買う。

大型の消費財(家、車)に一番お金がかけられている。それほどお金持ち。
それなりにお金のまわる、だけれども、どちらかというと大型の消費財にお金が使われ、
細かいちょっとシャレたものにあまりいかない。
「小さくて強い店」がちゃんと受け継がれていない、育っていない。
「小さくて強いもの」が少ない。誰かが何かを始めようとすると
「小さいこと」より「もっと大きいこと」を、という会話も結構ある。

人が出会い、縁が育つ場を富山市は積極的に作る必然性があったのではないか。
そしてグランドプラザというものが街なかにも出来た。
ヨーロッパでは広場の周りに店がはりついていたが、
その逆で、商店街の中に広場を作るということでもいいではないか。
その広場のいい使い方を生み出してこそ、それは価値がある。
そこをいい形で使うために、グランドプラザネットワークという
行政の人も市民の人も入っている集まりが出来ているということは本当に高く評価したいと思っている。

公共交通自体も人が出会う場所。
そういう点ではポートラムができ、セントラムができ、
それが中心市市街地に直結していることは本当に素晴らしいもの。
そこで改めてヨーロッパの都市文化というものを知っておいた方がよい。

◆ドイツ:フライブルク
環境都市として有名。真ん中に車を入れない。
商店街は最初は反対したが、実験をして売上は変わらなかった。むしろ増えた。

郊外から来た人はそこに車を停め乗り換える、
非常に能率的な定期券を発行するなどの工夫をしている。
電車と人が共存しているまちというのは素晴らしい。

ドイツはまちの暮らしのルールがうるさいため、
周りに市民農園があるのが普通。そこを借りて花や野菜をつくっている。
そこでビールを飲んだりお弁当を食べたりして1日過ごす。
そういうような都市といういろいろなものが凝縮されている。

ヨーロッパの都市自体が観光地。歩いていて楽しい、
いろいろそこに目を惹くものがあり、味わうべきものがある。そういう長い伝統。

他人もふとその中の空気に入っていける雰囲気がある。
そういう、他人の縁を感じられるような場をつくる。
ユニークな町としては「ベネチア」など。船で行くレストラン。

 

8. コンパクトシティをなぜ目指すのか


都市の活性化は大きくなることではない。
たまたま大きくなる都市があるだけ。
大きくなるということと中を活性化するということはイコールではない。

活性化というのは、私流では「人と人、人と物の間に化学反応が起こりやすい状態」を言う。
人と人が出会って接触して何かが生まれる。
その生まれやすい状態を活性化しているということ。

違う人、違う力を持つ人と人の間に化学反応が生まれれば、
それは協働、コラボレーション。
違う力を組み合わせて飛躍的な力にすること。

昔の日本は同じタイプが集まり、わっしょいわっしょい、
「共同」作業といっていたが、今の「協働」はそういうことだけでない。
違う人が結びつくことが大事。

人と物の間に化学反応が生まれると、商品開発、特産品の開発になるかもしれない。
そういうわけで、グランドプラザネットワークは新しい都市型の協働。
多くの化学反応を生み出してくれるのではないかと。
このセミナーを引き受けようということも一つの反応の結果。
そこにいろいろな人の力を活用する。そういうことで別のいい形が育つ。
富山で画期的なことではないかと。

コンパクトということは、小さい中に多様の人と物が詰まっていること。
そこには多様な出会い、思いがけない人や物、
事(催し)があることによって、何かがさらに生まれる。
そういう刺激が人をより豊かに成長させる。

商店もそういう中で新しい動き、変わるきっかけが生まれる。
残念ながら、単なる単純なものを買うのは、
大手のスーパーやショッピングセンターが便利なことは間違いない。
それに対して、街なかの賑わいは何を目指すのか、
何によって生まれるのかということ。

商店街の単純な復活は困難なので、
まちづくり活動の連携から派生してくる機能。
そういういろいろなきっかけがそこから生まれ得る。

◆香港
香港という所ほど、狭い中に人間にひしめいた、
自由競争という世界だった、こんな珍しい所は世界に二つとない。
中国になってからはその筋がちょっと乱れていると思うが。

電車の2階立ては香港にしかない。
ひたすら自由競争で目立つ看板を作ってきた。まったく自由。
この果てしない競争は台風が解決してくれるというのが昔の話。

 

9. 富山市という広大な空間の価値


富山市は広大な空間の価値を持っている。
中心市街地は今、いい形で動こうとしている。
周りには住宅団地があり、農村田園地帯があり、素晴らしい棚田もある。
今年度のうるおい環境賞に輝いた。そういう山村もある。

しかし、大事なのは、人口が減った過疎の村だから価値がないという発想ではなく、
違う性格を持つ場所には違う価値があるということを皆さんが認識すること。
そういう周辺から街なかに出てきたときに、人は違った価値に出会う。
その刺激が自分の田舎の方の暮らしに対して刺激になることもある。

大事なことはそれぞれの価値を育てること。これは富山市の行政の使命。
「1集落1カフェ論」。村でも人がちょっとしたお金で集まれる場所があった方がいい。
そこからいろんな話が生まれる。いろんな協働が生まれる。
そうやって地域の特徴を活かして新しい試みをする。

◆富岩運河
昔から富山は工業で栄えているが、いくつか工場が撤退していて工場跡地が現れつつある。
ここをどのように使っていくか。貴重な産業遺産の再生をどうやっていくか。

◆街なか地場もん屋
都心が周りの地域と強固なネットワークで結ばれることで新しい使い方が生まれる。
まちの真ん中で見ると、同じ大根でも違って見える。
だから銀座のアンテナショップははやる。
要するに、空気というものがそこにある。

そういういろんな新しい使い方が育つ。そういうことがコンパクトな都心のもう一つの価値。
ものが違って見える。そういう価値がある。日本人は長く同じになろうとして頑張ってきた。
それが昔は田んぼを作ることであった。

田んぼが出来たら、これで人並みになったと一安心。
それから、大きな工場ができる工業都市の時代があり、
高度成長期はとにかく県庁所在地を中心に同じような都市化が進んだ。

しかし、高度成長期に日本は格差社会になっていない。
普通は経済が成長するときには格差が生じる(今の中国や発展途上国など)。
村だから価値がある、都市との違い、違いを活かすという発想に立つ。

富山市という所は、海から山まで多種多様な空間があり、
それぞれの地域で特徴を活かすような仕掛けが
どんどん育っていくということが真ん中の賑わいにも関わってくる。

 

 

◆質疑応答
Q.地震が起こりこれから復興していかないといけないといったときに、
まちづくりという課題が起きてくる。
そういった切り口から新しい今の、
どういったまちづくりが望ましいのかというヒントなどがありましたら・・・

あまりに生々しい瞬間なので…、
結局はゼロからの出発にならざるを得ない。
だから、やっぱり元気な人のネットワークをつくり、
それと行政が一緒になり、何から始めるかという議論が大事。

そのときに慌てて何かに飛びつくような形ではなく(余裕はないのは分かるが)
そこをあえてゆっくり行ってもらいたい。
ゼロからの再出発という認識をなんとか市民に持ってもらうということが大事。
そうしないとやろうと思った際に、そういった時間はないという話になっています。

…とにかく、大変なことです。なかなか今はそれ以上はぱっと言えない。

Q.活動を始めたいと思った際に、どういうふうに団体を探したらよいのか。それが難しい。

団体という発想がよくない。やはり、個人。人をどう繋ぐか。
人口2,3万くらいのまちなら日頃から人の認識というのはある。
団体優先で考えない方がよい。

そのためには、行政の心ある人がいろんな人を日頃からキャッチし、
声をかけ、仲間を作る。

ある団体を探すのではなく、自ら動いて仲間を作る。そういうことが大事。

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